2022年5月8日「神の前に生きて」使徒25:13〜27

序−道徳的で、謙遜で、仕事も真面目にする世の人々を見て、クリスチャンと何が違うのですかという人がいます。イエス様を信じているといない違いだけでなく、生き方にも大きな違いあります。今日の箇所に登場する人々の姿から学ぶことにしましょう。

T−自分を格好良く飾っている−
 フェストゥス総督が赴任して来たので、アグリッパ王とベルニケが、新総督に敬意を表するためにカイサリアに来ました。13節。アグリッパ王とは、ユダヤのうちガリラヤとベレヤ地方の統治をローマ帝国から任されていた領主です。二人が何日も滞在していたので、フェストゥスはパウロの裁判の件を王に持ち出すことにしました。14節。
 前回登場した新総督フェストゥスは、前任のフェリクスと違い、真面目で誠実に対応する賢い役人という観でした。しかし、パウロの裁判についてアグリッパ王に話す内容は、前回の箇所と比較すると興味深いことが分かって来ます。15〜16節。エルサレムで祭司長たちとユダヤ人の長老たちが訴え出た時、罪に定めるように求めました。だから、「訴えられている者が、告発する者たちの面前で訴えについて弁明する機会を与えられずに、引き渡されるということはローマの慣習にはない」とスパッと答えたと言うのです。とてもかっこいい応答です。
 しかし、前回の3〜5節を見れば、陰謀を企んだユダヤ人の権力者たちがエルサレムに連れて来てほしいと懇願しただけであり、フェストゥスもカイサリアに帰るから一緒にくれば裁判をすると約束したに過ぎません。それも、ユダヤ人の反発を避けるようにさりげなく要求を退けていました。ですから、ここでは自分を格好良く飾っています。自分を立派な総督、よく仕事をやっていると見せているのです。
 前総督に比べればとても良い人ですが、自分を良く表し、評価を得ようとしている姿なのです。真面目に仕事をし、良い人だとしても、自分に利することに賢い頭を使っていた人なのです。これは、今日でも多くの人の姿ではないでしょうか。人は自分を格好良く見せたいものです。人に誉められたいものです。私たちは、どうでしょうか。
 それが、時には問題にもなります。人の評価を得ようとし、人の評価を気にするあまり、心が不安定になり、自分を見失うような行動をして、倦みつかれて、病気になってしまう人も多いです。
 また、裁判が始まるところでも、自分をいかに仕事に熱心な者かのように表現しています。17節。「私は時を移さず」と言っていますが、次の日にでも裁判したのでしょうか。6節。事実は、エルサレムに8〜10日ほど滞在した後にカイサリアに帰り、裁判を開きました。迅速に裁判を進める勤勉な役人のように自分を飾っています。こんな細かいところまでと、笑ってしまいますか。
 でも、人は、自分は頑張っていると細かいことでアピールしていないでしょうか。私たちも、そうじゃないですか。認めてもらえなかったら、憤慨するのではないですか。誉めてくれなかったら、面白くないのではないでしょうか。
 そして、裁判の内容についても、自分の有能さをアピールしています。18節。「予測していたような告発理由はなかった」と、自分をさも的確に仕事し、洞察力に長けた能吏であるかのようにさりげなく表現しています。パウロがカエサルへの上訴したことについても、パウロが保護してほしいと訴えたので保護しておいたと、自分が有能で頼られて、守ってあげたかのように表現しています。11,21節。ここまで来ると、脚色です。
このような姿は、フェストゥス一人の姿ではありません。人は誰でも、他人から評価されたいと願っています。無視されるより、認められるほうがいいでしょう。悪く言われるより、良く言われたいでしょう。ですが、そうしているうちに、フェストゥスのように嘘や脚色が入るようになります。そういうことが習い性となり、人格の一部となるでしょう。私たちがそのようなれば、どうですか。

U−大いに威儀を正して−
 自分を飾り立ててばかりのフェストゥスですが、謙遜な姿も見せています。20節。自分の仕事について自慢していたフェストゥスが、「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と言っています。アグリッパ王の前で自信がないように装い、いかにも助けてほしいような素振りをしています。これも、アグリッパ王から好感を持たれたいための演技です。アグリッパ王がエルサレムの神殿と宗教に関する監督権を持っていたからです。
 ですから、アグリッパ王も、それに乗って、パウロの話を聞きたいと言ったので、翌日パウロから話を聞くことになります。22節。その様子を見てみましょう。23節。アグリッパとベルニケは、大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入りました。「威儀」の原語ファンタシアには、華やか、虚飾、ディスプレイの意味があります。王とベルニケは、紫色の高価な服をまとい王冠をかぶっていたでしょう。列席の有力者たちも着飾って出席し、その光景はまるでパーティーのようだったでしょう。皆自分を飾り、自分を誇示していたのです。
 彼らは、何のために集まっていたのですか。そうです。囚人のパウロの話を聞くためです。尋問するためです。一方、ここに引き出されて来たパウロの格好はどうでしょう。彼らの豪華な衣装と比べれば、みすぼらしい格好だったでしょう。2年間の監禁生活でやつれていたことでしょう。華やかな衣装を身にまとっていた列席の人々の姿とは対照的な姿です。
 しかし、そんなパウロを何とみすぼらしい、貧弱な外見であったとしても、パウロの心はいつも神様に向けられており、気高く、立派に証しする姿を想像することができます。反対に彼らの心は、権勢と欲のためにどろどろとしていました。ヘロデ王家は、何でもありの罪の巣窟でした。確かに人は、外見の華やかさや権勢を見るでしょうが、神様は人の心を見られることを覚えましょう。Tサムエル16:7。
 そして、彼らを迎えたフェストゥスは、来賓を迎えるパーティーの司会者のような口調で、列席の人々を持ち上げます。24節。さらに、アグリッパ王の前にパウロを引き出したのは、調べてもらって、確かな報告書を皇帝に送りたいためだと言って、アグリッパ王を持ち上げています。26〜27節。確かに、人は持ち上げられたいでしょう。上席が好きです。マタイ23:6。偉い人に対するように挨拶されるのを好みます。ルカ11:43。だからと言って、嘘偽りはいけません。

