2022年8月28日「滅びうせなかったのは」哀歌3:1〜24

序−神は果たして公平なのか、なぜ神は沈黙されるのか、どうして私を見捨てているのかと言って、神様に対して失望し、苦しむ聖徒がいます。実は、ダビデやエリヤ、ヨブもそうだったのです。そして、涙の預言者エレミヤも、神に対して絶望しています。なぜ、そのように苦悩し、絶望したのでしょうか。そこから、どのようにして転換できたのでしょうか。

T−主のむちを受けて苦しみに会った者−1〜16
 人生は、自分の思うようには進まないものです。それどころか望まない問題が起こって来て、悩み、苦しみ、失望落胆することがあります。信仰が揺れ動きます。私たちは、どうでしょうか。エレミヤも、絶望しました。エレミヤは、エルサレムに臨む神の怒りとバビロンによる破壊を預言し、悔い改めを説いていました。そう言いながら、実際にバビロンによって攻められ、籠城して疲弊し、滅ぼされて蹂躙され、捕囚にされたのを目の当たりにしたエレミヤは、信仰が揺れ動きました。
 今日の箇所は、「私は…、私は…」と、エレミヤ自身が神から痛みを受け、絶望した苦しみを吐き出しています。1〜16節。主は、私に激しい怒りのむちを与え、私を闇の中を歩ませ、私を苦しめ、骨を砕き、私を暗い所に入れて重い足かせをはめ、助けを求めても聞き入れず、熊や獅子のように私を引き裂き、無残な姿にし、私を痛めつけ、嘲けさせ、私を踏みつけたと嘆いています。神をうらんでいます。すべて神のせいにして、神を責めています。ずっと神様に従って、預言して来たエレミヤも、あまりにも悲惨な状況の中で、神に文句を言い、恨みをぶちまけています。素晴らしい彼の信仰も、惨状に接してひどく揺れ動きました。
 誰でも、問題や苦難に出会い、信仰が揺れ動く時があります。人々に対して恨みを抱き、神に対して文句を言うようになります。あれだけ困難な中で一人神様の警告と勧めを伝えていたエレミヤでも、今苦しみの中で、神に向かって恨みや文句を吐き出しています。偉大なエレミヤでもそうなのですから、他の聖徒たちもそうなのだと言うことができます。
 実は、「主は…、主は…」と続く主語は、原文には出てきません。動詞の形から、主語が3人称の単数だと分かるだけです。英語訳では「彼」と訳されています。主を意味するアドナイという単語は使われていません。「私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみに会った者」と言ってはいても、苦しみの中で信仰的であったわけではありません。アドナイ、主はとは言わず、彼、いや、あいつはと言っているのです。敵意があらわれています。彼が私を攻め、あいつが私を苦しめたと恨みがましく言っているのです。すべて神のせいだと恨んでいたのです。
 エレミヤは、涙を流しながら、40年間預言者として活動して来ました。神の民が神様に背き続けるならバビロンによって滅ぼされると警告しながら、いざエルサレムが破壊され、人々が殺され、捕囚とされる惨状を目撃したら、心苦しくなり、虚脱感におそわれたのでした。すべて神がひどくされたと神を恨んでいます。神様に徹底的に従って来たエレミヤも、ひどいエルサレムの惨状を見て、恨みと不平を神にぶつけています。
 私たちも、次々と問題に出会い、ものごとが思うように行かない時、神様どうして私を助けてくれないのですか、なぜ沈黙されているのですか、私を見捨てられたのですかと言って、失望し、苦しみ、憂うつになる時があるでしょう。

U−思い出しては沈む−17〜20
 このように神様を恨むならば、ますます失望の泥沼に沈んでしまいます。17〜18節。以前の状態を思い出して、私は平安から見放され、幸せを忘れてしまったと嘆いています。かつて神から受けていた誉れと望みも消えうせたと落胆しています。以前の良い状態と比べては、今はなくなったと嘆くのです。こういうことって、私たちが失望した時に、陥ることではないでしょうか。
 こういうことは、さらに過去の悪いことを思い出させます。19〜20節。苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけだと言うのです。どれだけ苦々しい思い出なのでしょうか。過去に受けた苦い思い出、苦難ばかり思い出すというのです。絶望する時に訪れるのが過去の苦しい記憶です。それも、悪い記憶、マイナスの思い出です。エルサレムに起こった惨状が鮮やかに記憶されており、人々に起こった悲劇が思い出されたのです。私たちも、問題に悩む時、苦しんでいる時、悪い記憶、マイナスイメージの問題ばかり思い出すのではないでしょうか。
 その結果、感情はどうなりましたか。エレミヤは、どうですか。20節。思い出しては、心沈みました。つまり、落胆し、絶望したということです。絶望の泥沼に陥ると、色々と思い出します。それも、悪い記憶ばかりです。思い出さなくてもいいことまで思い出してしまいます。苦しい辛いことが目の前に浮かび、自分の心をさいなむのです。自分が犯した失敗、恥ずかしい出来事、赦せない人、消えない恨みが思い出されるたびに、心は重く沈み込みます。私たちは、どうですか。
 絶望して、心が沈み込むと、自分のからに閉じこもりがちになります。すると、苦い記憶だけが思い出され、状況をさらに悪化させることになります。エレミヤのような素晴らしい信仰の預言者でも、そうなるのですから、私たちも例外ではありません。私たちも、絶望の泥沼に陥り、心が沈み込む時があるのでしょう。
 以前の悪い記憶がしばしば思い出され、その記憶が浮かんで来ませんか。あるならば、祈らなければなりません。私たちを試みる悪い霊は、私たち過去の犯したことや失敗、苦い人間関係、残る恨みなどを思い出させます。それらの記憶で心をかき乱し、心を沈み込ませます。騙されてはなりません。私たちが思い出すべきことは、そんなことではありません。思い出し、黙想すべきは神の御言葉です。何を思い出すかが重要です。自分の心を落ち込ませ、失望させることが思い出され、心に浮かんで来るなら、すぐに御言葉を思い出し、祈りましょう。

