2022年6月5日「私のようになってください」使徒26:24〜32

序−クリスチャンが証しをしたり、信仰をあらわしたりしたりする時、他人の反応はどうでしょうか。好意的な反応をする人ばかりでなく、無関心な人や反発する人もいるでしょう。大事なことは、私たちがその反応をどう受け止めるかです。パウロの証しに対する反応とパウロの受け止め方から学びましょう。

T−中傷や揶揄に揺さぶられない−24〜25
 まず、中傷や批判の反応です。パウロの証しを聞いていた総督フェストゥスが、パウロに対して「おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている」叫びました。24節。こんな言い方は、時には問題になる大変失礼な言い方です。ユダヤ州の総督に赴任して来たばかりのフェストゥスですから、ユダヤ人の宗教についてはよく知りません。ローマ人の死生観からは、死者の復活はとても信じられないことだったのでしょう。ローマ人の優越観から発した言葉でした。
 ここで、「頭がおかしくなっている」と「狂わせている」の原語は、マニアとその動詞形です。英語のマニアの語源です。日本でも、あることに熱心な人、愛好家という意味で使われています。「博学がおまえをマニアにしている」ならまだしも「頭がおかしい」と言うのは、侮辱にも聞こえます。現代でも、「そんなこと本気で信じているの」「宗教なんて」などと言う人もいます。しかし、そういう人も色々な物を拝み、信じているのです。フェストゥスも、多くの偶像を拝んでいました。
 そんなものですから、誤解や揶揄する言葉に憤慨したり、揺さぶられたりしないことが必要です。パウロの反応をみましょう。25節。「私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています」と落ち着いて、丁寧に答えています。世の人々が、自分の姿を忘れて、イエス様を信じて生きる聖徒たちを「愚かだ、おかしい」というのは、自然なことなのです。イエス様だって、「おかしくなった」と揶揄されたのです。マルコ3:21。ですから、かえってパウロ自身、自分を「神のために正気を失っている」とさえ言っています。Uコリント5:13。
 こうして、パウロは、人々の「狂っている、おかしい」という声にも少しも揺れることがありませんでした。25節の「真実で理にかなったことば」というように、自分の証しについて確信を示しています。人々の揶揄する言葉や中傷に揺れ動くのは、霊的な問題なのです。パウロのように、霊的な反応をする人は、人々の言葉や態度に揺さぶられないのです。人は、自分が気に入ることは認めて、自分が気に入らないことなら否定するものです。私たちが人の言葉に揺り動かされるのは、他人の評価や称賛をあてにしているからです。
 勘違いをしてはなりません。他人が認めてくれれば正しい信仰になり、他人が悪く言うなら悪い信仰になるのですか。私たちがイエス様を信じるのは、イエス様による救いが真実だからではありませんか。私たちは、自分が主の前にどんな存在であるかを知れば、揺れ動かされず生きることができます。あなたは、他人の言葉に敏感に反応して生きますか。それとも、主の御言葉に反応して生きますか。霊的に造り変えられ、霊的に生まれ変わった人は、神の言葉によって生きて行くのです。

U−反応にがっかりしたり、反発しないで、丁寧に−26〜28.30〜32
 パウロは、罪人として弁明する場面であるのに、堂々と自分の証しをし、大胆に福音を語りました。使徒26:1〜23節。私たちは、その時の状況やその立場によって証しをするのを戸惑ってしまうかもしれませんが、パウロは状況や立場にかかわらず福音を伝えました。パウロは、福音の確信のゆえに大胆に語ることができました。
 証しに対して反発や批判的な反応でない人もいます。そんなアグリッパの様子を見ていたパウロは、アグリッパ王に聞いてみました。26〜27節。フェストゥス総督と違い、アグリッパ王は、ユダヤの王として、イエス様の生涯や教え、その十字架の死と復活、弟子たちの行って来たことを知っていたはずです。ですから、「預言者を信じておられますか。信じておられることと思います」と問いかけました。預言者を信じていると答えれば、預言者が預言している救い主キリストを信じてくださいと言うことができるからです。
 ですから、27節の問いは、それとなく信仰の決断を促したということです。アグリッパ王は、とても驚いたことでしょう。何と答えたのですか。28節。アグリッパ王は、預言者を信じるとも信じないとも答えないで、「わずかな時間で、私をキリスト者にしようとしている」と言いました。「時間」は、原文にはなく、前の訳では「わずかなことば」となっています。「わずかな言葉や時間で私をキリスト者にしようとしている」と言うことで、決心の促しを退けたということです。
 ユダヤ人の手前、預言者を信じないとは言えず、さりとてユダヤ人の王として自分の対面や利害関係のために、イエス様を信じることに進むことを拒みました。少なくとも、その時は、決心する機会を先送りしてしまったのです。好意的かもしれないが、信じることは拒みました。
 他の反応もあります。ここに名前の挙がっている王の姉ベルニケも、王と一緒にパウロの話を聞きました。30節。ベルニケは、何度も結婚を繰り返し、その時はアグリッパ王の王妃のようになっていました。パウロから福音を聞いても、何の反応も見せていません。批判もしていません。無関心ということです。美貌のベルニケは、その後も結婚を繰り返しましたが、心の平安を得ることはできませんでした。
 こうして、フェストゥスは批判し、アグリッパは拒み、ベルニケは無関心という反応を見せました。しかし、彼等は、自分の救いの証しをして、福音を伝えたパウロのことを否定はしていないことに目を留めましょう。31〜32節。少なくとも好感を持ってもらい、その後福音を聞く可能性を持つことができました。この時、パウロが3人の反応に反発したり、がっかりしたりすれば、好感を持ってもらうことはなかったでしょう。
 私たちも、証しや福音を批判されたとしても、関心を持ってもらうことができなかったとしても、良い関係を持って、その場を終えるようにしなければなりません。そうすれば、別な機会が訪れ、福音を聞いてもらえる可能性があるからです。
 クリスチャンは日本の人口の1%にすぎませんが、人々はキリスト教に関連する様々な人物や歴史、文化について学び、キリスト教の美術や音楽にも関心を持っています。クリスマスやキリスト教結婚式も取り入れています。キリスト教文化は、肯定的なイメージで受け取られているのですが、ただ信仰については無関心であって、中味を知らないだけなのです。ですから、クリスチャンとの関わり、その証しが必要なのです。

