2022年9月11日「深い穴から御名を呼び」哀歌3:40〜66

序−沽券にかかわるという憤慨の言葉をよく聞きます。自分の品位や価値が下がり、プライドや面目が保てないという意味で使われる言葉です。でも、人の言うことで、自分の品位や価値が下がるのでしょうか。今日の箇所にも、敵の嘲りやののしりに対する詩人の反応が示されています。

T−諸国の民の間で、ごみ屑とされ−40〜45
 哀歌の詩人は、悔い改めを呼びかけています。40節。苦しんでいる民に対して、ともに主に立ち返ることを呼びかけています。悔い改めるために大事な要素は、「自分たちの道を尋ね調べて」ということです。自分の生き方や人生の歩みを尋ね調べてみようとよびかけているのです。自分自身に問いかけて、自分の問題点を調べるということです。悔い改めには、自分を吟味して、真の問題点は何かを明らかにすることが必要なのです。
 41節で「心を、両手をともに神に向けて上げよう」と言っていますが、目に見える手を神に向けることで、見えない心も神様に向いて、全身全霊をもって主に祈ることを強調しています。ですから、悔い改めの祈りは、「私たちは背き、逆らいました」と自分たちの罪を主の前に告白することから始まります。42節前半。
 そして、その罪の結果としての神様のさばきを告白しています。42〜45節。民が邪悪な犯罪を繰り返して、反逆したので、神様は自分たちを赦してくれませんでした。42節。むしろ、怒られた主は、自分たちをエルサレムから追い出し、捕囚とされました。43節。勝手な自分たちの祈りを聞かれませんでした。44節。そして自分たちは、諸国の民の中でゴミのように取り扱われるようになりましたと告白するのです。45節。
 これらはみな以前のような神様に対する文句や怒りではありません。哀歌3:1〜16。自分たち民の罪の結果だと受け止めていますという告白です。諸国民の間でごみ屑とされたと告白するのですが、迫害やののしりを受けた使徒パウロも、自分を世のちり、かすだと信仰で受け止めています。Tコリント4:13。肉のプライドで迫害していたパウロは、回心後、肉のプライドを捨てたからです。主に救われ、愛された自分こそ、健全なプライドです。
 また、自分たちの罪のために自分たちの祈りが聞かれなかったと知ることは大切なことです。神の民ですから祈ります。御言葉も聞きます。しかし、自分勝手なことを祈り、自分の都合の良い御言葉だけを聞き入れていたのです。おそらく、そうしていた自覚もなかったのでしょう。なぜ、聞いてくれないのか、なぜ見捨てたのかと文句を言っていたのです。
 エレミヤは、主に反逆し、自分勝手に歩んでいた民と自分も一緒にして、「私たち」と言っています。エレミヤもすでに学んだように、主に文句を言い、怒りをぶつけていました。起きた惨状を思い出しては嘆いて、沈み込んでいました。哀歌3:19〜20。でも、ただ思い出すだけでなく、その意味や意義を考えた時に、「自分たちが滅びうせなかったのは主のあわれみによる」と変えられました。哀歌3:21〜22。
ですから、「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」と呼びかけ、自分も民の一人として悔い改めの祈りをささげました。私たち一人一人も、自分の道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ります。