V−神の前に生きて−
 この時、華やかな衣装で身を飾り、自分を誇示する列席した人々も、自分を格好良く、有能で勤勉に見せるフェストゥスも、他人からどう見られるかということを一番気にしています。他人の評価を気にしています。他人の目、他人の評価を気にすれば、どうしても彼らのように外見を飾るようになるでしょう。自分をよく見せようとします。果たして私たちは例外なのでしょうか。いいえ、私たちも気にします。時には、それに振り回されてしまうでしょう。何か忘れていないでしょうか。
 イエス様に出会って救われたパウロは、どのように生きていた人ですか。パウロの証しです。使徒23:1「健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」。使徒24:16「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と言っています。パウロがあのような素晴らしい信仰の歩みができたのは、このためです。信仰者として生きることは、神の前に生きるということなのです。
 フェストゥスは、ことごとく自分を良く見せようと飾っていましたが、人の目はだませても、神をだますことはできません。ヘブル4:13。人の目だけを気にして生きれば、外見を飾り、評価を得ようと懸命になるでしょう。偽りや不誠実も入り込んで来ます。気にして翻弄されるあまり、疲れ果て、病気にもなります。大事なことを忘れているのです。
 裁判で聞いたパウロの証言を伝える19節を見ましょう。総督は、復活されたイエス様のことを聞いていました。つまり、福音を聞いていたのです。ユダヤ人社会の高い地位にある人々は、旧約聖書を知っています。人は、目には見えないけれども、天地を造り統べ治めておられる神様の前に生きていることを覚えなければなりません。神の前に生きていると思えば、そのような生き方はとてもできなかったはずです。
 着飾って列席する高位高官たちとパウロの姿のコントラストを想像してみてください。不正と腐敗と不倫の中で生きていた彼らの心の中に平安はなく、不安や恐れもあったでしょう。一方パウロは、福音の力によって平安で感謝をもって生きていました。私たちは、どのように生きるのでしょうか。他人に認められる、評価されることも良いでしょう。しかし、それだけだとしたら、フェストゥスのようにならざるを得ません。
 果たして、私たちはどう生きるでしょうか。聖霊の導きを求め、御言葉に聞いているでしょうか。他人のことを考えながら、主の御心にふさわしく生きようとしているでしょうか。私たちは、神の前に生きようとすることを願います。使徒23:1。



使徒25:13 数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。
25:14 二人がそこに何日も滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して、次のように言った。「フェリクスが囚人として残して行ったひとりの男が一人います。
25:15 私がエルサレムに行ったとき、祭司長たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように求めました。
25:16 そっこで、私は彼らにこう答えました。『訴えられている者が、告発する者たちの面前で訴えについて弁明する機会を与えられずに、引き渡されるということはローマの慣習にはない。』
25:17 それで、訴える者たちがともにこちらに来たので、私は時を移さず、その翌日に裁判の席に着いて、その男を出廷させました。
25:18 告発者たちは立ち上がりましたが、彼について私が予測していたような告発理由は、何一つ申し立てませんでした。
25:19 ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。
25:20 このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに行き、そこでこの件について裁判を受けたいか』と尋ねました。
25:21 するとパウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと訴えたので、彼をカエサルのもとに送る時まで保護しておくように命じました。」
25:22 アグリッパがフェストゥスに、「私も、その男の話を聞いてみたいものです」と言ったので、フェストゥスは、「では、明日お聞きください」と言った。
25:23 翌日、アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入った。そして、フェストゥスが命じると、パウロが連れて来られた。
25:24 フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人がみな、エルサレムでも、ここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えて来たのは、この者です。
25:25 私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていないと思います。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、彼を彼を送ることに決めました。
25:26 ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして彼を取り調べることで、何か書き送るべきことを得たいのです。
25:27 囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは、道理に合わないと思うのです。」


Tサムエル16:7 主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

使徒23:1 パウロは最高法院の人々を見つめて言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」

使徒24:16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

ヘブル4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

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