2022年6月26日「与えられた責務を果たす」使徒27:27〜44

序−神がパウロに同船している人々を与えているということを学び、私たちも周りの人々がそういう人たちなのかと気づかされました。きょうは、パウロが嵐の中でその与えられた責務をどう果たして行くのかを学びながら、私たちへの適用を学びます。

T−水夫たちの逃亡を防いで、人々を守る−27〜32
 前回の箇所では、パウロは、神様から助かるということを聞いたから元気を出しなさい、どこかの島に打ち上げられますと人々を励ましました。御言葉があったとしても、すぐには助かりません。それでも、パウロは希望を失うことなく、経過を観察しています。27〜28節。良い港を出港して14日目の夜、神の言葉を聞いてから1週間ほど経って、ようやく陸地に近づきました。水深を測ると、陸地に近づいているのは間違いありません。人々は、喜んで、夜が明けるのを待ちわびました。29節。
 ところが、ここで事件が起きます。29〜30節。大型船で陸地に近づくということは、座礁する危険が大きいです。水夫たちは、よく分かっています。嵐の中限られた小船で陸地に近づかなければなりません。水夫たちは、自分たちだけ助かろうとひそかに小船を降ろしていました。こんな時にそんな酷いことをするなんて、それがパウロに見つかりました。
 この時注目すべきは、パウロは何もしなかったのではないということです。人々は、パウロの提案を蹴って出航して、嵐に襲わされました。自分の忠告を無視したのだから、後何が起ころうと知らないということではありません。与えられた責務を果たそうと船の人々を見守っていたから、この事件に気づいたのです。私たちも、神からの約束と共に、しなければならない責務をいただいていることに心を留めましょう。
 水夫たちこそ、最善を尽くして船に乗った人々を助けなければならない責務を負っていたのに、その責務を果たそうとしませんでした。自分たちだけ助かればいいという自己中心どころか、自分たちのせいで人々が死んでも構わないというエゴぶりです。これが、人の罪の姿です。自己中心というのは、罪につながるものなのです。イエス様は、このような人の罪のために十字架にかかられたのです。Tペテロ2:24,3:18。
 パウロはすぐに行動します。嵐の中上陸するには、水夫たちが必要です。31節。百人隊長や兵士たちにそのことを知らせて、水夫たちを船に留まらせました。パウロを信頼していた百人隊長は、兵士たちに命じて小船を捨てさせました。確かにパウロが同船している人々を守っています。
 問題や事件の中では、罪の姿があらわれることも多いです。そんな時、人は自分のことでいっぱいです。自己中心、他人のことを省みないというのは、水夫ばかりでなく、人の罪の姿です。ですから、そのコミュニティーにいるクリスチャンが、人々を見守り、自分にできることで周りの人々を助けるようにとそこに置かれているのです。自己中心にならず、人のことを顧みるようにと、聖書は教えています。ピリピ2:4。私たちにも、同船している人々が与えられています。そこでの私の責務は何だろう、どんなことが果たせるだろうかと考えます。

U−食事を取らせて、人々を助ける−33〜38
 錨が降ろされて、船が止まり、兵士たちや水夫たちのこの騒ぎが聞こえたのでしょうか。みな甲板に出て来たようです。陸地に近づいていることを知り、パウロの言った通りだと分かりました。26節。そこで、パウロはみなを前に話します。33〜34節。
 ここで分かるのですが、船の人たちは、14日間つまり嵐にあってからほとんど食べていなかったようです。激しい船酔いのせいでもあったかもしれませんが、嵐で翻弄され、絶望していたからです。人は何かの問題で悩んだりするだけでも食欲がなくなったりするものです。どこを流されているかも分からず、何をしても助かる望みはなく、憔悴し切っていたのです。どれほど絶望して、落ち込んでいたのでしょう。
 人は希望を持つことが必要です。ですから、パウロは、「これで、あなたがたは助かります」と言って、食事をするように勧めています。助かるのだと言われてはじめて、食欲が出て来るのです。こうして、パウロは委ねられた責務として、人々の体力面を気遣いました。でも、なぜわざわざパウロは、人々を励まして食事をするように指示したのでしょう。
 パウロは、同船している人々を助けるように神様から任されています。これから上陸するためには、体力が要ります。小船はありません。泳いで上陸しなければなりません。座礁すれば、そこから海に飛び込まざるをえません。食べていなければ、体力が持ちません、陸地を前に海に沈んでしまいます。食べて元気を出すという姿が、聖書の中に散見されます。イゼベル女王を恐れて逃げ、自暴自棄になっていたエリヤを立ち上がらせたのも、御使いに勧められて食事をしたからです。イエス様の十字架の後、意気消沈してガリラヤ湖に戻っていた弟子たちに、イエス様が食事を用意された光景も思い出します。落ち込んだら、希望を持って食べるのです。
 パウロは、この時そういうことを考えて、食事を勧めていたのです。この時人々に食事をさせることが何よりも必要でした。人々を神様から委ねられたクリスチャンにとって、この人たちにとって何が必要かと考えるのです。分からなければ、主に助言を求めて、聞きます。詩篇32:8。
 よく見ると、ただ食事をしただけではありません。35〜36節。パウロは、「神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」というのです。まるで聖餐式のようです。イエス様のことを証ししたでしょう。私たちにすれば、食前のお祈りも証しとなることでしょうか。神様によって嵐の中で命を守られたのですから、同船していた人々も、パウロの信じる神に感謝しながら食べたことでしょう。船の人たち276人とは、その一体感を示しています。確かに、皆元気づけられ、共に食事をしました。十分に食べた後麦を捨てて、座礁しないように船を軽くしました。38節。
 パウロは、頭から髪の毛一本失われることはありませんと言って、人々を励ましましたが、これはイエス様の言われたことです。ルカ21:18。ガリラヤ湖で食事を用意されたイエス様の姿も、最後の晩餐の様子も、弟子たちを通して聞いていたでしょう。そんなイエス様の姿が、この時のパウロの姿に影響しているようです。パウロ自身、私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってくださいと言っています。Tコリント11:1。私たちも、委ねられた人々に仕え、助けるのに、イエス様ならどうされるか考えながらしたいですね。