U−敵の嘲りや攻撃に対して−46〜56
 そのように祈った後、詩人は、敵のしたこととそれに対する自分の反応を繰り返し語っています。まず、敵が自分たちにしたことについてこう言っています。46〜47節。敵のしたことは、エルサレムに対する破壊や破滅だけではありませんでした。「敵はみな、私たちに向かって口を大きく開けた」というのは、自分たちに対する敵の嘲り、ののしり、中傷のことです。
 敵のバビロンばかりでなく、周囲の国々から浴びせられた悪口雑言です。哀歌2:15〜16。周りの国々は、これまでは対バビロン帝国の同盟国でした。ところが、ユダが滅ぼされると、嘲りや悪口を浴びせたのです。あなたが嘲りや悪口を受けたら、どうですか。悪口や嘲りは、民の心を痛めつけました。国が滅び、都が破壊され、民が捕囚にされて行く苦しみや失意に追い討ちをかける心の痛みとなり、憤慨を引き起こしました。
 なぜ人は悪口や中傷が好きなのでしょうか。人にダメージを与える行為なのに、どうして止められないのでしょうか。専門家は言っています。人は他人と比較したがるものです。そして、優越観や劣等感を抱きます。人が劣等感を抱くと、それは強烈な否定的感情なので、それを払拭したいという衝動にかられ、悪口や中傷として出したくなるというのです。
 人に対して悪口や嘲りを言うことで相手をおとしめることができる。そのように人を引きずり下ろすことによって自分の価値を相対的に上げることができる。それで内なる劣等感を緩和しようとする心理が働いてしまうと言われます。悪口は依存症であり、悪口を言う人の脳を傷つけ、寿命を短くすると言われています。
 そんな敵の嘲りや悪口に対して、エレミヤは、どんな反応をしたのでしょうか。48〜51節。嘲りや蔑みを受けて心が痛み、悲しみの涙を流しています。涙を流し続けました。怒りを敵にぶつけたり、悪口や嘲りを言うことはしません。不当な苦しみを受けても、悲しみに耐えました。Tペテロ2:19。それでも、その涙は、主が顧みられる時までだと、主のあわれみがくだることに希望を抱いています。これが重要です。
 嘲りや悪口を浴びたとしても、自分に対する神の愛と哀れみを確信しているなら、沈み込むことはありません。こちらも言わなければという反発心にかられることもありません。心理学者も言います。自己肯定感が高い人は、自分の考えや行動に自信を持てます。他人にとやかく言われても、その考えや行動はゆらがないというのです。
 次の敵の行為は、「私の敵」というように、エレミヤ自身の体験のようです。52〜53節。エレミヤは、民が聞きたくない預言をしました。バビロンは悔い改めない民への神のさばきであるから、降参せよということです。そのため、それを受け入れない民の反発を受け、誹謗中傷を受けました。エレミヤ20:7。怒って、エレミヤを憎んだ人々によって、牢のような穴に投げ入れて、殺されそうになりました。エレミヤ38:6。
 エレミヤの反応はどうでしょう。54節。どれほど恐ろしかったでしょうか。私は断ち切られた、つまり絶望だと主に向かって叫びました。私たちは、人々を救うために来られたイエス様も、人々の嘲りやののしりを多く受けられたことを思い出します。マタイ27:39〜41。あまたの嘲りやののしりを経験されたイエス様は、ののしられてもののしり返さず、神にゆだねられました。Tペテロ2:22〜23。私たちは、このイエス様の姿を思い出して、嘲りや悪口に対処することを願います。

