2022年5月15日「以前の私は」使徒26:1〜12

序−クリスチャンは、様々な場面で自分の証しをする機会があります。どうしてクリスチャンになったのか、信じるきっかけは何だったのか、信仰生活をする以前はどうしていたのか等について聞かれます。そのような時、どのように話すのでしょう。パウロの証しから学びます。

T−おいたち−1〜5
 アグリッパ王の前で取調べを受けることになったパウロが、弁明を始めました。1節。ローマ人やユダヤ人の前で証しをする機会が与えられました。王はユダヤ人の慣習や問題に精通していましたので、自分が救われる以前は、ユダヤ人としてのどのように生きて来たかを証しすることにしました。2〜3節。では、その証しの内容を見ていきましょう。
 まず、パウロの若い頃からの生き方です。4〜5節。生まれは、キリキヤのタルソですが、エルサレムで育ちました。使徒22:3。ローマ市民権を持つ家庭に生まれました。裕福だったようです。若い頃からとは、少年くらいからということです。マルコ10:20。少年時代から先祖の律法について厳格な教育を受けて、パリサイ人として生活して来たと誇っています。同年代の者に比べて、最も学んで精通したと自慢しています。ガラテヤ1:14。出身とか育ちとかそういうことを頼りにするなら、他の人よりももっと人間的なことを頼りにしていたというのです。ピリピ3:4〜5。ちょっと鼻持ちならない感じですが、今のパウロを語るには、必要なことでした。
 これは、言わばおいたちです。人が今現在の自分を語るには、自分がどのように育って来たかということが大きく関わって来るからです。私たちも、そうではないでしょうか。パウロは、生まれて幼い頃生活したのは、外国のギリシャ文化の中、ローマ市民として育ちました。そのような環境から一転して、多感な時代はエルサレムで最も厳格な律法の学派で学び、生活しました。ユダヤ社会で生まれ育つ人よりももっと強烈に律法の影響を受けたことが想像できます。
 私たちのおいたちはどうでしょうか。どんな所で生まれ育ったのでしょうか。どんな家庭で、どのような環境だったのでしょうか。子ども時代、どんな教育を受け、どのようなことを学び、身に付けたのでしょうか。それが、その後の自分に大きな影響を与えて来たことでしょう。結婚生活においても、子育てにおいても、社会生活においても大きな影響を及ぼすようになります。現代社会の様々な問題に関しても、このことが取り上げられています。ですから、私たちは夫婦関係や子育て、人間関係においても、自分がどんなおいたちであったかを思うことがとても役に立ちます。人間関係で起こっている問題に気づき、おいたちの影響を知り、的確な対処をすることができるようになるからです。
 イエス様のように「神と人とに愛されて」育つことが必要です。ルカ2:52。テモテのように、幼い頃から信仰で育つことができれば、感謝です。Uテモテ1:5。外国で暮らしていたパウロの両親は、子のパウロにエルサレムで最高の学問を見につけさせたいと願ったのでしょうか。留学させたとすれば、少年時代両親と離れて育ったことになります。そんな子ども時代の環境が、どれほどパウロの成育に影響を与えたことでしょうか。心の不安定から逃れるためにも、ユダヤ人としての学びと生活に頑張ったことでしょう。

U−以前の自分、−6〜8
 パウロは、最も厳格な派にしたがって、パリサイ人として生活して来ただけでなく、先祖たちに約束されたものを待ち望んで来た自分がユダヤ人として批判されるのはおかしいと主張します。6〜8節。パウロは、人一倍ユダヤ人として、父祖たちに与えられた約束に望みを抱いて生きて来たことを証ししています。その約束とは、やがて救い主が来て、自分たちの身代わりとなって罰を受ける、自分たちを死者の中からよみがえらせてくださるというものです。イザヤ53:5〜6,26:19。
 私たちは、クリスチャンとして信仰していますが、どんな望みを抱いているのでしょうか。どんな希望を持って生きていますか。なぜ教会に来て、なぜ信仰生活をしているのでしょうか。今持っているそれは、聖書が教えている希望ですか。何に望みを抱いているのか考えてみましょう。
 ユダヤ人が誰でも持つ望みなのに、自分はその望みのために裁かれている、訴えられているとパウロは言っています。7,8節。その望みとは、「神が死者をよみがえらせるということ」です。8節。パウロは、ユダヤ人は、復活する望みを神にあって抱いているとこれまでも繰り返しています。使徒23:6,24:15。これが、ユダヤ人の望みの核心でした。
 では、クリスチャンの信仰の核心は何でしょう。私たちの罪のために神の御子が人となって世に来られ、私たちの代わりに罰を受けて十字架にかかり、復活されたイエス・キリストを信じることです。イエス様が十字架の死から復活されることで、罪赦され、天国への命が与えられることです。人の罪と死の問題が根本的に解決される主の復活の事件が信仰の核心です。
 人は生きていれば、様々なことについて罪責感があります。家族に対して、周りの人々に対して、様々な出来事や問題について後悔の念や罪責感が心をとらえています。また、人は生まれて来たら、いつも死の問題が漠然と人生に横たわっています。そのために、時にはどうせ死んで終わりなら、面白おかしく自分勝手に生きようと刹那的になったり、空しさと恐れに落ち込んだりするのです。
 ところが、聖書は、神の御子が世に来られて私たちの死と滅びの身代わりとなって十字架に死なれ、信じる者に罪の赦しと天国への命を与えてくださったと救いの道を教えています。エペソ1:7,ローマ6:23。イエス様の十字架と復活が自分のためだと信じることができれば、罪の囚われから解放され、新しい命で生きることができるようになるのです。聖霊に導かれて、主とともに確かな人生を生きることができるのです。どんなに素晴らしい救いの恵みでしょうか。
 旧約聖書は、その救い主がやがて来られることを教え、復活の希望が与えられていました。しかし、神が死者をよみがえらせるということをなぜ信じられないのですかと言いながら、以前のパウロも、それが分からなかったのです。そのために、以前のパウロは、ひどい罪を犯していました。

