2022年5月29日「使命やビジョンに生きる」使徒26:12〜23

序−本日は、あきる台BCの設立記念の主日となりますが、「この地に福音を伝えるために、私たち自身の霊的整えを」というビジョンと使命をもって設立しました。私たち個人にもビジョンと使命が与えられています。パウロの証しの箇所から、ビジョンと使命について学びます。

T−棒をけるのは痛いこと−12〜15
 パウロは、アグリッパ王の前で、自分の証しをしています。前回の部分は、イエス様に会う、回心以前の自分についてでした。パウロは、クリスチャンを迫害する者でした。祭司長たちから権限を受けて、外国までクリスチャンを捕まえに行きました。使徒26:11。そうして、シリヤのダマスコに向かいました。12節。パウロは、こんな酷いことに熱心だったのです。律法学者や祭司長たちに誉められるからです。自分でも、それがよいと思っていたからです。でも、聖徒たちに会いながら、こんなことをしていいのかなという思いもあったでしょう。
 そのダマスコへ行く途中でイエス様に出会うことになります。13〜15節。太陽よりも明るい光に照らされて一行はみな地に倒れました。その時、パウロは、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」ことだという声を聞いたのです。14節。サウロは、パウロの元の名前、ヘブル語名です。イエス様は、親しく呼びかけられたということです。パウロもしっかり聞きました。
 イエス様が言われた「とげの付いた棒を蹴る」とは、どういうことなのでしょうか。畑を耕す牛を動かすのに、とげの付いた棒を用いていました。牛が勝手な方向に行こうとして棒を蹴ると、痛い思いをします。そこで、無駄な反抗をして痛い思いをすることに使われた表現です。教会を迫害することは、パウロ自身を苦しめることになるというのです。イエス様に反発すればするだけ、苦しみが増すだけだというのです。律法学者や祭司長たちが誉めてくれるといっても、何も悪いことをしていない聖徒たちを捕らえて、死に至らせるのは、心に葛藤を覚え、痛みを感じていたでしょう。
 私たちも、とげの付いた棒を蹴ることをしているかもしれません。そんな時、イエス様が自分の名を呼ばれます。自分にとってとげの付いた棒とは何でしょうか。棒を蹴る行為とは、自分にとってどんなことでしょうか。イエス様が喜ばない自分勝手なことをしていれば、それは自分を痛めつけ、自分を苦しめることになります。
 パウロは、熱心にクリチャンを迫害していましたが、それは、イエス様を迫害していたことだと知らされました。パウロにとって、どんなに大きな衝撃だったことでしょうか。自分ではいいと思ってやって来たことが大きな間違いだったからです。イエス様が主なる救い主だと分かったからです。イエス様に出会うと、自分の姿に気づかされます。
 御言葉に基づいていない熱心をしていないでしょうか。自分のしていることが主の御心に反していないでしょうか。あることに憤慨したり、躓いたりして、自分の肉の思いでしてしまうでしょう。結局、そういうことはとげの付いた棒を蹴ることになり、自分を苦しめることになるのだと悟らせてくれます。時には、自分を省みてみましょう。自分がしていることがイエス様を悲しませ、苦しめているのだと知ったら、私たちもパウロのように衝撃を受け、主に立ち返らざるを得ません。
 イエス様に出会うということは、そういうことを私たちに悟らせてくださいます。それまでのイエス様への反発や福音の否定は、自分にとってはとげの付いた棒を蹴ることになり、自分を神の恵みから遠ざけ、結局自分を苦しめることになっていたのです。

