2022年9月4日「主のみ心ではない」哀歌3:25〜39

序−親の心子知らず、子の心親知らずということわざがあります。互いの心が分からないのは、親子関係や夫婦関係だけではなく、様々な人間関係においても、互いの心、本心が分からないと、不和が生じたり、疎遠になったりします。でも、私たち神の民も、主のみ心を知らないと、愛されていることが分からず、神を恨んだり、離れたりします。

T−主を求め、主を待ち望む者に主は良い−25〜30
 今日の箇所の25〜39節では、24節までの「私」という人称がなくなり、人と神の名称だけになります。そうすることで、神と人との関係に読者の目を向けさせ、信仰の真髄へと導いてくれます。私たち自身と神様の関係は、どうですか。深く神を知り、恵みを覚える関係になっていますか。主との関係に目を向けましょう。
 まず、25〜27節は、「トーブ、良い」という単語が各節の文頭に登場して、読む者、聞く者を圧倒します。哀歌は、各節のはじめの単語がアルファベット順になっていますが、3章だけ66節まであり、3節ごと同じアルファベット始まりとなっています。とりわけ25~27節は、トーブ(良い)という単語まで同じです。詩としての美しさに加え、強調されています。25節は、原文では「主に望みを置く者、主を求めるたましいにとって、主は良い」となります。
 トーブには、良い、善、幸いという意味があります。主は良いという主の善を信じる者は、幸いになるということです。神様との良い関係の中でそのようになることを強調しています。確かに、主に望みを置き、主を求め、静まって待ち望むなら、幸いを得るようになります。25〜26節。静まるとは、ダーマム、黙るという意味の言葉です。文句や恨みを吐き出すより、黙って一人静まるのです。患難や試みに陥った時、黙って主の前に静まってみましょう。現状を黙って信仰で受け止めてみましょう。
 くびきを負わせられた時も、そうです。27〜28節。くびきとは、避けられない苦難、負わされた重荷、担うべき責任ということです。私たちは、何某かのくびきを負っているでしょう。それを信仰でもって、主にあって負うのは良いというのです。「若い時のくびき」とは、苦難が一時期であり、それが最終的なことではないということです。そうであるならば、くびきを負っても、一人静かに座っていることができるようになります。
 そして、29節の「口を土のちりにつけよ」とは、破壊されほこりだらけになり、敵に踏みにじられたエルサレムの現状を受け止めよということです。つまり、苦難や問題があったとしても、へりくだって信仰でもって受け止め、文句を言ったり、恨んだりするなというのです。苦難や問題に直面する私たちに対して、今経験している状況を信仰で受け入れなさいと言うのです。その時の苦痛は、やがて実を結ぶ手段となるでしょう。その忍耐が希望をもたらすようになります。
 さらに、30節では、自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよと勧めます。詩人は、これまで繰り返し、周りの異邦人からの嘲りや蔑みを聞いては痛み、憤慨していましたが、主に心が向けられた今は、このように勧めることができるようになりました。苦難や問題の中に落ち込み、苦しむ時、人は他の人の言動に憤慨したり、傷付いたりするものです。しかし、イエス様を信じる者は、自分を打つ者に頬を向けるような気持ちで、恥辱を受け止めることができるのです。なぜなら、イエス様もそうされ、そのように勧めておられたからです。マタイ5:39。これこそ、人生の勝利です。

