2022年7月24日「ああ、なにゆえに」哀歌1:1〜6

序−「夏草や兵どもが夢の跡」とは、松尾芭蕉が平泉で奥州藤原氏の栄華の跡を俳句にしたものですが、そこで杜甫の春望「国破山河在、城春草木深」を思い出して、時が過ぎるまで涙しました。聖書の哀歌もまた、南ユダ王国の滅亡とエルサレムの荒廃を嘆いた歌です。

T−ひとり寂しく、泣きながら−1〜4
 以前学んだU列王記の最後に学んだように、バビロン帝国によって南ユダ王国が滅亡し、エルサレムと神殿が破壊され、人々が捕囚として連れ去られました。旧約聖書をギリシャ語に訳した七十人訳の哀歌の序文には、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが廃墟とされた後に、エレミヤが座して泣き、エルサレムのために哀歌を作って言った」とあります。
 哀歌の冒頭は、エーハー「ああ」という間投詞で始まります。「ああ、なにゆえに、何としたことか」などと訳されますが、その嘆きや悲しみを意味する言葉から、哀歌と名付けられています。哀歌は、1節から22節までの各節、ヘブル語のアルファベットで始まっています。日本でのいろは歌のようになっています。記憶と歌のためにそうされているのでしょう。イスラエルの歴史では、しばしば人々の集まりで読み上げられました。
 では、その滅亡後のエルサレムの惨状を見てましましょう。1〜2節。かつて繁栄していたエルサレムが女王と呼ばれましたが、滅亡して破壊され、人が満ちていたエルサレムには人がいなくなったと言われています。友もみな裏切り、彼女の敵となっているというのですが、ユダと軍事同盟を結んでいた国々はみな、バビロンが来た時には背を向けました。エドムにいたっては、バビロンに倒されたエルサレムを略奪したのです。
 慰める者はだれもいなくなり、友もみな裏切り、敵となっているというのです。ひとり寂しく、すべての者から見捨てられ、切り離されているという徹底的な孤独感が強調されています。私たちが、こんな状況になったら、どうでしょうか。時には、そのような心情に陥ることがあるかもしれません。とても辛いでしょう。嘆き、泣きくれるでしょう。
 泣きながら夜を過ごし、涙が頬を伝っているというところに、日々深い悲しみに打ちひしがれている様子が現れています。何もかも失い、ひとりぼっちで、慰めてくれる者もいない、自分は愛していたのに、彼らのだれも自分を慰めてくれないのです。私たちがそんな気持ちになったら、どんなに寂しく心痛むことでしょうか。
 悲しみが深いのは、国が滅びて都が破壊されただけでなく、神様が選んだ国が滅び、神が選んだ民が苦しみ、神殿が廃墟となったからです。3〜4節。捕囚になったその地では、民は労役と苦しみの中にありました。廃墟となった神殿に行く者はだれもなく、祭司たちは呻いています。信仰者のゆえの深い悲しみと憂いが満ちています。私たちも、信じているのに、なにゆえにこんな目に会うのかという憂いと悲しみに陥ることがあるでしょう。余計に憂いと悲しみは大きいのです。
 ですから、ユダ・エルサレムは、かつて神の花嫁と呼ばれましたが、今ややもめとなっていると言うのです。私はひとりぼっちだ、私は愛したが、だれも私を慰めてくれないと嘆きます。しかし、それは、違います。エレミヤ31:3。その時も、「わたしはあなたを永遠の愛をもって愛し続け、誠実を尽くし続けた」と主なる神は言われています。

U−なぜ滅亡したのか−5〜6
 では、なぜエルサレムは滅亡したのでしょうか。5〜6節。主なる神は、ユダを愛され、エルサレムに誠実を尽くされました。しかし、義なる神はその背きの罪が多くなれば、戒めをくださざるをえません。神は愛なるお方であると同時に、義なるお方だからです。シオンなるエルサレムから神の栄光が去り、青草のない鹿のようになったのです。
 エレミヤ書は、エルサレムが滅びる時の記録です。ユダの犯した罪とは、どれほどのものだったのでしょうか。エレミヤ3:6〜9。ユダを背信の女と言っており、姦淫も姦通も偶像礼拝のことです。彼女の方が神の愛を裏切ったのです。木や石で作られた偶像をおがみ、神に対して霊的姦淫を犯した。忌むべき偶像礼拝の罪を犯したのです。それゆえ、「彼女の多くのそむきのゆえに、主の憂いを与えられた」のです。時として、私たちの涙は、自分の願いと行動の結果だということもあります。
 エレミヤ書は、御言葉に聞き従う者を探したが、見つからず、悔い改める者もいなかったと言っています。エレミヤ5:1〜3。永遠の愛をもって愛し続け、誠実を尽くし続けた神に背き、エルサレムが背信の罪を重ねたのでした。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、民はそれを愛していると言われています。エレミヤ5:31。こうして民に迎合した指導者たちも堕落しました。こうして、指導者たちまでが堕落したエルサレムの罪は重く、すべての人が堕落して、ついに戒めを受けることになりました。エレミヤ6:13〜15。彼らは、エレミヤの警告を受けても、大丈夫だ、平安だと言っているうちに、バビロンによる滅亡と破壊を受けることになりました。このようなユダの姿から、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
 私たちも、悲惨な状態に陥り、悲しい状況になると、なぜこんなことに、ああ、なにゆえにと嘆きます。正しくても責められて、問題にも出会います。でも、自分の思うようにしたいという心が、いつのかにか主に背いて、己の思うままに勝手に歩み、その結果戒めを受けることになってしまうこともあります。
 このエルサレムの背きの罪こそ、嘆かれるべきことでした。エルサレムと神の関係を今日に適用するなら、私たちと神様の関係にたとえられるでしょう。私たちの偶像と言えば、自分という偶像でしょう。Uテモテ3:2に「自分を愛する」という表現があります。それが、罪のリストの中にあるのです。なぜ自分を愛することが罪につながるのでしょうか。自己中心、利己主義というアイドルは、自分を愛するあまり、神に背を向けて、背信の罪を犯し、様々な罪を犯すようになるからです。
 もともと、私たちは神を知る前から、神の御心から外れ、神に敵対し、背きの罪のために滅んでしまう者でした。そんな私たちをあわれみ、愛し続けてくださり、ついに御子イエス・キリストを世に遣わされ、私たちの罪の代わりに十字架に渡されました。Tペテロ3:18,エペソ1:7。この救いに与った私たちは、神の変わらぬ愛を受けています。エルサレムの姿を見ながら、私たちは、その救いと愛にどう応えているだろうかと省みるのです。