V−正しくさばかれる方にお任せに−57〜66
 54節は、以前の訳では、「私はもう絶望だ」と意訳されていました。エレミヤが落とされた穴には、泥が溜まっていて、彼は泥の中に沈みました。本当に絶望だと感じたでしょう。エレミヤは、そんな絶望と恐れの穴から、主に祈りました。55節。この祈りでは、与えられた主の恵みとそれに対するエレミヤの反応が繰り返されています。絶望の穴の中での祈りは、神の恵みを覚えて、だから祈り、願うという大事な特徴があります。
 まず、「あなたは私の声を聞かれました」という主の恵みを賛美しています。56節前半。エレミヤは、以前、怒った高官たちに地下牢に入れられましたが、ゼデキヤ王によって助け出された経験があります。エレミヤ37:15〜21。そのような経験から、主は私の祈りを聞いてくださるという確信が与えられました。私たちも、主が私の祈りの声を聞かれたという経験があるでしょう。そういう恵みを思い出すことが必要です。詩篇103:2。
 その主が自分の声を聞かれたという恵みに対するエレミヤの反応は、どうですか。「私のうめき声に、私の叫びに、耳を閉じないでください」と祈りました。56節後半。祈りを聞いてくださった経験が、患難や絶望の中でも主に祈ることへ導いてくれるのです。詩篇40:1〜2を思い出しますね。この二句の順序には、非常に示唆に富むものがあります。過去に祈りが答えられたという記憶が、現在の祈りを促してくれるのです。
 次の恵みの経験は、57〜59節前半、主が私を「恐れるな」と励まし、私の訴えを取り上げ、私が虐げられるのを見守っておられたという経験です。その度にどれほど励まされ、慰められ、勇気を与えられたことでしょうか。それらの恵みに対する応答は、「どうか、私の訴えを正しくさばいてください」という主を信頼してゆだねる祈りとなりました。59節後半。
 さらには、敵に対する主の裁きの経験です。60〜61節。主は、敵の復讐や企みのすべてをご覧になり、私に対するそしりを聞かれたということです。過去悪を行う敵を主が取り扱われ、裁かれたという経験です。それに対する応答は、裁きの要請です。63〜66節。復讐を願うなんて信仰的でないと躓かれるかもしれません。確かにそうですが、裁きを要請しているだけで、自分で仕返ししようとしてはいません。復讐、さばきは主のなさることだとわきまえています。ローマ12:9。神の御怒りに委ねています。
 私たちも、悪口や嘲りを受けて、どんなに悔しくても、憎らしくても、神様に訴えるだけにして、主に委ねます。そして、救われた恵み、主の慈愛やあわれみを思い出して、祈ります。それによって、信仰的自己肯定感が増し、仕返しや怒りの思いが薄れます。Tペテロ2:22〜23。



哀歌3:40 自分たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。
3:41 自分たちの心を、両手をともに、天におられる神に向けて上げよう。
3:42 「私たちは背き、逆らいました。あなたは赦してくださいませんでした。
3:43 あなたは、怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました。
3:44 あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり、
3:45 私たちを諸国の民の間で、ごみ屑とされました。」
3:46 私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開け、
3:47 恐れと落とし穴、荒廃と破滅が私たちのものに望んだ。
3:48 娘である私の民の破滅のために、私の目から涙が川のように流れる。
3:49 私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、
3:50 【主】が天から見下ろして、顧みられる時まで続く。
3:51 私の目は、都のすべての娘たちを見て、この心を苦しめる。
3:52私の敵は、わけもなく、鳥を狙うように、私をつけ狙った。
3:53 私を穴に落として、いのちを滅ぼそうとし、私に石を投げつけた。
3:54 水は私の頭の上にあふれ、私は「断ち切られた」と言った。
3:55 「【主】よ。私は御名を呼びました。穴の深みから。
3:56 あなたは私の声を聞かれました。私のうめき声に、私の叫びに、耳を閉じないでください。
3:57 私があなたに呼び求めるとき、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました。
3:58 主よ。あなたは、私のたましいの訴えを取り上げ、私のいのちを贖ってくださいました。
3:59 【主】よ。あなたは、私が虐げられるのをご覧になりました。どうか、私の訴えを正しくさばいてください。
3:60 あなたは、私に対する彼らの復讐を、彼らの企みのすべてをご覧になりました。
3:61 【主】よ。あなたは、私に対する彼らのそしりを、彼らの企みのすべてを聞かれました。
3:62 私に向かい立つ者たちの唇と嘲りが、一日中、私に向けられています。
3:63 彼らの起き伏しに目を留めてください。私は彼らのからかいの歌となっています。
3:64 【主】よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、
3:65 彼らの心に覆いをかけ、彼らに、あなたののろいを下してください。
3:66 御怒りをもって彼らを追い、【主】の天の下から根絶やしにしてください。」


Tペテロ2:19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは、神に喜ばれることです。

エレミヤ38:6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。

Tペテロ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に欺きもなかった。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

詩篇40:1 私は切に、【主】を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。
40:2 滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌の上に立たせ、私の歩みを確かにされた。

ローマ12:19 愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

戻る