2022年9月25日「終わりが来た」哀歌4:11〜22

序−何事にも終わりがあります。2年間にわたるバビロンによるエルサレム包囲は終わり、BC586年にエルサレムは陥落します。その時の様子はどうだったのでしょうか。それには、どんな意味があるのでしょうか。

T−エルサレムに入って来るとは−11〜16
 エルサレムがバビロン軍に包囲され、籠城が続き、町の中は凄惨を極め、エルサレムの滅びが迫っていました。18節。そのような中で、町の人々は、どう思っていたのでしょうか。12節。堅固な城壁が破られて、敵がエルサレムへ入って来るはずはないと思っていました。幾たびか城壁は補強され、以前アッシリア帝国に囲まれた時、助かったことがあったので、エルサレムが陥落することはないと信じていたというのです
 「地の王、世界に住むすべての者も」誇張していますが、自分たちだけ思っているだけです。かつて侵入されたこともあります。取り囲まれて、籠城が続いているにもかかわらず、こんなに頑丈な城壁だから破られるはずがない、大丈夫だと勝手に思い込んでいたのです。そう、思いたかったのです。こういうことは、正常化バイアスと言われています。異常なことが起こった時、大したことはない、大丈夫と落ち着こうとする心の安定機能のようなものです。しかし、これが緊急事態の時、逃げ遅れの原因になっています。
 私たちは、問題に出会った時、どのようにそれを受け止め、どう対処しているでしょうか。御言葉によって状況を見極め、よく考えて判断し、信仰によって対処しているでしょうか。あるいは、ユダの民のように、自分の都合のよいようになると思い、大丈夫だとするでしょうか。そうするならば、的確な対処ができないことになります。
 そして、悔い改めて、主に立ち返ることなく、預言者や祭司と言った指導者たちは、主に背を向けて、自分たちに従わない者の血を流したというのです。13節。悔い改めとバビロンへの降参を勧めるエレミヤも憎まれ、捕らえられ、牢に閉じ込められました。エルサレムは破られない、大丈夫だと主張するあまり、反対の声を封じたのです。エレミヤ26:7〜9。
 このために、エルサレムは大軍に囲まれて終わりを迎えようとしていたのに、人々はこんな状態で、籠城を続けていたのです。こうして、悔い改めない指導者たちは、自分たちだけでなく、多くの町の住民を籠城に巻き込み、破滅に向かわせました。後に捕囚された時には、人々の憎しみと怨嗟の声を投げつけられることになります。14〜16節。日本の災害時では、行政の判断と指導によって、被害者の数が大きく違って来ます。
 ユダの滅びは、預言者たちの罪、祭司たちの咎のためと言われています。彼らは神の御言葉について知らない人々ではないからです。知っていながら、肉の思いを優先し、エレミヤの正しい預言を退け、偽りを民に教えたのです。私たちクリスチャンは、神の御心や御言葉を知っている者です。御言葉は人がどうして滅びに向かうか教えています。ですから、その生き方と証しを通して、悔い改めと御言葉に聞き従うというまことの命につながる道を示して行く使命があります。
 かつてアッシリアに包囲された時助かったのは、主が働いてくださったからです。U列王19:32〜36。町の人々は、エルサレムを強くしたのは、門ではなく主であることに気付いていませんでした。こうして、主の守りを失った時、エルサレムの門はバビロンの攻撃によって崩れてしまいます。エレミヤ39:1〜2。エレミヤのように悔い改め、主こそ頼るべきでした。哀歌3:24。エルサレムの滅亡は、バビロン帝国の強さのためではなく、「預言者たちの罪、祭司たちの咎のため」だったのですから。

U−助けを求め、期待したが−17,20〜21
 ところが、エルサレムは、主に助けを求めませんでした。17節。「救いをもたらさない国」とは、エジプトのことです。エジプトは、以前から、「何もしないラハブ」と呼ばれていました。イザヤ30:7。ラハブとは、ナイル川にいるワニのことです。水の中では獰猛なワニも、陸上では静かに寝そべって何もしないワニとなります。ですから、「助けを求めたが、むなしかった」と言っています。今か今かと見張り場で見張りをしたが、目は衰え果てました。苦しい思いが伝わって来ます。
 エジプトは、自国の防衛のためにバビロンに攻められているユダを助けようと言うのですが、バビロンと戦うことなく、引き返してしまいます。他国とはそういうものです。人は困難な時他人の助けを求めるでしょう。しかし、急に助けてくれと言われても、こちらも大変だ余裕がない、見返りも期待できない、そのように他人は反応するかもしれません。もちろん、神様は世の人々を用いて私たちを助けてくださいます。しかし、神様に背を向けているのに、人々を通して助けてくださるのでしょうか。
 エジプトは単に頼りにならないということだけではありません。神の民にとって、エジプトは、奴隷の境遇から大変な思いをして抜け出して来たところです。もう戻ってはならないところ、神様のいないところ、罪の囚われ人となるところ、そういう霊的意味があります。世の何かをエジプトのように頼りとするということは、神様のいない昔の人生へ戻って行くことになるということになります。
 使徒パウロは、イエス様に救われた私は十字架以外に頼りとするものはありません。この身に十字架の印を帯びている私を世に引き戻そうと煩わせないでくださいと言っています。ガラテヤ6:14,17。
 20節は、エルサレムが陥落する時、当時のユダの王ゼデキヤが兵士たちと一緒にエジプトに逃げようとした時の逃亡について語っているようです。U列王25:4〜7。鼻の息、主に油そそがれた者とは、王様のことです。現実を把握していない民は、「この方の陰なら、国々の中でも生きのびられる」と王を頼りにしていたのです。ところが、エルサレムが陥落する時、民を見捨てていち早く逃げました。頼りにはなりませんでした。
 頼りになるべきことが頼りにならないということもあります。当てにすべきことが当てにならないということがあります。同盟を結んでいたエドムは、ユダを裏切り、敵と一緒に略奪しました。21節。ユダの地の一部を手に入れることになります。オバデヤ1:9〜15。そんなエドムへの裁きが宣告されています。人を信じて失望させられたり、頼りにしていたのに裏切られたりということが多い世です。苦難の中で、神様を頼みとしましょう。イエス様の十字架によって救われている私たちなのでから。ピリピ3:3。

