2022年8月7日「慰め主イエス様」哀歌1:16〜22

序−敵のことを恨むことや自分の惨状を嘆くことから、神様に心を向けるようになり、自分の背きの罪を悔い改めるようになったエルサレム。しかし、それによってより深い悲しみに落ち込み、涙をながしています。どうしてなのでしょうか。

T−求めたが得られない慰め−16〜19
 皆さんは、最近どんなことで涙を流されたでしょうか。今哀歌の作者は、涙を流しています。16節前半。涙ぐむというレベルではなく、涙が目からあふれ流れるほどです。神様に心が向いて、立ち返り、悔い改めて、心が落ち着いたはずです。なぜ、こんなにも悲しみが深く、涙があふれているのでしょうか。16〜17節。慰めてくれる者がいないということです。
 理由は、自分を元気付け、慰めてくれる人が遠く離れたからだと言っています。16節。捕囚になってしまったからか、近くに慰めてくれる者がいないのです。18〜19節は、そんな事情を確認させてくれます。滅んだ国の再建を担う若い者が捕囚になっており、祭司や長老という指導者たちが、籠城戦や戦後の食糧難の中で死んだようです。まさに、私を元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたのです。
 それでは、近くにいる者から慰めをと思っても、周囲の者たちは敵となっており、慰めてくれる者はいないというのです。17節。確かに近隣諸国は、裏切り、敵となってしまいました。慰めるという動詞の形は、強い意味を表しています。強い慰めを必要としています。慰める者がいないということがどれほど辛く、悲しいことかが表されています。エルサレムが滅び、神殿が破壊されたという惨状そのものよりも、それによって苦しみ、嘆いている自分を慰めてくれる者がいないということが深い悲しみとなって、涙を流していたのです。
 私たちも、そうではないでしょうか。苦しんで、悩んでいる時、側にいたら慰め、励ましてくれる友人が遠くにいる、事情があって慰めてもらえないとしたら、とても残念です。それではと近くの人に期待してみたものの、慰めや励ましが受けられない関係になっていた、友人と思っていた人がそうではなかったとしたら、とても悲しいです。問題に出会って、苦しみ悩むことより、慰めを受けられない、慰めてくれる人がいないということの方が、悲しみは深いかもしれません。
 エルサレムは、これまで同盟し、支持してくれた周りの国々が、滅ぼされた自分を慰めて、助けてくれるはずと思っていたが、彼らはエルサレムに背を向けました。それらの国々も自分の国の方が大事です。エレサレムに味方してバビロンの攻撃を受けたくなかったのです。彼らなりの事情があり、こちらが勝手に期待したというところもあるのです。
 そういうことは、私たちにもあります。人々に対して、こんな状況の私にこうしてくれるはずだ、こんな言葉をかけてくれるだろうと期待したが、期待通りでないとがっかりします。そんな時、人々が自分に敵対したわけでも、冷たくしたわけでもないのですが、私たちは、慰めてくれる者はいないと受け止め、悲しむことになります。人々には、それぞれの事情もあり、ただ期待通りではなかっただけかもしれません。気持ちがなかったわけでもないでしょう。でも、こちらは誰も慰めてくれないと思ってしまうのです。そんな思いも、自分を深い悲しみに沈めてしまいます。

U−神の慰めを求めよ−20〜22,イザヤ40:1〜2
 エルサレムは、受けられない者から慰めを求めました。間違った人に慰めを期待しました。慰める者がいない、誰からも慰めを得られないというその悲しみは深く、その痛みは強いものでした。それでは、どうすればいいのでしょうか。その深い悲しみを、その感情をそのまま神様に注ぎ出すことです。詩篇142:2。神に目を向けることが、慰めを得る始まりです。
 呻きながら、神様に祈りました。20〜22節。慰めてくれる者が誰もいないという痛み、悲しみがどれほどのものか、物語っている表現です。深い悲しみは、痛みを伴っています。はらわたがかき回され、打ちのめされるほどの痛みとなりました。私のうめきを聞いても、慰めてくれる者はだれもいないと、神様に訴え、苦しい思いを注ぎ出しています。
 呻きの中で、私を嘲り、ののしる者に私と同じ懲らしめを与えてくださいと言っています。こんな祈りを神様にしていいのかと思うところですが、人にののしり返しているのではなく、神様にぶつけている、つまり神様にお任せしているということです。Tペテロ2:23。
 エルサレムは、自分を慰めてくれる者はだれもいないと、神様に訴えています。そうです。慰めがないことを神様に言うべきでした。なぜなら、すでに神は滅亡するユダに対して、預言者イザヤを通して慰めを宣言されておられました。イザヤ40:1〜2。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、詩のような出だしです。この慰めよという動詞も強意形です。神の言葉を伝えて、民を慰めろと命じておられたのです。つまり、神様がご自分の民を力強く慰めてくださるということです。なんという恵みでしょうか。
 この「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ」ということも、慰めに満ちた表現です。「優しく語りかけよ」というのは、「心に語りかける」という意味です。滅亡と捕囚の預言で痛み、苦しみ、希望を失っている者に、その心の傷をいたわるように主が優しく語りかけてくださるのです。慰めを必要としている者に、神様は御言葉を通してやさしく語りかけてくださいます。御言葉が慰めとなります。詩篇119:50。
 「その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」というのは、やがて捕囚から帰還して、エレサレムを再建するという約束です。この約束は、今も人生途上で様々な苦難や問題によって苦しみ、悲しんでいる者にとって大きな慰めです。「あなたの労苦は終わります。その咎は償われています。主の祝福と恵みを受けなさい」という「慰め」を聞くことができます。神様の約束の御言葉を聞くすべての者に言われた御言葉です。
 私たちは、ひどい状況の中で落胆し、絶望します。それがどうにもならない、変わりようがないように見えるならば、苦しくて、辛くて、悲しくて仕方がない思いになります。そんな思いが続くならば、体や心まで痛んでしまいます。確かに、戦いに負け、王も民もバビロンに連れ去られるなら、どう見ても、滅亡です。どう見てもその民はおしまいです。しかし、主の約束は、どうでしょう。労苦は終わり、その罪は赦され、主から祝福を受けるようになるというのです。

