2022年7月3日「備えたもう主の道を」使徒28:1〜10

序−塞翁が馬という故事成句があります。幸せも不幸も人間の期待した通りにはならず、何が禍となり何が福となるか分からないことを説明したものです。確かに、そういうことはあるでしょう。しかし、そのようなことを越えた神の導きがあることを今日の箇所は教えています。

T−因果応報か−1〜6
 嵐の中を翻弄された船が奇跡的にとある島に流れ着きました。上陸してから、その島の名はマルタ島だと分かりました。1節。マルタ島は、イタリヤのシチリヤ島の南に位置する、地中海の真珠と呼ばれる美しい島です。大きさは、東京23区の半分ほどです。どんな人々が住んでいたのでしょう。2節。島の人々はとても親切で、見知らぬ漂流者を助けてくれました。幕末の開国以来の日本でも、遭難した外国船の人々を地元の村人が親切に救助し、もてなしたという話がいくつもあります。
 この「島の人々」と訳された言葉は、バルバロイ、つまりギリシャ語を話せない未開人という意味です。未開の原住民かもしれませんが、とても親切な人々で、漂流者を歓迎してくれました。2週間にわたる嵐で漂流してようやく助かったものの、ここで事件が起きます。3節。嵐の中九死に一生を得たのに、パウロが毒ヘビにかまれたのです。せっかく嵐から助かったのに、どうしてこんなことにと思うところです。そういうことが、私たちの人生にも起こります。その時、どのように考えますか。
 島の人々の反応を見てください。未開人ならではということを言っています。4節。パウロの手に付いた鎖を見て、「凄い嵐の中から助けだされたのに、毒蛇にかまれるなんて、きっと極悪人に違いない」思ったのです。現代人も考えそうな、いわゆる因果応報でしょうか。いい加減な勝手な考え方です。塞翁が馬の場合は、何が禍となり何が福となるか分からない、目の前のことで一喜一憂するなと教えています。
 この時だって、パウロは火が消えないようにと火にくべたようです。パウロっていう人は、こんなところまで気を配って、仕えていた人なのですね。やっと嵐から助かったと思ったのに、私はここまでなのかと絶望するところです。しかし、パウロは失望しません。神様が、「ローマまでも証しをしなければならない」と言われたからです。使徒23:11。
 ですから、私たちも、自分の思うようにならないから、問題ばかり起こるからと言って絶望したり、諦めてはならないということです。神様の導きと召しを信じて行くのです。NLSや受洗準備クラスで学ぶことで、「確信の学び」というものがあります。何か問題の中で私たちの信仰を揺るがすサタンの試みがあるが、その度にその時に相応しい御言葉を思い出し、確信を持つという学びです。例えば、救いの確信Tヨハネ5:11〜12、勝利の確信Tコリント10:13、導きの確信箴言3:5〜6などです。
 パウロも、自分を召してくださった神様への確信がありました。使徒19:21。神様に守られたパウロは、何の害も受けませんでした。そのパウロの様子を見ていた島の人々は、さっきまでは人殺しだと言っていたのに、一転して「この人は神様だ」と言い出しました。5〜6節。これが、未開人の考え方でした。いや、現代人も、いいことがあれば、あの人は正しく生きている人だからだと言い、問題があればあの人は何か悪いことがあるからだと言うのです。パウロは、何の言い訳もしていません。私たちは、神様の前に生きる者であり、私たちを証明してくれるのは神様です。

U−もてなしと癒し−7〜9
 この事件の後、島の長官プブリウスと言う人が、船の人たちを招いてくれて、三日間親切にもてなしてくれました。7節。食べ物も与えられ、衣服も整えられたでしょう。パウロがヘビにかまれたという事件が、結果的には、島の大地主のもてなしを受けることができるようにしたということです。神様の導きを感じます。幸、不幸を簡単に決めてはならないということです。問題があっても、神の御手の中、次へとつながって行くのです。
 島の人たちは、親切でよく助けてくれる人々でしたが、その長官のプブリウスも、力ある者として気前良くもてなし、助けてくれました。ルカ6:38。聖徒たちは、自分に与えられた人々に信仰で仕え、助けるように導かれています。この島の人たちのように自分にできることで周りの人々を助け、島の長官のようにもてなしということで助けることもできるでしょう。もてなしの基本は、「人からしてもらいたいことは、あなたがたも同じように人にしなさい」というのが聖書の教えです。マタイ7:12。
 もてなしと言えば、もてなしを受けたらこちらも何かしてさしあげなければと日本社会では考えます。義務的なこともあるでしょうが、こちらもしてあげたいと思うのは自然のことです。ここでも配慮の人パウロは、もてなしをしてくれたプブリウスのために何かしてあげたいと思いました。8節。長官の父親が、発熱と下痢で苦しんで床についていたのを知って、その人に手を置いて神に祈り、癒やしてあげました。これは、神様の力によって癒されたということです。私たちも、人々の問題や癒しのために神の導きや癒しが与えられるように、とりなし祈ります。
 こういうことって、すぐに島中に広がります。そうすると、それを聞きつけた島中の病人が来て、治療を受けるようになりました。9節。8節も9節も「癒した、癒しを受けた」と訳されているのですが、原語は違う言葉が使われています。8節の方は奇跡的に瞬時に癒されたという意味ですが、9節の方は医学的な治療を継続して受けたという意味合いがあります。ですから、大勢次々とやって来た島の病人については、医者であるルカがその後治療にあたったようです。船の人々が島に滞在している間、ルカたちによる島の病人の治療は続いたということです。
 島の人々にとってどんなにありがたかったことでしょうか。これも、島の人々の親切な救助やもてなしをしてくれたからです。人々に仕え、助けるならば、自分も助けられるようになるというのは、聖書の教える真理です。ルカ6:38。情けは人のためならず、人を助けた者も、やがて人から助けられる時があるということです。イエス様に命を救われた私たちは、当然人を助けるのですが、自分も人によって助けられるのだと思いながら、人に仕えたいものです。