V−私のようになってくださること−29
 最後に29節のパウロの願いに注目しましょう。アグリッパ王の拒否について、パウロは何と答えたのでしょうか。29節。パウロは、自分の証しを聞いた人々が「この鎖は別として、私のようになってくださること」を神に願っているというのです。鎖につながれ、ぼろぼろの服を着て、やせ衰えた姿、そんなパウロの現実がどれほど悲惨に見えるでしょうか。それでも、イエス様を信じて、救われ、主に愛され、用いられているということの幸いの方があまりにも良いというのです。イエス様を信じる信仰が、悲惨な現実よりはるかに尊い価値を持っているということです。
 パウロが鎖に縛られているという現実の問題を持っていたように、私たちも、健康の問題、経済的な問題、子供の問題、仕事の問題など様々な問題に縛られています。それらの問題が複数重なれば、悲惨な現実と見えるでしょう。それでも、信仰が薄れて、悲惨だと思ってはならないのです。もし、パウロが、鎖に縛られた自分を悲惨と思っていたならば、「私のようになってください」とは言えなかったからです。
 次々と問題が起こって来たとしても、イエス様を信じて救われていることの方がはるかに素晴らしい価値を持っているので、「私のようになってください」と告白できるのです。そういうことを、パウロの姿は教えているのです。パウロの肉体は罪人のように鎖に縛られていますが、たましいは自由でした。だから、「私のようにイエス様を信じてください」と言えたのです。
 世の中のどんな問題が自分を縛りつけて来たとしても、イエス様を信じていることが遥かに素晴らしい価値があるという聖なる誇りがあれば、霊的戦いに勝利できるのです。この聖なる誇りがある時、悲惨な環境と思われる中でも振り回されたり、落ち込まされたりしないで、主の前にたつことができます。聖なる誇りがある時、環境を乗り越えて、確信をもって信仰に生き、大胆に福音を伝えることができるのです。
 パウロは、「私に倣う者になってください」と繰り返し語っています。Tコリント4:16, Tコリント11:1。イエス様が自分のために犠牲になるほど私は愛されているのだという聖なる自尊心があるならば、現実の問題に縛られずに「私のようにイエス様を信じて救われるようになってください」と言えるのです。そして、この聖なる自尊心が、現実の問題を乗り越えさせてくれるのです。使徒26:29。



使徒26:24 パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている」と言った。
26:25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。
26:26 王様はこれらのことをよく知っておられるので、王様に対して私は率直に申し上げているのです。このことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王様がお気づきにならなかったことはない、と確信しています。
26:27 アグリッパ王よ、王様は預言者を信じておられますか。信じておられることと思います。」
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかな時間で、私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。
26:29 しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと、長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
26:30 ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。
26:31 彼らは退場してから話し合った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」
26:32 またアグリッパはフェストゥスに、「あの人は、もしカエサルに上訴しなかったら、釈放してもらえたであろうに」と言った。


マルコ3:21これを聞いて、イエスの身内の者たちは、イエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。

Uコリント5:13 もし私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

Tコリント4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。

Tコリント11:1 私がキリストを倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

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