2022年7月31日「あなたがたには関係がないのか」哀歌1:7〜15

序−カタルシスという言葉は、もともとアリストテレスが『詩学』に書いた演劇用語で、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」のことですが、後には「心の中に溜まっていた澱のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味するようになりました。嘆き、悲しんでいる哀歌にも、そのような変化が起こって来ます。

T−昔持っていた宝を思い出す−7〜11
 エルサレムは、嘆き悲しみながら、昔の栄光や宝を思い出しました。7節。昔ダビデ、ソロモン時代は、領土も大きく強国だった。多くの富や財宝があった。壮麗な神殿で、荘厳な礼拝がささげられていた。民も豊かに暮らしていた。神の民として自信に満ちていた。昔は良かった。しかし、今はどうだ。8〜9節。国は滅亡し、偉大な町も、壮麗な神殿も破壊された。民は敵によって倒され、財宝も何もかも奪われ、町も民も家族も失われてしまった。その栄光は無残に汚され、捕囚されて行くその姿は、みすぼらしく、人々が驚くほど落ちぶれてしまった。こうして、エルサレムの悲劇を嘆き、悲しみます。
 現代の人々も、昔は良かったと言います。国も繁栄し、経済も良かった。社会も安定していた。自分の仕事もうまく行って、よくできた。周りから注目されていた。生活も豊かだった。友人も多く、付き合いも楽しかった。それなのに、今はどうだ。国は廃れて、経済は破綻している。社会は混乱している。自分の仕事もうまく行かない。生活も厳しい。友人たちは疎遠になった。何もかもうまく行かない。あれこれも失われてしまった。私は落ちぶれてしまったと嘆き、悲しむのです。私たちも、昔は良かったというのでしょうか。どんなことを嘆き、悲しむのでしょうか。
 精神的な打撃も受けています。10節。神殿が敵によって破壊され、異邦人が聖所に入り、神殿の飾っていた財宝や道具をことごとく奪って行くのです。ただ、そんな略奪を見ていることしかできません。神の民の精神的支柱が砕かれたのです。そして、手元に残されたわずかな宝も、生きるために食べ物と交換しています。11節。「気力を取り戻そうとして」と訳されていますが、ただ生き続けるために宝を食べ物に換えたということです。そんな自分に惨めさを深く感じています。昔の栄光とともにあった誇りも自尊心もなくなりました。嘆き、悲しみます。人は、いろいろなものを失うだけでなく、精神的な打撃を受け、自尊心までもなくしてしまうと、余計に落ち込みます。そんな時、私たちも、とても辛いです。
 さらに、嘆き、悲しみを加えたのは、敵たちの嘲り、侮辱です。7節。その破滅を見て、あざ笑っています。何もかも失って裸のように落ちぶれた姿を卑しめ、蔑んでいます。8〜9節。自分でも自覚して嘆いて、悲しんでいるのに、その上敵に嘲られ、蔑まれるのです。おまえたちの神は頼りにならないぞと嘲られたのでしょう。イザヤ36:18。クリスチャンにすれば、「信仰しているのに、どうしてそんな目に会うの」「信じていても、少しも助けにならないじゃないか」という嘲りを聞くようなものです。
 私たちも、失敗や問題で落ち込んでいる時、自信喪失している時、人から批判され、嘲られるのはきついです。精神的タメージは大きいのです。あざけり、ののしりは、体の痛みよりも残酷です。でも、思い出すでしょうか。私たちのために、苦しみ、痛み、嘲られ、蔑まれたイエス様を。ルカ18:32。私たちのために、イエス様の悲しみ、苦しみの大きかったことを。イエス様は私たちのために十字架にかかられました。嘆き、悲しむ時、嘲られ、蔑まれる時、イエス様に心を向けるのです。

U−私の苦しみを顧みてください−8,9,11
 そのような中で、エルサレムは嘆き、悲しむだけでなく、呻きます。8節。うめくだけで、敵の嘲りに対抗もしません。いや、できません。民も呻きます。11節。生きることでやっとです。うめくとは、言葉も出ない、「うう〜」と声だけ出して、苦しみ、うめくのです。でも、この言葉にならない呻き声が、神に向かって上げられます。これまで敵にばかり向かっていた心が主なる神に向けられました。現代の聖徒たちが、「主よ〜、主よ〜」と叫ぶだけのようです。エジプトで苦しむ民の呻きが天に届いたように、主なる神に届くのでしょうか。使徒7:34。
 これまで、エルサレムは、彼女という3人称でしたが、ここで急に「私」という1人称が出て来ます。9,11節。突然「主よ、私は」と1人称になり、主に心を向いて、祈っています。これまでは、過去の自分とその時の自分を比べては嘆き、悲しんでいました。敵から受けた嘲りや蔑みを思っては嘆き、悲しんでいました。しかし、今や、神に心を向けて嘆き、呻きながら祈りました。悔い改めを祈りました。
 心の向きが転換し、事態が転換して行きます。9節。ただもう、苦しむ自分を顧みてくださいと素直に祈っています。自分に対して敵が勝ち誇っていますとありのままを訴えています。変わらぬ愛をもって愛してくださる神に立ち返っています。エレミヤ31:3。誠実をもって愛してくださる神の働き、介入を信じています。こうして、心のうちの悲劇を神に向かって吐き出すことで、心におりのように溜まっていた嘆きや悲しみの心が解放され、浄化されて行くようです。
 私たちにも、この祈りが必要です。ただ嘆き悲しむのではなく、人を恨むのではなく、主よ私を顧みてくださいと祈ります。私はこんな惨状なのですよと自分の状態を訴えます。神様の変わらぬ愛を信じているなら、神の子どもとして素直に祈ることができます。素直に祈れば祈るほど、ありのままを訴えれば訴えるほど、心におりのようにたまっていた嘆きや悲しみの感情が解放され、浄化されて行くことでしょう。
 主に訴える深い嘆きや悲しみこそ、新しい人生の出発点です。自分の心の中だけの嘆きや悲しみは、怒りや憎しみになることもありますが、主への祈り、訴えならば、恐れや絶望を浄化させてくれます。アリストテレスは、それをカタルシスと呼ぶのですが、人が悲劇を見ている時に生まれる恐れや憐れみを感じることで、無意識に心の奥底に抑え込まれていた同様な感情が解放され、きよめられると言うのです。
 嘆き悲しみが、他者への怒りや自己憐憫に留まるなら、それは寂しい、残念なことです。そんな思いに囚われてはなりません。主に祈り、訴えることで痛んだ心が取り扱われ、癒され、希望へと心が開かれて行きます。