V−福音というお返し−10〜11, マタイ10:42
 パウロたちは、島に3ヶ月間、つまり冬の期間、滞在することになります。11節。滞在できただけではありません。10節。島の人々は、船の人たちが島を船出するときには、必要な物を用意してくれたというのです。どうして、ここまでしてくれたのでしょう。医療行為をしてもらったからだけではないでしょう。10節に「人々は、私たちに深い尊敬を表し」とあります。精神的な影響、霊的なことの貢献がうかがわれます。
 それは、何でしょうか。パウロは、3ヶ月間何をしていたと思いますか。パウロのことです。福音を語らないはずがありません。癒しや治療を受けた人々が、話を聞きに来たでしょう。パウロは、福音を語ったに違いありません。この島に残されている伝説では、パウロのこの時の滞在がマルタ島のキリスト教の始まりであると言われています。冬の3ヶ月間、地中海の航海はあまりされません。たっぷりと時間があります。パウロから福音を聞き、島の人たちに信仰が確実に広がって行ったことでしょう。
 これまで嵐の時には奇跡が起きていないのに、この島に着いてからは、ヘビから守られたこと、島の長官の父親が癒されたことと立て続けに奇跡が起きています。神様が積極的に働いてくださいました。なぜでしょう。福音のためです。島の人々が心を開いてパウロの語る福音を聞くようにさせるためです。奇跡が起こる時は、そういう時が多いのです。
 こうして、パウロたちを親切に迎えて、助けてくれた島の人々は、パウロを通して福音を聞き、イエス様による救いを信じて、永遠の命を得ることができました。パウロというキリストのしもべを助けることで、真の命と確かな信仰にある人生を得ることができました。マタイ10:42。パウロたちに対して深い尊敬を表すのは当然でした。
 聖徒たちが、福音を伝える、イエス様を証しするということは、人々にたましいの救いと永遠の命を与えることです。これ以上の素晴らしい働きはありません。世にあってイエス様を信じる私たちに親切にし、小さな助けをしてくれた人々も報いを受けることができます。イエス様が「決して報いを失うことがありません」と約束されているからです。マタイ10:42。
 こうして、パウロたちは親切なマルタ島の人々によって助けられ、マルタ島の人々もパウロによって救いと永遠の命を得ることができました。奇跡を起こせるなら、嵐に会わなくてもよかったのではないか。良い港で冬を過ごせるように導いてくれればよかったのではないか。そう思います。しかし、嵐にあって漂流しても、パウロを助けるために親切な人々のいるマルタ島に導いてくださいました。マルタ島の人々を救うためにパウロを島に導いてくださったのです。
 神様には、目的があります。パウロをローマまで導き、福音を語らせるために、マルタ島に漂着させ、滞在させて、マルタ島の人々を救ってくださったのです。それが、神が備えてくださった主の道だったのです。人生の海の嵐の中を進む私たちの人生も、主が備えてくださった道があります。私たちにとってのマルタ島は何でしょうか。使徒23:11。



使徒28:1 こうして助かってから、私たちは、ここ島がマルタと呼ばれていることを知った。
28:2 島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。雨が降り出していて寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなを迎えてくれた。
28:3 パウロが枯れ枝を一抱えの集めて柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしが這い出して来て、彼の手にかみついた。
28:4 島の人々は、この生き物がパウロの手にぶら下がっているのを見て、言い合った。「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」
28:5 しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。
28:6 人々は、彼が今にも、腫れ上がってくるか、あるいは、倒れて急に倒れて死ぬだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に何も変わった様子が見えないので、考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。
28:7 さて、その場所の近くに、島の長官でプブリウスという名の人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して、三日間親切にもてなしてくれた。
28:8 たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についていた。パウロは、その人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒やした。
28:9 このことがあってから、島にいたほかの病人たちもやって来て、癒やしを受けた。
28:10 また人々は、私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた。


Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

マタイ7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

ルカ6:38与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、自分も量り返してもらえるからです。」

マタイ10:42 まことにあなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

使徒23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。



戻る