2022年9月18日「金は黒ずみ、黄金は色あせ」哀歌4:1〜10

序−皆さんは、貴金属、ジュエリーと言われるものをお持ちでしょうか。それらは、手入れが悪いと、変色したり、色あせたりするそうです。今日の箇所には、そんな価値ある物の変質がたとえとして用いられています。何を教えているたとえなのでしょうか。

T−以前のエルサレムの繁栄と栄光が去った今−
 再び「ああ」という嘆きから哀歌4章は始まっています。「ああ、なにゆえに、何としたことか」と酷く嘆いているのは、なぜなのでしょうか。すでに、エルサレムの滅亡、破壊について嘆いていたことは触れましたが、4章は、視点が違います。以前の神の民の栄光と栄光が去った今のエルサレムの民の惨状を比較しています。
 まず1節。「金は黒ずみ、美しい黄金は色あせ」というと、金は酸化しないし、変色なんかしないと突っ込まれそうです。でも、不純物を含み、王宮や神殿の破壊と火災で変質したのでしょう。皆さんがお持ちのジュエリーも、変色するでしょうか。伝えたいのは、美しい金が黒ずみ、色あせたという変化です。「聖なる石」とは、神殿に使われた石のことで、そんな石が砕かれて、道端に捨てられているという変化が強調されています。
 その金が何にたとえられていますか。2節。「シオンの子ら」です。つまり、エルサレムの住民、主なる神に愛された神の民のことです。イザヤ43:4。民を愛する神の目は、民は高価で尊い存在でした。その純金のような存在だった神の民が、今や色あせ、輝きを失い、価値のない土の器になったというのです。
 現代の人々にすれば、かつては家が繁栄し、仕事もよくできて、人から評価され、輝いていた。だが、今は何もかもうまく行かず、失敗し、批判や嘲りを受け、貧しくなり、人生は色あせたというような感じでしょうか。どんなに心が落ち込み、憂いに沈むことでしょうか。
 当時のこの地域の都市は、城壁を巡らした要塞都市でした。バビロン軍に取り囲まれたエルサレムは、2年間籠城を続けたので、食料は底をつき、人々は飢餓に苦しみました。エレミヤ39:1〜2。戦国時代もしばしば籠城戦が行われ、援軍が来ない場合、飢えて悲惨な状態となりました。ユダもエジプトの援軍を期待したのですが、来ませんでした。エレミヤ37:7〜8。
 籠城が続けば、どうなるのでしょうか。4〜5節。弱い幼子たちが真っ先に犠牲となります。「舌は渇いてへばり付き」とは、乳飲み子が飢え渇いて泣くことさえできないというほどです。ダチョウは、自分で卵を温めないで砂で孵すので、無慈悲だと言われています。ヨブ39:14〜16。飢餓のために、無慈悲にならざるを得ませんでした。そして、5節。かつて、ごちそうを食べて、緋色の高い着物を着せられて育てられた者も、痩せ衰えて、食べ物を求めて塵をあさる惨めさに変わったというのです。かつて持っていた尊厳がなくなりました。エルサレムの栄光は去ったのです。
 私たち自身の境遇は、どうですか。以前と比べてどのように変化しましたか。その変化をどう受け止めていますか。以前のようなことがなくなって、「ああ、何としたことか」と嘆くのでしょうか。私は惨めだ、栄光が去ったと言うのでしょうか。どんな変化であっても、主に心を向けて「滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ」というのでしょうか。哀歌2:22。
 籠城戦の飢餓は凄惨を極めます。どこかに行って、食料を調達することもできません。食べられるものはすべて食い尽くします。やがて、信じがたいことまで起こります。9〜10節。籠城戦の場合、しばしば起こりました。その凄惨さのゆえに、そうなる前に剣で殺された方がましだと言っています。どれほどの痛みを生き残った人々の心に与えたことでしょうか。
 私たちの人生にも、問題や事件によって、こんなことまでということが起こることもあります。それによって受けた心の傷、してしまったことで生じる心の痛みも残るでしょう。

U−神の民の堕落−
 エルサレムの惨状を見て、ああ、なにゆえに、こうなったのかと思います。バビロン帝国が攻めて来たからですか。籠城戦を選んでしまった、選択の誤りですか。エジプトが助けに来てくれなかったからですか。いいえ、神の民自身の罪のゆえでした。6~8節。ソドムの罪よりも大きかったという罪とは、何ですか。主なる神への背信の罪です。エレミヤ11:8,32:23。
 そもそも、かつて神の民は、エジプトで奴隷の境遇に苦しんでいましたが、しるしと不思議と、強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの国から連れ出してくださいました。エレミヤ32:20〜22。そして、父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。主なる神は、彼らをご自分の民として愛して、守ってくださり、繁栄を与えてくださいました。ダビデ、ソモロン時代のような栄光を見ることができました。
 ですから、エルサレムの栄光、民の繁栄は、すべて主なる神の愛とあわれみのゆえでした。今日の箇所には、以前の輝く神の民の栄光と繁栄が今と比べてられていました。かつては、神のものと聖別された者たちである信仰の民は、清く、容姿はサファイヤのようでした。7節。御言葉に聞き従い、信仰で歩んでいた時は、光り輝いていたのです。しかし、不信仰に陥った今や、顔はすすよりも黒くなり、皮膚はひからびて、乾いた木のような姿になり、見る影もありません。8節。
 クリスチャンも、信じたばかりの時、救われた恵みにきらきらとしています。恵みと祝福を受けて、生き生きと喜びをもって歩みます。しかし、いつしか恵みであることを忘れ、試みに会い、神から心が離れると、喜びと輝きがなくなります。黙示録2:4。
 主なる神は、民をエジプトから救い出された時、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じたように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と約束されました。エレミヤ11:4〜5。ところが、神の民は、主の御声に聞き従わず、律法に歩まず、主が彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、主は彼らを、このようなあらゆるわざわいにあわせられたのです。エレミヤ32:23, 11:8。民の方が主との契約を破ったからです。エレミヤ11:2〜3。
 神の民は、主なる神の愛と恵みを受けて歩み、繁栄と栄光を享受して行くうちに、その元がすべて神からのものであることを忘れ、自分の肉の思いに歩み、主に背を向け、偶像に仕えるようになりました。私たちも、はじめの愛を忘れ、救いの恵みと喜びを当たり前のように思い、自分の肉の思いと自分勝手に生きるようになってしまうことがあります。