V−終わりは恵みの始まり−
 18〜20節は、エルサレムが陥落する時の混乱の様子を描いているようです。バビロン軍が城壁を破り、侵入して来ました。バビロン兵を目の当たりにして、恐れ逃げ惑う人々、どこに逃げようとも逃げることができず、捕まり、捕囚となります。18節では、「私たちの終わりは近づいた。私たちの終わりが来たのだ」と繰り返され、強調されています。
 籠城も2年間続きましたから、終わりがないように思えたのでしょうか。どんなことにも終わりがあります。苦難の中で、終わりがないと思うほど苦しいことはありません。ですから、終わりがあると知って生きて行く時に大切なことは、後悔しないように生きることです。エルサレム陥落の時、民も指導者も後悔しました。仇や敵がエルサレムの門に入って来るとは思わず、後悔しました。12節。期待をかけ助けを求めたが、むなしく後悔しました。17節。世にあって、多くの人々が後悔をしながら人生を終えます。
 しかし、聖書に登場する信仰の先輩たちは、後悔のない生涯を送りました。Uテモテ4:7〜8。私たちも地上の生涯を終える時、そのように告白したいと願います。後悔のない人生を送ることができたのは、主の御心を知り、御言葉に聞き従ったからです。自分に与えられた使命を知り、導きに忠実に歩んだからです。
 終わりがあると知って生きて行く人々に表れる特徴は、忍耐です。陥落して捕囚になった人々に必要なのは、捕囚が終わるまで忍耐することです。ユダが滅びて捕囚になることだけでしたら、忍耐できないでしょう。終わりがあり、後の祝福も預言されていました。22節,エレミヤ29:10〜11。捕囚が始まったばかりなのに、「あなたへの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移すことはなさらない」という後の祝福が与えられました。終わりは恵みの始まりです。
 私たちが人生を生きて行くならば、多くの苦難を経験し、多くの危機に遭遇します。しかし、主の約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。ヘブル10:36。苦難に耐えるには、苦難がずっと続くことではないことを知らなければなりません。トンネルは長くても必ず終わりがあります。私たちが経験する苦難も、必ず終わりがあります。
 ゼデキヤ王について「油そそがれた者」(20節)と言われていますが、この油そそがれた者をギリシャ語で言うとキリストとなります。そうです。やがて、ダビデ王家につながる者としてイエス・キリストがお生まれになります。ルカ2:11。そして、十字架の犠牲によって人々を罪と滅びから解放してくださいます。Tテモテ1:15。人々は、イエス・キリストを十字架にかけて殺しましたが、それによって信じる者の罪許され、天国への命が与えられました。エペソ1:7。イエス様こそ私たちを贖ってくださるはずだと望みをかけることができる幸いを感謝します。ルカ24:20〜21a。





哀歌4:11 【主】は憤りを出し尽くし、燃える怒りを注ぎ出された。主は、シオンに火を放ち、火はその礎を焼き尽くした。
4:12 地の王たちは信じていなかった。世界に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に入って来るとは。
4:13 これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らは、その町のただ中で、正しい人の血を流した。
4:14 彼らは血に汚れ、目の見ない人のように街頭をさまよい、だれも彼らの衣に触れることはできなかった。
4:15 「向こうに行け。汚れた者」と人々は彼らに叫ぶ。「向こうに行け。向こうに行け。さわるな。」彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。国々の民の中で人々は言う。「彼らは二度とここに寄留してはならない」と。
4:16 【主】ご自身も彼らを散らされた。もう彼らに目を留められることはない。祭司たちも尊ばれず、長老たちは敬われなかった。
4:17 それに、私たちの目は衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは、救いをもたらさない国に期待をかけ、見張り場で見張りをしたのだ。
4:18 私たちの歩みはつけ狙われて、広場を歩くこともできなかった。私たちの終わりは近づいた。私たちの日は満ちた。私たちの終わりが来たのだ。
4:19 私たちを追う者は、大空の鷲よりも速かった。山々の上まで追い迫り、荒野で私たちを待ち伏せた。
4:20 私たちの鼻の息、【主】に油そそがれた者が、彼らの落とし穴で捕らえられた。私たちは「この方の陰なら、国々の中でも生きのびられる」と思っていた。
4:21 ウツの地に住む娘エドムよ。楽しみ喜べ。だが、あなたにも杯は巡って来る。あなたは酔って自分の裸をさらす。
4:22 娘シオンよ。あなたへの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移すことはなさらない。娘エドムよ。主はあなたの咎を罰し、あなたの不義をあばかれる。


ガラテヤ6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

ピリピ3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

エレミヤ29:10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ヘブル10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

エペソ1:7 このキリストにあって私たちは、その血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ルカ24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21a しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。


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