2022年10月2日「私たちを心に留めてください」哀歌5:1〜18

序−別離や災害などによって強い喪失感におそわれるようになると、悲嘆にくれ、無気力やうつ状態になることがあります。国の滅亡と都の破壊によって、エルサレムの人々は深い喪失感におおわれました。

T−すべては奪われ、失われ、廃れる−2〜18
 バビロン軍によってエルサレムの城壁が破られ、町が破壊され、略奪、蹂躙が行われ、神殿や宮殿も焼き払われ、すべてが廃墟となりました。5章では、アルファベットの各節始まりという技法はなくなり、各節同じような表現を繰り返し、強調しています。たとえば、2節。私たちのゆずりの地は他国人の手に、私たちの家は異邦人の手にというように、同じようなことを繰り返しています。神の民の基盤である主からの相続地が奪われた、家が失われたということが強調されています。ヨシュア13:7。
 家も家族も失われ、一人残されました。2〜3節。どれほどの喪失感、孤独感でしょうか。みなしご、やもめのようだと言うのは、精神的な孤独感、経済的な困窮をあらわしています。それなのに、自分たちのものであった水や薪も、お金を払って手に入れなければならなくなりました。4節。私たちの人生においても、退職や異動などで、それまでの生活基盤が失われ、まったく変わってしまうということが起こります。離別や死別という辛い悲しい経験もします。喪失感も感じるでしょう。
 それまでの境遇は失われ、奴隷とされ牛馬のように休みなく働かされる境遇となりました。5節。現代社会でも、辞職や離職に追い込まれ、仕事の内容や環境が以前より厳しくなるということが起こります。人々は、バビロンに支配される者となりました。8節。奴隷たちとは、バビロン帝国の命令で自分たちを支配する者のことでしょう。奴隷に支配される境遇となりました。かつての社会的地位や立場、境遇というものの喪失です。
 先祖たちの罪のために自分たちがこうなっているという思いが吐露されています。7節。人が人生の変化の中で喪失感に抱えると、その原因となったことへの恨みや怒りも生じて来るようです。
 戦争は終わったものの、飢餓のために荒野へ食べる物をさがしに行かなければならないのに、略奪する者が待ち受けています。9節。長い籠城の栄養失調のために、肌の色が変化するほどです。10節。普通に食べて過ごしていた安全の喪失です。
 後半は、戦争による人々の日常生活が失われたことが述べられています。11〜15節。痛々しく、悲惨の極みです。バビロン軍による蹂躙によって辱めを受けました。首長たちは、殺されました。生き残った者は、重労働を課せられ、子どもも働かされました。城門は、長老たちが訴訟を扱い、年寄りがのんびり往来をながめ、若者が集まり楽しむ所でした。しかし、年寄りは集まらず、若者は楽器を鳴しません。人々から楽しみ、喜びが失われたのです。私たちも、問題や事件にあえば、当たり前の日常生活が失われることもあるでしょう。
 16節の冠とは、神の民、ダビデ王朝としての自尊心をあらわしています。それが落ちたというのは、彼らの神の民としての尊厳が失われたということです。荒れ果てたシオンの山の上とは、神殿のことです。そこを狐が歩き回っているほど荒廃しています。これもまた、神の民の栄光が失われたことをあらわしています。私たちも、失敗や批判によって、自尊心が傷つけられ、失われることがあるでしょう。喪失感を抱きます。

U−喪失感による苦しみや病気−15〜17
 あまりにも多くの喪失感を覚えると、心は痛み、体に変調をきたし、病に陥ります。15〜17節。様々な失われたものを挙げながら、喪失感におおわれ、心は病み、目が暗くなりました。神の民の心から喜びが消えて、喪に服すような心の状態になりました。
 エルサレムの神の民が体験した喪失感は、かつて自分たちに付属していたことをことごとく失ったことに起因します。いわゆる対象の喪失です。対象となるのは、親密感のあった人や物です。とくに、家族や友人などとの離別や死別です。エルサレムの人々も、家族との離別や死別によって深い悲しみに沈み、喪失感におおわれました。
 現代では、子どもたちが育って、家庭を離れることで、残された親が深い喪失感におそわれることが注目されています。空の巣症候群と言われます。また、ペットもまた、家族同様、いや時にはそれ以上の喪失感を与えるケースが増えています。ペットがいなくなったり、死んだりすることで起こる強い失意や悲しみで、ペットロス症候群と言われます。
 長く所属し、生活してところから離れることも、喪失感に影響します。学校の卒業、長年勤務した職場からの異動や退職、入学や就職で家庭から離れることなどです。エルサレムの人々は、それまで生活した町や家や職場そのものがなくなりました。長く使って親しんでいた道具や器具が壊れたり、失ったりすることでも喪失感を体験します。
 私たちは、どんなことで喪失感を覚え、どんな喪失体験をして来たでしょうか。人生は、喪失の連続、喪失の繰り返しのようなものです。生活の変化によって愛着のある大切な対象を失うことは避けることができません。愛別離苦に遭遇します。対象の喪失によって、悲しみや無力感、寂しさや孤独感を感じるようになります。そうした体験は、自然に起こる感情のプロセスなのです。
 とは言え、突然の喪失に、その事実さえ受け入れることができない場合もあります。誰でも、大切なものを失うことはとても辛いことです。悲しみや失意の感情とともに、そうなったことへの怒りも感じられて来ます。神の民の場合は、先祖の罪のせいだという思いとしてあらわれました。
 17節で「このために、私たちの心は病みました」と言うのですが、喪失感におおわれて、どんな病気になったのでしょうか。人が極端な喪失感を経験すると、心がうつろになり、それが続くとうつ病になります。何をしても嬉しくなく、何をしても意味がないように感じられます。また、喪失感を抱えると、睡眠障害や頭痛、疲労感や体調不良といった身体的反応もあらわれます。目が暗くなったのも、その一つでしょう。
 私たちも深い喪失感を経験すると、そのために心の病気になることがあります。無気力になって、閉じこもり、食欲不振となり、心が荒廃します。どうすれば、いいのでしょうか。