U−あなたを救い出し、遣わす−16〜18
 パウロは、イエス様に出会って、自分の誤りを悟り、悔い改めることになります。人が悔い改めて、救われれば、それで終わりではありません。パウロに使徒としての使命がイエス様から伝えられます。16〜18節。それまでの歩みが主に逆らい、主を苦しめることであるなら、そうではないことをするようになります。救われて、新しい命が与えられるのですから、新しい使命、働き、生き方が与えられます。
 この時、イエス様は、パウロに対して「起き上がって、立ちなさい」と言われました。16節。この表現は、神様が預言者たちを呼ばれる時の言い方です。エゼキエル2:1,ダニエル10:11。神様に呼ばれたのですから、使命を与えられます。その後、繰り返し使命を聞かされます。使徒18:9,22:21。私たちにも、それぞれに使命やビジョンが与えられているのです。
 イエス様を信じて救われたなら、罪が赦され、天国への命が与えられるだけだと思う人もいます。もちろん、信じて救われたなら、天国へ行きますが、それは救われた恵みであって、天国へ行くのがイエス様を信じる目的ではありません。信じて地上で生きているということは、この地で使命があるということです。その使命に生きてこそ、この地上で天国を生きることになります。
 イエス様に救われて罪赦されて永遠の命を与えられましたが、なお地上で生かされているのは、目的があるからです。与えられているビジョンを知っていますか。使命に生きていますか。素晴らしい信仰の生涯を生きた信仰の先輩たちは、使命やビジョンを受けて、その実現のために生きました。私たちを生かしてくださる目的があるのに、使命やビジョンを知らないとしたら、それは問題ではないですか。
 今日私たちは、自分に与えられた使命やビジョンが何であるか探してみましょう。そうすれば、見つけるでしょう。黙想すれば教えてくださいます。従順になってそれを行い生きるなら、また別の使命も与えてもくださるでしょう。
 パウロの証しの核心は、神様の御心を知らないで教会と聖徒たちを迫害していたが、イエス様に出会って救い出されて、使命を与えられたということです。その使命は、福音を伝えるために、異邦人に遣わされることでした。17節。福音を聞いて信じることは、「目を開いて、闇から光に」変えられることだと言われています。18節。パウロも、イエス様に出会って、回心した時、三日間目が見えず、うろこのようなものが落ちて、目が見えるようになりました。使徒9:9,18。
 ですから、パウロは、神様の御心を知らないでいる人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、イエス様を信じる信仰によって罪の赦しを得て、聖なる者とさせることが自分の使命だと確信しました。使命を確信したら、どうするのでしょう。

V−「啓示にそむかず」使命に従う−19〜23
 私たちが使命やビジョンを受けたら、どうすることが重要ですか。使命を与えられたパウロは、その後どうしましたか。19〜20節。「天からの啓示にそむかず」福音を伝えて生きて来たと証ししています。神様からの啓示なので、神様からの与えられた使命に逆らうことなく、福音を伝えるという使命を果たして来たというのです。偉大な働きの背後には、使命があり、それに対する従順があります。主から見せていただいたビジョンを自分の人生に描いていくのです。
 私たちは、悔い改めて、イエス様を信じて救われるのですが、救われていることは、どうして分かるのでしょうか。イエス様は、「悔い改めなさい」と言われただけでなく、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言われました。マタイ3:2,8。救われたならば、悔い改めにふさわしい実を人生と通して示して行くのです。霊的に造り変えられ、主から与えられた使命とビジョンに生きて行くのです。
 私たちが罪から立ち返って、イエス様を信じて救われ、罪赦され、天国への命が与えられたなら、私たちの人生に悔い改めにふさわしい実が見られるようになるはずです。イエス様が自分の身代わりに十字架にかかられるほど私を愛され、イエス様の犠牲によって罪赦されているのですから、当然赦された者愛された者として、他人をゆるし愛するようになるはずです。それが、救いによって変えられた姿です。
 私は何の使命も与えられていないと言う人もいるでしょう。多くの人々が取り立ててビジョンを持って生きているわけではないからです。しかし、救われたのなら、ビジョンが与えられています。生かされているなら、使命を受けています。大きい働きばかりが使命ではありません。家族のために祈り、小さな助けをすることでも、与えられた使命です。子や孫に福音が広がって行くというビジョンを持つこともできます。クリスチャンとして世の仕事をするなら、その職業や職場の生活を通して主の栄光をあらわすという使命を果たすことになります。
 パウロの場合、主から受けた使命を果たして来たのですが、ユダヤ人から憎まれ、迫害を受けました。19節。ですから、私たちが使命に従って生きる時、平坦な道とは限りません。働きがうまく行って、人々から感謝されたらよいのですが、批判や文句を受けることもあるでしょう。
 でも、神様から与えられた使命なのですから、主を信頼して使命に従うのです。神からの助けと導きがあります。任された使命を担って、召される時まで忠実に最善を果たしていくならば、天国へ凱旋した時「よくやった。良い忠実なしもべだ」と主から誉めていただけるでしょう。マタイ25:21,23。



使徒26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ向かいましたが、
26:13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの回りを照らしました。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』
26:15 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人の中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの啓示にそむかず、
26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。
26:21 そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。
26:22 こうして、私は今日に至るまで神の助けを受けながら、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証しをしています。そして、話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。
26:23 すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」


マタイ25:21,23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』


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