2022年10月9日「主よ、帰らせてください」哀歌5:19〜22

序−信仰とはいったい何でしょうか。大抵の人が信仰と言うと、自分が主体になって何かを信じることだと思っています。そのような信仰なら、人の選択と決心でよいことになります。自分の思い通りなれば喜び、うまく行かなければ背を向けます。哀歌を通して、私たちの信仰とは何かということを知るようになります。

T−あなたはとこしえに御座に着かれ−19〜20
 預言者エレミヤが、このままでは国が滅びる、悔い改めてバビロンに降伏するようにと主なる神の言葉を伝えても、その内容が気に入らないとしてしりぞけ、自分たちの思うにしてバビロンと敵対し、ついに滅びました。自分が主体となる信仰、自己中心性が妨げになったということです。
 ですから、哀歌の詩人は、祈りの最後で「主はとこしえに御座に着かれる、御座は代々に続く」と繰り返します。19節。都は廃墟になっても主の栄光は永遠に続く、だから希望はなくならないのです。信仰の主体は、主なる神です。神の民は、神の約束と神の愛によってこの地に入って来ました。神の恵みで生きて行く者でした。私たちもそうです。神様によって選び出され、イエス様によって救われました。ただただ、神の一方的な恵みによって救われました。私たち自身が聖書の神を選択したのではなく、主なる神が救いに私たちを選んでくださいました。ヨハネ15:16。
 しかし、神の民はやがて繁栄は自分たちの力と思い、主を忘れて、周りの異邦人の方法で生きるようになりました。苦しいことが続けば主に願い頼るが、うまく行けば自分の力と思い、主に従うことをせず、自分勝手になりました。思い通りに行かなければ背を向けました。自分が主体の信仰は、ご利益信仰と変わらないのです。主は、彼らが間違った道に行くたびに預言者を送り、呼びかけました。しかし、主が呼べば呼ぶほど背を向け、勝手な道へ進んでしまいます。戻って来ませんでした。ホセア11:1〜7。
 主が優しく守り育んだのに立ち返らず、ついに背信の彼らが滅びを招いても背信をやめなかったといいます。それでも、主は、どうして彼らを見捨てることができようか、わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっていると言われるのです。ホセア11:8。
 都エルサレムの陥落後の荒廃と民の喪失感をずっと述べた後、19節で「主よ、あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの御座は代々に続きます」と告白するのは、主のあわれみと愛は変わらないという告白です。そうです。たとえすべてを失っても、環境がどう変わっても、主なる神は神の民から失われません。1節から、「私たちに起こったことを心に留めてください」と祈って来た神の民が思い出したのは、主の御座でした。人生の基盤がすべて失われた時、御座に目を向けたのです。
 そこには私たちの悲惨、痛みを覚えて、心に留めてくださる主がおられるからです。「私たちをお忘れになられるのですか。私たちを長い間、捨てておられるのですか」と祈りながら、御座におられる主を覚えました。20節。「忘れる」と「捨てる」という動詞は、ともに未完了形です。つまり、完全に忘れた、捨てたということではないということです。ですから、今も主の前で嘆くことができて、泣いて訴えることができるのです。神の民が壊れた自分の人生を回復する道は、父のみもとに戻る以外にありません。エレミヤは、その御座を思い出し、回復を求めます。