U−人を苦しめ悩まそうとは思っておられない−31〜33
 なぜ、このようにすべては主にあって良いと受け止めるように勧められるのでしょうか。なせ、患難や苦しみの中にあっても、信仰で受け止められるのでしょうか。その理由を続く31〜33節で示しています。この3節原文では、同じアルファベットで始まるだけでなく、「なぜなら」を意味するキーという同じ言葉が、各節の始めに並んでいます。「なぜなら、主は、いつまでも…」「なぜなら、主は、たとい悩みを…」「なぜなら、主は人の子らを、…」と繰り返され、強調されています。圧巻の「なぜなら」の始まりです。
 どれほど、なぜならと言って説得しているのでしょうか。原文を読み、聞く者はどれほど衝撃を受け、確信させられたことでしょう。なぜ、私たちが患難や問題の中でも、主の善を信じて、主の導きを待ち望み、その状況を受け止められるのでしょうか。31節。なぜなら、主はいつまでも見放してはおられないからです。苦しい状況にある時、主に見放されているように見えたとしても、そうではないからです。「あなたがわたしを捨てても、わたしはあなたを捨てない」と言われるのです。
 私たちは、人生途上様々な問題で悩みます。そんな状況をなぜ受け止められるのでしょうか。どうして良いと肯定的に受け止められるのでしょう。なぜなら、主は悩みの中にある私たちをあわれんでくださるからです。32節。私たちが滅びなかったのは、御子イエス様を十字架に渡してくださった主のあわれみによるからです。このような神が、ほかにあるでしょうか。ミカ7:18、
 主なる神様を私たちは、どう見ていたのでしょうか。人が苦難の時に、主は意味もなく私を苦しめ悩ませると文句や恨みを言うのですが、なぜそうではないと言えるのですか。なぜなら、主は人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはないからです。33節。原文では、人の子らを苦しめ悩ませることは、主の本心ではないとなっています。別な訳では、「人の子を苦しめ悩ますことがあっても、それが御心ではない」となっています。
 31〜33節の「なぜなら」と理由をのべることは、神様の本心、御心だからです。私たちは、神様の御心を知っていますか。患難や問題の中で、主の本心を考えていますか。私たちが苦しみに出会い、試みを受ける時、神を恨んだり、見捨てられたと思ったり、失望落胆するのは、主の本心を知らないからです。それでは、壊れた人間関係のように、神のあわれみを思わず、神に文句を言い、心が神から離れてしまいます。
 私たちが勝利した信仰の人生を歩めるかどうかは、神様の本心を知っているかにかかっています。なぜなら、神様の本心を知っているならば、苦しみや痛みの裏に隠された神様の良い計画と与えられる希望を知ることになるからです。エレミヤ29:11。何よりも、イエス様こそが、神様の御心の結晶です。罪のために滅びに向かう私たちをあわれみ、イエス様の十字架の犠牲によって私たちを救い、救われた私たちを愛してやまないことが、神様の御心でした。疑いや不信を抱く余地はありません。
 親子や夫婦、職場や友人の人間関係の中で、互いに本心を知らないで不和や溝が生じて、争い、離れてしまうことが起こります。お互いの本心を知らないと、誤解を生みます。誤解は、お互いの信頼を破り、そうなれば軋轢が生じて、離れることになります。主と私たちの関係もそうです。神様は全知全能であられるので、主は私たちの本心をよく知っておられます。しかし、被造物である人間は、狭い心で神を判断し、勝手に誤解してしまうのです。神様を信頼できずに、不信に陥ることもあります。人の子らを苦しめ悩ませることは、主の本心、御心でありません。

V−すべてはいと高き方の摂理の中で−34〜39
 「神が善なるお方であり、良いことをされる方である」という真理を見失う時、私たちは混沌の中をさまようことになります。ですから、詩人は世のすべてが神の摂理の中で動いていることを黙想の中で悟り、確認させています。34〜39節。主なる神は創造者であり、私たちは被造物です。詩人は、「主アドナイ」や「主ヤハウェ」だけでなく、「いと高き方、エルヨーン」を用いて、人と神の関係へと導いています。
 いと高き方が、ご自分の民が不当に扱うのを主は見ておられないだろうかと、私たちに起こることを主がご存知ないだろうかと問いかけています。わざわいも幸いもいと高き方から出て来るのではないか、なぜ不平を言い続けるのか、自分自身の罪のゆえではないかと問うています。
 私たちは、善を許される神様を当然と理解しますが、悪を許される神様に対しては戸惑い、拒否感を持つことがあります。裁きにあっているのかと思われるなら、拒否感はさらに大きくなります。罪によって堕落した人間のすべての行動が、直接または間接的に人に影響を与えるとは思わないのです。ユダの滅びとエルサレムの破壊、人々の捕囚は、神がいかに罪を憎まれる方なのかを表していました。
 神の御心、主の本心は何ですか。人の子を苦しめ悩ますことがあっても、それが主の御心ではありません。33節。主は、世の中で圧迫を受け、苦しんでいる人たちを見ているだけではありません。必ず、世を神の義で裁かれます。不義の世で苦しんでいる人たちに代わって戦い、守ってくださり、正義を建て直してくださいます。
 34〜38節は、いと高き方、神の権威を信じるということです。私たちが被造物として神の権威に従い、信頼する時、私たちが苦難と試練の中に落ちたとしても、いと高き方が働いてくださいます。自分の罪を隠さず、速やかに悔い改め、主に立ち返らなければなりません。悲しく辛い中でも希望の歌を歌うことができる理由は、主なる神が私たち愛し、私たちに誠実を尽くし、私たちを建て直してくださるからです。エレミヤ31:3〜4。



哀歌3:25 【主】はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
3:26 【主】の救いを静まって待ち望むのは良い。
3:27 人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
3:28 それを負わされたなら、ひとり静まって座ってすわっていよ。
3:29 口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
3:30 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 主は、たとい悩みを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
3:33 主は人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
3:34 地上の捕らわれ人をみな足の下に踏みにじり、
3:35 人の権利を、いと高き方の前で曲げ、
3:36 訴訟で人を不当に扱うのを、主は見ておられないだろうか。
3:37 主が命じたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか。
3:38 わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
3:39 生きている人間は、なぜ不平を言い続けるのか。自分自身の罪のゆえにか。


ミカ7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

エレミヤ31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。

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