V−主こそ私たちのグリーフ・ケア−1
 1節を見てください。哀歌の詩人は、主に祈っています。「私たちに起こったことを心に留め、私たちの汚名に目を留めて、よく見てください」と頼んでいます。「心を留め」と訳されたザカルは、覚えている、考えているという意味の言葉です。ですから、私たちに起こったことを覚えてくださいと祈っているのです。そして、主なる神が私たちの苦しみや喪失感を覚えてくださるということで慰めを受けるのです。私たちの人生にも、ザカルの祈りが必要です。喪失の痛みの中で、主なる神が私を覚えてくださるということで癒しと希望が与えられます。
 深い喪失感によって心が病んでいることから回復するためには、どんなことが必要なのでしょうか。現代の心理学では、対象の喪失を現実のものとして受け入れることだと言います。そうすることで愛着を断念するようになり、失った対象に対する肯定的な感情が生じるようになると言うのです。哀歌の詩人は、人々の悲嘆と喪失の実態を祈る中で、喪失の現実を受け止めていきました。
 7節では、これらの喪失は父祖たちの罪のせいだと言っていましたが、様々な喪失を吐き出しながら、16節では「私たちは、ああ、罪ある者となりました」と告白するに至ります。喪失の現実を受け止め、愛着を断念し、新たな思いへ進んで行く準備ができて来ました。
 喪失感からの回復のために、心理学が勧めていることに、グリーフ・ワークと呼ばれているものがあります。それは、喪失感を癒すプロセスのことで、その第一歩は感情をありのままに吐き出すということです。哀歌の詩人は、主に祈りながら、喪失感の感情をすべてありのまま吐き出しています。私たちも、もし喪失感を抱くことになったなら、主に祈り、辛い喪失の体験を吐き出しましょう。
 喪失感を吐き出すことで心理学が勧めるのは、友人だったり、カウンセラーのような専門家だったりします。大切なことは、そこが自分の感情を否定せずに受け止めてくれる場所かということです。私たちは、そのような喪失感の痛みや憂いを信仰の友に胸のうちを聞いてもらい、祈ってもらうことができます。
 さらに、喪失感を癒す過程において、心理学は、感謝の気持ちを持つことを勧めています。感情をあるがままに吐き出した後は、感謝するようにというのです。人生において自分の一部のように愛着を持てる存在に出会ったことは奇跡ですし、一緒に過ごした時間は消えません。神の民も、すべてが与えられていたことを感謝するようになります。詩篇103:2〜5。
 イエス様は、御子としてのすべてのことを失いながら、十字架にかかられました。ピリピ2:6〜8。それゆえに、私たちは救われ、罪赦され、失われていた神の子どもとしての特権と天国への命を回復し、恵みと祝福を受ける者とされました。



哀歌 5:1 【主】よ。私たちに起こったことを心に留め、私たちの汚名に目を留めて、よく見てください。
5:2 私たちのゆずりの地は他国人の手に、私たちの家は異邦人の手に渡りました。
5:3 私たちは父のいないみなしごとなり、母はやもめのようになりました。
5:4 私たちは自分の水を、金を払って飲みます。薪も、代価を払って手に入れます。
5:5 私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても憩いを与えられません。
5:6 私たちは十分な食物を得ようと、エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。
5:7 私たちの先祖は罪を犯し、今はもういません。彼らの咎は私たちが負いました。
5:8 奴隷たちが私たちを支配し、彼らの手から解き放ってくれる者はいません。
5:9 荒野には剣があり、私たちはいのちがけで食物を得ています。
5:10 私たちの皮膚は、飢饉の激しい熱で、かまどのように熱くなりました。
5:11 女たちはシオンで、おとめたちはユダの町々で、辱められました。
5:12 首長たちは彼らの手で木につるされ、長老たちも尊ばれませんでした。
5:13 若い男たちはひき臼をひかされ、幼い者たちは薪を背負ってよろめきました。
5:14 長老たちは、城門のところに集まることを、若い男たちは、楽器を鳴らすことをやめました。
5:15 私たちの心から、喜びが消え、踊りは喪に変わりました。
5:16冠も頭から落ちました。私たちは、ああ、罪ある者となりました。
5:17 このために、私たちの心は病みました。これらのために目が暗くなりました。
5:18荒れ果てたシオンの山の上を、そこを狐が歩き回っています。


詩篇103:2 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

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