U−みもとに帰らせてください−20〜21
 ですから、神の民の祈りは、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください」と祈りました。21節。民をエジプトの奴隷から救い出してくださった主なる神は、民がご自分に聞き従うなら民は主の主なり、ご自分が民の神となり、約束の地を与えると約束され、契約を結ばれました。エレミヤ11:4〜5。
 ところが、神の民は、主なる神との契約を忘れて、周りの国々の影響を受けて偶像崇拝に陥り、罪の生活をするようになりました。約束の地に入る時言われた警告、そのようにすれば滅びると言う通りになりました。エレミヤ11:10〜11。もう彼らには、契約に戻る力も権利もありません。
 昔のようにしてくださいとは、昔の契約に戻してくださいという願いです。エレミヤは、「主のみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります」と祈っています。この祈りは、自分たちには悔い改めて、主に立ち返る能力がないということを認める祈りなのです。悔い改めによって昔の関係に戻してくださるようにお願いしています。
 19節で「あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの御座は代々に続きます」と告白しているのは、主の契約が永遠であり、変わらないということです。だから、昔の契約のように戻してほしいと懇願しているのです。神の民が契約を守らなかったとしても、裏切ったとしても、主は自分たちを顧みてくださると言っているのです。信仰の主体は神様なのです。これを信じることが信仰です。
 エレミヤは神様の永遠と不変を徹底して信頼し、このような祈りをしたのです。主が戻してくださらなければ、帰れないというのです。20節で言うのは、主が契約を忘れて、自分たちを捨てているように見えるからです。確かに暗い現実を見る時は、絶望の嘆きしか出て来ません。万物と歴史の主管者であられる神、ご自分の契約に忠実な神様を覚えれば、新しい力を得て、希望を語ることができます。イザヤ40:31。大変な時に、主なる神に頼らないでどうするのでしょうか。悲惨な状況のなかでも、主に立ち返り、希望を持って嘆き、祈るのです。
 神に立ち返るのに、自分から立ち返ればいいのに、どうして「みもとに帰らせてください」というのでしょうか。21節。主との契約を破り、主に背を向け、御言葉に聞き従わなかったからです。それは、神との関係を拒否する神への反逆でした。神との関係において、深刻な罪を犯していたのです。人の神に対する不従順と反逆は、イエス・キリストの十字架の血によるしか裁きを避けることができません。
 エレミヤは、「なぜ、いつまでも私たちをお忘れになられるのですか。私たちを長い間、捨てておられるのですか」と言っていましたが、イエス様は、十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。このイエス様の十字架の犠牲があるから、私たちは主のみもとに帰ることができるのです。イエス様の十字架に救われた者は、主に帰ることができます。主のみもとに帰りましょう。

V−本当に私たちを退け、私たちを怒られるのでなければ−21〜22
 しかし、21節で回復を祈りながら、最後の22節では、主が「本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒られるのでなければ」と何か但し書きのような、主のみもとに帰りたいのかどうか分からないような表現となっています。以前の訳では、「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか」と疑問文になっています。但し書きでも疑問文でも、不自然な終わり方に見えますが、21節の願いがなるのも主の御心によることだと言っているのです。徹底して主の主体性があらわされているのです。
 この疑問文に対する答えは、「それでも、主は、どうして彼らを見捨てることができようか、わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言われていることに見ることができます。ホセア11:8。人が主のみもとにはもう帰れないのでは、無理なのではと思っても、主は神の民に対するあわれみで心は熱くなっていると言われるのです。どれほどの愛とあわれみでしょうか。
 ここに、私たちの信仰があります。信仰の主体は、心が変わり、罪に翻弄される私たちにあるのではなくて、私たちに対するあわれみで心が熱くなられる主なる神様にあるのです。主は、ご自分の子らを退け、怒られたままではおられません。まるで家を出た放蕩息子を遠く眺めて待っていた父のようです。ルカ15:11〜20。父の家を去って自分の思うまま生きて放蕩息子が帰って来たのは、飢えていたので食べるためですか。いいえ、ただ父のみもとに帰ったのです。父の愛とあわれみを信じたからです。
 主なる神に帰ることは、関係の回復、契約を覚えてくださいということでした。21節。「新しくしてください」と言うのも、主との関係を新しく、契約を新しくしてくださいということになります。古い契約では人が何度も破ってしまい、とうてい守られないからです。エレミヤ31:18。エレミヤの預言で、すでに主が新しい契約を結ぶと教えておられます。エレミヤ31:31〜34。
 この新しい契約は、やがてイエス・キリストが世に来られ、人々の罪を背負って十字架に犠牲となられることによって実現されます。ルカ22:20。人の業は何も入っていません。ただ主の恵みとあわれみよる新しい契約です。すべてを失われ、すべてを放棄されたところが、イエス様の十字架です。人々の期待が消え、見捨てられたところです。誰が見ても、完全な滅びの場です。しかし、イエス・キリストは十字架の死から復活されて、新しい契約を成就してくださいました。ヘブル12:2。私たちは、このイエス様の救いによって新しくされた者です。神の子とされて、恵みと愛を受ける者とされました。ですから、この恵みに応じて、主のみもとに帰り、主とともに生きるのです。ホセア11:8。



哀歌 5:19 【主】よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの御座は代々に続きます。
5:20 なぜ、いつまでも私たちを忘れになられるのですか。私たちを長い間、捨てておられるのですか。
5:21 【主】よ。あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。
5:22 あなたは本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒られるのでなければ。


ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ホセア11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とこれは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

エレミヤ31:31 見よ。その時代が来る。──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った。──【主】のことば──。
31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──【主】のことば──。わたしはわたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ。──【主】のことば──。わたしは彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

ルカ22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による、新しい契約です。

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