V−以前の自分、自分の熱心で−9〜12
 パウロは、福音を知らなかった以前の自分がどんな生き方をしていたかを証ししています。9〜10節。以前のパウロは、イエス様が約束され救い主であることが分からず、イエス様に反発し、イエス様を信じる聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺される時には賛成した迫害者でした。
 なぜこんなことをしていたのでしょう。問題は、人間的な熱心さにありました。イエス様を十字架にかけて殺した祭司長たち律法学者の批判を真に受け、間違った教えを受けて、聖徒たちを迫害したのです。そうすると、祭司長たちや律法学者から誉められるので、ますますそうしました。誉められ、評価されることに熱心に励んだのです。11〜12節。祭司長たちから権限と委任を受けて、国外の町々にまで彼らを迫害しました。
 パウロも、人から認められ、評価されることに熱心になるという価値観に囚われていたのです。その熱心が神様に仕えていると勘違いをしていたのです。神様が人々をそんな酷い目に会わすことなど望まれるはずはありません。自分勝手な思い込みです。人が誉めてくれるからいいのだと思ったのです。
 救われる以前の私たちは、どのような価値観で生きていたのでしょうか。自分なりの誤った熱心さに陥っていたかもしれません。そのことが間違っており、人の心を傷つけていたかもしれません。聖書の価値観に触れてはじめて、それまでの価値観が間違っており、神の御心から外れていたことに気づかされ、悔い改めたものです。Tテモテ1:13。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
 でも、信じてクリスチャンになった後で、自分の熱心でしていることがあるかもしれません。それを神様が喜んでくださらないとしたら、どうなのでしょうか。私たちも、自分なりの熱心に陥る危険があります。自分はいいと思っていますから、我を通し、他人に痛みや害を及ぼします。自分は正しいと熱心になりますが、主がそれを喜んでくださるだろうかと黙想してみましょう。
 祭司長たちや律法学者から間違ったことを教えられ、間違ったことをすることで誉められるので、酷いことをして、罪を犯していたのです。真摯に聖書に聞いたならば、そんな間違いをすることもなかったでしょう。後に、イエス様のことは、ことごとく聖書に教えられていたこと、預言されていたことが分かるようになります。
 私たちも、自分の肉の熱心に陥らないために、御言葉に聞かなければなりません。ローマ10:2〜3。イエス様が喜んでくださるか黙想してみましょう。御言葉の価値観に立っていることか、それとも自分の肉の思いによることなのかが明らかになります。自分の肉のプライドと自分勝手な熱心で生きていたパウロも、悔い改めたイエス様を信じた後は、ただイエス様だけを誇るようになりました。Tコリント1:31。その熱心は、人を救うために宣教の熱心として用いられるようになりました。私たちも、そのようになることを望みます。Tテモテ1:13。


使徒26:1 アグリッパはパウロに向かって、「自分のことを話してよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し出して弁明し始めた。
26:2 「アグリッパ王よ。私がユダヤ人たちに訴えられているすべてのことについて、今日、王様の前で弁明できることを幸いに存じます。
26:3 特に、王様はユダヤ人の慣習や問題に精通しておられます。ですから、どうか忍耐をもって、私の申し上げることをお聞きくださるよう、お願いいたします。
26:4 さて、初めから同胞の間で、またエルサレムで過ごしてきた私の若いころからの生き方は、すべてのユダヤ人が知っています。
26:5 彼らは以前から私を知っているので、証言しようと思えばできますが、私は、私たちの宗教の中で最も厳格な派にしたがって、パリサイ人として生活してきました。
26:6 そして今、神が私たちの父祖たちに与えられた約束に望みを抱いているために、私はここに立ってさばかれているのです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでいます。王よ。私はこの望みを抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいことと考えになるのでしょうか。
26:9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには、賛成の票を投じました。
26:11 また、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。
26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ向かいましたが、

使徒22:3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

ガラテヤ1:14 また私は、自分と同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

ピリピ3:4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
3:5 私は生まれて八日目の割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところのない者でした。
3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

ルカ2:52 イエスは、神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

Uテモテ1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。

使徒24:15 また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身が抱いている望みを、神に対して抱いております。

ローマ6:23 罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

Tテモテ1:13 私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

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