V−滅びなかったのは主のあわれみが尽きないから−21〜23
 思い出しては絶望に陥る中で、エレミヤの思いに変化が起こりました。転換点と言える変化が生じます。21〜22節前半。「私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は主を待ち望む、主の恵みを」と言うようになりました。絶望から希望へと大きく変化しています。なぜ、転換できたのでしょう。状況が変わったからですか。いいえ、そうではありません。
 どうして絶望から希望へと大転換したのですか。21節。エレミヤは、心に思い返しています。過去のことを思い出して、じっくり考えたのです。それゆえ、希望を持つようになりました。19,20節の「思い出す」は、思い出すだけで、浮かんで来るのは、否定的な思い、悲観的なことです。悪い記憶として思い出します。しかし、20節の「思い返す」とは、思い出し、考慮に入れることを意味する別の言葉です。思い出して、積極的に自分で考えます。ただ思い浮かんで来るのを覚えるのではなく、思い浮かんで来ることを自分で考えて、その意味や意義を考えてみるのです。詩篇143:5。
 困難な状況を思い出すだけでなく、エレミヤは、思い出したことにどんな意味があるのか考え、尋ねました。そして、神様がこうされたのには意味があるということまで思い至ったのです。22節。そして、確かにエルサレムはバビロンによって滅んで、捕囚とされたが、民は残っている。神の民は滅びていないと悟ったのです。自分たちが滅びうせなかったのは、主のあわれみが尽きないからだと理解したのです。神様に希望を持つようになったのです。23節。それまでは、朝目覚めるのが苦しかった。朝起きても状況は変わらず、先が見えない苦しさがあった。それなのに、今は主の愛とあわれみが朝ごとに新しく感じられ、神様の真実さは素晴らしいと告白するようになりました。
 エレミヤが絶望の中で見つけた希望とは、何ですか。たとえ主から受けた望みは消えうせたとしても、神様から与えられた祝福がなくなったとしても、神様ご自身に希望を置くことです。神様がくださることに期待するだけなら、患難の中で絶望するしかありません。私たちは、すでに神様から何を与えられたのですか。救い主イエス・キリストを与えられました。本当の希望は、救い主イエス様にあります。罪赦され、滅びから救い出されて、天国への命を与えられ、神の子どもとされています。
 神様は、大きなあわれみのゆえに、イエス様を私たちの罪の代わりに十字架に渡され、死からよみがえらせてくださいました。それによって、信じた私たちを新しく生まれ変わらせ、生きる希望を与えられました。Tペテロ1:3。絶望の根源である罪を解決してくださり、希望の人生を約束してくださいました。希望の神様が私たちを信仰の中で喜びと平安を満たしてくださるだけでなく、聖霊の力で希望を溢れさせてくださいます。ローマ15:13。
 今私たちには、どんな苦難がありますか。難しい問題に直面していますか。私たちに必要なことは、苦しい現実のために沈み込むのではなく、その問題を信仰で考えてみることです。思い出せば、落胆するしかない状況でも、その中にある主の御心を見つけるのです。信仰で生きる人生には、希望があります。どんな絶望的状況にあっても、「私には希望があります」と言うことができることを願います。Tペテロ1:3。



哀歌3:1 私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみに会った者。
3:2 主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ、
3:3 御手をもって一日中、繰り返し私を攻められた。
3:4 主は私の肉と皮をすり減らし、骨を砕き、
3:5 苦味と苦難で私を取り巻き
3:6私を暗い所に住まわせられた。はるか昔に死んだ者のように、
3:7 主は私を囲いに入れて出られなくし、私の青銅の足かせを重くされた。
3:8 私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、
3:9 私の道を切り石で囲み、私の通り道をねじ曲げられた。
3:10 主は、私には待ち伏せる熊、隠れたところにいる獅子。
3:11 主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。
3:12 主は弓を絞り、私を矢の的のようにして、
3:13 矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた。
3:14 私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。
3:15 主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、
3:16 私の歯を砂利で砕き、灰の中に私を踏みつけられた。
3:17 私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。
3:18 私は言った。「私の誉れと、【主】から受けた望みは消えうせた」と。
3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
3:20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
3:21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
3:22 【主】の恵みを。」実に、私たちが滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。


Tコリント10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

詩篇143:3 敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ち砕き、長く死んでいる者のように、私を暗い所に住まわせたからです。
143:4 それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。
143:5 私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。
143:6 あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。 セラ

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

ローマ15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。


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