V−すべての人よ、よく見よ−12〜15
 このような祈り、訴えの後、哀歌の内容ががらりと変わります。12〜13節。悔い改めたエルサレムは、エルサレムの滅亡と破壊、民の捕囚の受け止め方が違って来ました。何と、道行く人々に、自分の惨状の原因を知らせています。主が私を悩ませ、苦痛を与えたと言います。主が、私を荒れすさんだ女、終日病んでいる女とされたとまで言っています。恨みがましさや怒りはありません。自分をそのように言える浄化された心が、そこにはあります。そう言えるところに癒しが始まっています。
 神が、ご自分の民の背きに対してわざわいをくだされたのだと受け止めました。14〜15節。神に対する背きの罪、自分中心の罪が、くびきとなって自分をがんじがらめにしていたというのです。確かにそうなのです。そ以上ひどくならないように、滅びることのないように、主は私の力をくじき、戦えないようにさせ、私を敵に渡されたと告白するのです。神の戒めにも、神の愛と守りがあります。
 背いていた「私」の心は、今主に向いています。主のもとに立ち返って来ました。悔い改めて、主に心を注いで祈っています。自分の願いを主に祈り、訴えています。そうするうちに、「私」の口から驚くべき言葉が発せられています。12節。主が私を戒めておられることは、「あなたがたには関係がないのか。道行くすべての人よ」と言うのです。主に導かれて、思わず発せられたことではないでしょうか。
 「あなたがたには関係がないのか。道行くすべての人よ」とは、衝撃的言葉です。道行く人とは、「私」を嘲り、卑しめる人々なのでしょうか。エレサレムに残されたユダの民なのでしょうか。「道行く人よ」とは、何の関係もなく通り過ぎているという意味が感じられます。今や、主に背いているのは、道行くすべての人です。この哀歌を読み、聞く者たちにも、「あなたがたには関係がないのか」と問いかけています。
 イエス様が十字架にかけられた時、十字架の前を通り過ぎる人々が、口々にイエス様をあざけり、ののしりました。マタイ27:39〜44。イエス様は、誰のために十字架にかかられたのでしょうか。十字架は、「通りすがりの人たちよ。あなたがたには関係がないのか」と言っているようですが、通りすがりの人たちは、自分と関係があるとは思いませんでした。聖書は、そこを読む者たちに、イエス様の十字架は、「あなたには関係がないのですか」と問うています。
 イエス様がなさったこと、十字架上で苦しまれたことについて、私たちはどのように考えるのでしょうか。私たちの背きの罪のためにイエス様が十字架にかかってくださいました。それゆえに、イエス様を信じる私たちは罪赦され、救われたのです。罪と滅びから解放され、新しい日が始まるのです。私たちは、主の御前に自分の嘆きや悲しみを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。詩篇142:2。



哀歌1:7 エルサレムは思い出す。苦しみとさすらいの日にあたって、昔から持っていた自分のすべての宝を。その民が敵の手に倒れ、だれも助ける者がないとき、敵はその破滅を見て、あざ笑う。
1:8 エルサレムは罪に罪を重ねた。そのために汚らわしいものとなった。彼女を尊んだ者たちもみな、その裸を見て、これを卑しめる。彼女もうめいて、その背を見せる。
1:9 彼女の汚れは裾に付いている。彼女は自分の末路を考えない。それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰めない。「【主】よ。私の苦しみを顧みてください。敵が勝ち誇っています。」
1:10 敵は、彼女の宝としているものすべてに手を伸ばした。異邦の民がその聖所に入るのを彼女は見た。あなたの集いに加わってはならないと、あなたが命じられた者たちが。
1:11 彼女の民はみなうめき、食べ物を捜している。気力を取り戻そうとして、自分の宝を食物に換えている。「【主】よ、よく見てください。私は卑しい女になりました。」
1:12 あなたがたには関係がないのか。道行くすべての人よ、よく見よ。このような痛みがほかにあるか。私が被り、【主】が燃える怒りの日に私を悩ませたような苦痛が。
1:13 主はいと高い所から私の骨の中に火を送り込まれた。私の足もとに網を張り、私が背を向けるようにされた。私を荒れすさんだ女、終日病んでいる女とされた。
1:14 私の背きの罪のくびきは重く、主の御手で、私に結びつけられ、私の首の上に載せられた。主は私の力をくじき、私を渡された。私が立ち向かえない者の手に。
1:15 主は、私のうちの強者たちをみな追い払われた。私を標的として例祭を呼びかけ、私の若い男たちを滅ぼされた。主は、ぶどう踏みをするように、おとめ、娘ユダを踏みつぶされた。




マタイ27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。

エレミヤ31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

詩篇142:2 私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。

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