V−慰め主イエス様−Uコリント1:4〜7
 イザヤ40:2の「咎は償われている」ということですが、なぜ、罪は償われて、罪に代えて祝福を受けられるのでしょうか。私たちは、すぐに、贖い主イエス様の十字架のことと連想するでしょう。続くイザヤ40:3〜6を見ると、捕囚の民がどのように帰還するかということが記されていますが、この箇所は、救い主イエス様の到来を告げるバプテスマのヨハネのところで引用されている箇所です。ルカ3:3〜6。イザヤ40:5の「主の栄光」とは、イエス様のことです。ですから、イエス様の十字架という代価を払って、罪が赦される、贖われるということです。Tコリント6:20。
 神様の慰めの内容は、バビロン捕囚からどのように帰って来るかということを知らせています。山を削ったり、谷を埋めたりして道路を作るように、神様が道を整えてご自分の民を帰らせてくださるということです。患難という山あっても、問題という谷あっても見捨てないで、道がないなら、道を作って、困難な人生を歩ませてくださるというのです。
 こうして、イザヤの預言は、バビロン捕囚のその先の捕囚からの帰還という希望を教えてくれただけでなく、さらにその先の救い主イエス様の到来について教えています。神様は、背いて反抗する者を福音で捉えて、御言葉によって造り変え、神様の祝福を受ける者としてくださいます。これがイエス様による救いです。イエス様の救いによって、神のあわれみと祝福を受けることができるようになりました。救い主イエス様こそが、慰めの元であり、慰め主であるということです。マタイ11:28〜29。
 エルサレムが、破壊され滅亡して、民の捕囚で終わるなら、主の民にとって人生は空しい、絶望です。しかし、捕囚から帰還できるという約束は、捕囚も患難も、主の民にとって終わりではないということです。この慰めのメッセージは、幸いです。今患難にあっている者に、問題に嘆き、悲しんでいる者に、慰めと希望を与えてくれます。苦難で終わりではありません。帰るべきたましいの救いがあります。Tペテロ2:25。
 哀歌の作者は、私を慰める者はいない、誰からも慰めを受けられないと泣いていましたが、イエス様の慰めを受けた者は、他の人を慰めることができると言われています。Uコリント1:4〜7。神は、どのような苦しみにあるときにも、私たちを慰めてくださいます。私たちが慰めを受けるのは、人を慰めるためだというのです。さらには、私たちが苦しみにあうにしても、それは人の慰めと救いのためだと言うのです。何と言う教えでしょう。
 ですから、患難や問題で嘆き、悲しみ、慰めを必要とする時、何よりもイエス様の慰めを求めてください。イエス様の救いには、慰めを伴うからです。慰め主として来られたイエス様から慰めと安らぎを得ましょう。そして、人を慰める者となることを願います。Uコリント1:4〜5。



哀歌1:16 これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ。敵に圧倒されて、私の子らは唖然とする。
1:17 シオンが両手を差し出しても、これを慰める者はいない。【主】はヤコブの周囲の者たちが彼の敵となるように命じられた。エルサレムは彼らの間で、汚らわしいものとなった。
1:18 【主】は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。若い女たちも、若い男たちも、捕らわれの身となって行った。
1:19 私は、私を愛する者たちを呼んだが、彼らは私を欺いた。私の祭司も長老たちも都の中で息絶えた。気力を取り戻そうとして、食物を捜していたときに。
1:20 「【主】よ。ご覧ください。私は苦しみの中にあり、はらわたはかき回され、私の心は私のうちで打ちのめされています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです。
1:21 彼らは私のうめきを聞いても、慰めてくれる者はだれもいません。敵はみな、私のわざわいを聞いて喜びました。あなたがそうなさったからです。あなたが告げられた日を来させてください。彼らも私と同じようになるために。
1:22 彼らの悪のすべてが、御前に出されますように。そして彼らに報いてください。あなたが、私のすべての背きに対して、報いを返されたように。私のうめきは大きく、私の心は弱っています。」


イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。―あなたがたの神は仰せられる―
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」

詩篇119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Tペテロ2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし、今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます。

Uコリント1:4 神は、どのような苦しみにあるときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
1:5 私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。
1:6 私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。




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