V−純金やサフアイアのような価値ある私−
 すっかり栄光が去ったエルサレムの惨状を述べている今日の箇所ですが、ここにも恵みがあります。「娘である私の民」と繰り返し、呼ばれています。3,6,10節。民を愛する主は、彼らをご自分の娘だと言われるのです。本当に見捨てられて、裁かれるなら、そんな言い方はしません。このような状態になってもなお、見捨てておられないのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主のあわれみが尽きないからだ」と告白したエレミヤは、「主こそ、私の割り当てです」と賛美しました。哀歌3:22.24。主も、ここでも、「私の民」と言ってくださいます。
民を「高価であり、純金で値踏みされるシオンの子ら」と呼んでおられます。2節。かつては「容姿はサファイアのようであった」と言われます。純金は純金、宝石は宝石です。色あせ、汚れても、中味は変わりません。主に立ち返り、御言葉に聞き従う信仰の民となれば、再び色鮮やかとなり、輝き出すのです。私たちも、そうではないですか。
 私たちが主に立ち返り、私たちの心を主に向けるなら、私たちのところに主は来てくださり、私たちを目覚めさせ、改心させ、更新させ、恵みを確認させてくださいます。私たちは、傷もしみもないイエス様に救われました。イエス様は、人に捨てられた石が尊い礎石とされたお方です。Tペテロ2:4。ですから、イエス様に救われた私たちも、高価で、尊い者とされました。私たちは、世では土の器のように見られていても、内にはイエス様の栄光という宝を入れている存在なのです。Uコリント4:7。
 そもそもイエス様を信じて救われた者は、自らこの信仰によって生きることを決断した者です。自分を救ってくれた神様の御言葉に従って生きる者となったのですが、御言葉の価値観に従って生きないならば、神様を信じていることが無意味になります。その信仰は色あせ、変質し、実質のないものとなります。
 私たちは、イエス様が私たちの身代わりとなられたという代価を払って買い取られた者です。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさいと言われています。Tコリント6:20。イエス様の十字架という尊い犠牲によって救われた私たちも、純金やサフアイアのような価値ある者です。信仰に生きてこそ主の栄光を現し、御言葉に聞き従って生きてこそ輝きます。
 今輝いておられますか。色あせておられますか。どのようになるかは、環境によるのではありません。信仰に生きるか、御言葉に聞き従うかどうかによります。救われた恵みと祝福に応答して、輝きを取り戻して生きることを願います。Uコリント4:6〜7。



哀歌4:1 ああ、金は黒ずみ、美しい黄金は色あせ、聖なる石は、道端のいたるところに投げすてられている。
4:2高価であり、純金で値踏みされるシオンの子らが、ああ、土の壺、陶器師の手のわざとみなされている。
4:3 ジャッカルさえも乳房をふくませて、その子に乳を飲ませる。しかし、娘である私の民は、荒野のだちょうのように無慈悲になった。
4:4 乳飲み子の舌は渇いて上あごにへばり付き、幼子たちがパンを求めても、裂いてやる者もいない。
4:5 ごちそうを食べていた者たちは街頭で痩せ衰え、緋色の衣で育てられた者たちは、堆肥をかき集めるようになった。
4:6娘である私の民の咎は、ソドムの罪よりも大きかった。人手によらずに、一瞬に崩壊したソドムより。
4:7 その聖別された者たちは雪よりも清く、乳よりも白かった。そのからだは珊瑚よりも赤く、容姿はサファイアのようであった。
4:8 しかし、彼らの顔はすすよりも黒くなり、街頭でもそれと分からない。彼らの皮膚は干からびて骨につき、乾いて木のようになった。
4:9 剣で殺される人は、飢えで殺される者たちより幸せであった。疎の者たちは、畑の実りがないために、痩せ衰えて死んでいった。
4:10 あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子どもを煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。


イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

エレミヤ32:20 あなたはエジプトの地で、また今日まで、イスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。
32:21 あなたはまた、しるしと不思議と、強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から連れ出されました。
32:22 あなたが彼らの父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。
32:23 彼らはそこに行って、それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいにあわせられました。

エレミヤ11:4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、『わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じたように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる』と言って、彼らに命じたものだ。
11:5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。」私は答えた。「アーメン。【主】よ。」
11:8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なな心のままに歩んだ。そのために、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。

哀歌3:21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
3:22 【主】の恵みを。」実に、私たちが滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
3:24 【主】こそ、私の割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

Uコリント4:6 「やみの中から光が輝き出よ」と言われた神は、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

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