V−そうならないようにするには−黙示録2:4〜5, マタイ11:28, エレミヤ29:11
 5節にあるように、背きの罪に犯した神の民は、どうすれば、いいのでしょうか。神に愛された者として、はじめの愛に戻ることです。黙示録2:4〜5。それは、どうするのでしょうか。救われた時の自分を思い出すことです。救いの恵みを知った時の感激と神を愛するようになったことを思い起こすのです。そして、今の姿を悔い改めるのです。悔い改めは、自分中心の生き方をストップし、神に立ち返ることです。主の弟子となり、愛の訓練を受けるのです。イエス様は、言われました。ルカ9:23。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
 2節にある友人を知って、自分の寂しい辛い境遇を嘆くより、賢く友を選ぶことです。勝手に自分が友と思っていただけ、愚かに選んでいたということです。幸いな人は、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人です。詩篇1:1。信仰の友は大事です。弱った時に励まし、嘆く時に慰め、迷う時に導き、誤った時に忠告してくれます。そして、自分も相手のためにそのような友となろうとします。
 偶像に囚われないように、神にのみ礼拝をささげることです。Tサムエル7:3。4節のような姿にならないように、しっかり主なる神を礼拝することです。イエス様の十字架の死からの復活を記念する主の日に集まり、礼拝をささげることがどれほど大切なことでしょうか。U列王17:36〜37。主なる神だけを恐れて、礼拝をささげよと命じられています。御言葉に聞いて、従うことが求められています。礼拝こそが私たちの力と恵みのもとであり、慰めと励ましを与えられるところだからです。愛とは、御父の命令に従って歩むことです。Uヨハネ1:6、好みや選択ではなく、従うことが愛の問題なのです。神を愛するなら、主の戒めを守るのです。ヨハネ14:15。
 嘆いて、悲しんで泣く者に必要なことは、何でしょうか。イエス様は、疲れた人や重荷を持つ人に何と言われましたか。マタイ11:28。そうです。悲しんで泣く者に必要なことは、たましいの休み、安らぎです。泣きながら夜を過ごす者に、「わたしのもとに来なさい」とイエス様が招いておられます。主から離れていた者に、「わたしのもとに来なさい」と呼ばれるのです。思い煩っているなら、主のもとに来るべきです。Tペテロ5:7。罪を告白するなら、赦しを与えられます。Tヨハネ1:9。
 エレミヤは、背きの罪を犯したユダの民に神の悲しみを伝えるとともに、バビロンに捕囚になって苦しみの中にある民に希望を伝えました。エレミヤ29:11。神は、バビロンから救い出すことを約束されました。エレミヤ29:14。もし私たちが今苦しみを受けているとしても、そこにも神の支配があります。嘆き悲しみの中に希望を持つことができます。イエス様を信じて救われた者には、たとえ今日嘆き、悲しみの歌の中にあっても、明日には喜びの歌があります。エレミヤ29:11。




哀歌1:1 ああ、ひとり寂しくすわっている。人が満ちていた都が。彼女は、やもめのようになった。国々の間の中で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が苦役に服することになった。
1:2 彼女は泣きながら夜を過ごす。涙が頬を伝っている。彼女が愛する者の中には、慰める者はだれもいない。その友もみな裏切り、彼女の敵となってしまった。
1:3 ユダは悩みと多くの労役の後に、ユダは捕らえ移された。ユダはは諸国の中に住み、憩いを見出すことがない。追い迫る者たちはみな追いついた。彼女が苦しみのただ中にあるときに。
1:4 シオンへの道は喪に服し、例祭に行く者はだれもいない。その門はみな荒れ果て、その祭司たちはうめく。おとめたちは憂いに沈む。シオンが苦しんでいるのだ。
1:5 彼女に逆らう者がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきのゆえに、主の憂いを与えられたのだ。幼子たちも、とらわれの身となり、逆らう者の前に出て行った。
1:6娘シオンからは、そのすべての輝きが去った。彼女の首長たちは、青草のない鹿のようになり、追い迫る者の前をただ力無く歩んで行った。


エレミヤ31:3 【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

エレミヤ3:6 ヨシヤ王の時代に、【主】は私に仰せられた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。
3:7 わたしは思った。彼女がこれらすべてのことを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかい、帰って来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。
3:8 背信の女イスラエルは、姦通したので、わたしは離婚状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。
3:9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。

エレミヤ5:3 【主】よ。あなたの目は、真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。
5:31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。

エレミヤ6:13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
6:14 彼らは、わたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
6:15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。まったく恥じもせず、慰めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──【主】は言われる。」

Uテモテ3:2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。

黙示録2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 だから、どこから落ちたかのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。

ルカ9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

Uヨハネ1:6御父の命令に従って歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。

ヨハネ14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

マタイ11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
29:14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から、もとの場所へ帰らせる。」

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