V−百人隊長を通して守られる−39〜44
 夜が明けると、砂浜のある入り江が見えたので、船首の帆を上げてそこに向かって進んで行きました。40節。ところが、心配していた通り、船は浅瀬に乗り上げて、座礁してしまいました。41節。ここで、もう陸地が近くに見えるという段になって、事件が起こりました。42節。何と、兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうとしたというのです。当時、囚人を逃がしたら、見張りの兵士が罰を受けて死刑になったそうです。ピリピでパウロたちが入った牢が地震で壊れた時、囚人たちが逃げたと思った看守が自殺しようとしたのは、そのためにです。使徒16:27。パウロに留められて、この看守は助かりました。
 上陸の時に囚人が逃げてしまったら、自分の命が危ない、それならば、逃げる前に殺してしまおうとしたのです。つまり、命の恩人であるパウロを殺してしまおうとしたのです。自分が助かりたいために、囚人の命を犠牲にしようとし、恩を仇で返すとても自己中心的な考えでした。ここにも、人の罪の姿があらわれます。自分中心に考えたら、囚人を護送するという責務を放棄しようとしただけでなく、自己保身のために、人を殺そうとしたのです。そんな人々の中で生きる私たちは、御言葉に従うのです。
 でも、恩を忘れない人もいました。43〜44節。百人隊長が、パウロを助けたいと思い、兵士たちの企てを阻止してくれました。この人は、護送の旅が始まった時から、パウロを信頼し、好意的でした。使徒27:3。前線の部隊を指揮して、命をかけて責務を果たそうとする百人隊長は、パウロの生き方に通じるものを感じたのでしょう。考えてみてください。パウロを助けるために兵士たちの計画を阻止したということは、もしもの時は自分が罰を受けるかもしれない、つまり自分の命をかけてパウロを守ったということです。そして、全員を上陸させました。破船はしたものの、パウロと同船していた人々は全員命が助かりました。これが大事です。
 もちろん、ここに神の介入があったのでしょうが、命がけで仕え、同船の人々を助けようとしているパウロの姿勢に応えて、百人隊長もパウロを自分の命をかけて守ったのです。この百人隊長が信仰を持つようになったかは分かりませんが、それを示唆する記録があります。ピリピ1:12〜13。「私の身に起こったこと」で、パウロがイエス様のゆえに囚人になっていることが親衛隊の全員に明らかになったとは、この人によることでしょう。
 この箇所は、神様から同船する人々を与えられたパウロが最後までその責務を果たしている姿です。神の言葉に信頼して希望を人々に与え続けました。人々の様子を見守っていました。イエス様に倣って人々を助けました。どんな所でも、イエス様を証ししました。結局イエス様を倣っているパウロの姿でした。この姿に、私たちも倣うことを願います。Tコリント11:1。






使徒27:27 十四日目の夜になって、私たちはアドリヤ海を漂っていた。真夜中ごろ、水夫たちはどこかの陸地に近づいているのではないかと思った。
27:28 彼らが水の深さを測ってみると、二十オルギアであることが分かった。少し進んでもう一度測ると、十五オルギアであった。
27:29 どこかで暗礁に乗り上げはしないかと恐れて、人々は船尾から錨を四つ投げ降ろし、夜の明けるのを待ちわびた。
27:30 ところが、水夫たちが船から逃げ出そうとして、船首から錨を降ろすように見せかけ、小舟を海に降ろしていたので、
27:31 パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません」と言った。
27:32 そこで兵士たちは小舟の綱を切って、それが流れるままにした。
27:33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めて、こう言った。「今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口にいれず、食べることなく過ごして来ました。
27:34 ですから、食事をするように勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。」
27:35 こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。
27:36 そこで皆も元気づけられ、食事をした。
27:37 船にいた私たちは、あわせて二百七十六人であった。
27:38 十分に食べた後、人々は麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。
27:39 夜が明けた時、どこの陸地かよくわからなかったが、砂浜のある入江が目に留まったので、できればそこに船を乗り入れようということになった。
27:40 錨を切って海に捨て、同時に舵の綱を解き、吹く風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。
27:41 ところが、二つの潮流に挟まれた浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。船首はめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波によって壊れ始めた。
27:42 兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと図った。
27:43 しかし、百人隊長はパウロを助けたいと思って、彼らの計画を静止して、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がり、
27:44 残りの者たちは、板切れや、船にある何かにつかまって行くように命じた。こうして、全員が無事に陸に上がった。


Tペテロ2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒された。
3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

ピリピ2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

詩篇32:8 わたしは、あなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたがたに目を留め、助言を与えよう。

ルカ21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。

Tコリント11:1 私がキリストを倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

ピリピ1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、

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