2022年10月16日「福音による恵みと平安」ガラテヤ1:1〜5

序−クリスチャンが手紙を書く場合、一般的な書き出しの定型とは違い、信仰者としての書き方をする場合があります。私たちは、自分のことをどう紹介しているでしょうか。聖書にある手紙は、どのような書き出しとなっているのでしょうか。どんなことが記されているのでしょうか。

T−自分の働きは神から−1〜
 ガラテヤ書は、書き手であるパウロ自身の紹介から始まっています。1節。使徒とは、遣わされた者という意味です。遣わすために呼び出された者ということです。イエス様がご自分の人生と死と復活の意味を知らせ、福音を伝えさせるために呼び出された者です。「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされた」と言うのは、誰かに任命されたでもなく、自分の力によって就いたわけでもないということが強調されています。
 そこから、主に召しだされ、主に仕えるという働きの目的が出て来ます。今日使徒職はありませんが、私たちも使徒たちが行っていた働きを継承しています。福音を宣べ伝え、教会を建て上げる働きです。使徒とは遣わされた者です。私たちはどこに、誰に遣わされているのでしょうか。
 パウロが、自分の使徒職がイエス様と父なる神から与えられたと言う時、自分自身の存在がイエス様と父なる神によると思っています。パウロは、自分のことを、イエス様によって救われた恵みによって、今の自分になったと証ししています。Tコリント15:10。使徒としてなしていることはすべて、召してくださった神の恵みであって、自分の力によってではないと言っています。私たちは、自分自身についてどう思っていますか。
 クリスチャンにとって、職業や働きも神様からの召しと考えることができます。その職業や働きを通して神の栄光を表し、神の国とその義を成し遂げるために呼び出されたのだということが、クリスチャンの職業の召命観です。職業や働きを考える時も、自分がやりたいことだけではなく、主の召しは何か、どこに導かれるのかという祈りが必要です。
 パウロは、イエス様と出会わせて救ってくださり、罪を赦してくださり、生まれ変わらせてくださったと証ししています。ですから、今の自分は救いの恵みによるということがアイデンティティーとなっています。私たちにも、この自己認識が必要です。

U−イエス・キリストは救い主−〜
 自分自身を紹介するのに、イエス・キリストによる救い、福音を証ししています。4節。イエス様は、なぜ十字架に死なれたのでしょうか。まず、「私たちの罪のためにご自身を与えてくださいました」と言っています。私たちを罪から救うために、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架にかかられました。それによって、イエス様を信じる者の罪が赦され、新しい命が与えられるようになりました。ローマ5:8〜9。
 人は元来造り主である神から離れ、罪のおもむくまま生きていました。罪に翻弄され、肉の欲のままに歩む人生を生きることになります。エペソ2:3。その罪のゆえに神の御怒りの対象であり、滅ぶべき者であった者たちが、イエス様の犠牲によって神との和解が与えられ、罪の赦しを与えられました。このことを贖いと言います。エペソ1:7。神の御子が、自分の救いのために十字架に犠牲となられたというのです。
 これ以上の恵みがあるでしょうか。私たちは、イエス様が自分のために十字架にかかられ、犠牲となられたということをおろそかにしてはなりません。その罪のために自分が死んで滅びるところを救っていただいてという神の哀れみと愛を覚えなければなりません。
 次に、「今の悪の世界から私たちを救い出すために」イエス様が十字架に死なれたと言っています。イエス様の十字架の死は、私たちを死と滅びから救って、天国への命を与えてくれるだけでなく、悪の世界から救い出してくださるというのです。エペソ2:1〜2。罪におおわれた世は、悪い霊が支配するところであり、その中にいた私たちは背きと罪のゆえに死んでいたような者でした。そのために、争い、ねたみ、憤り、ののしり、悪口をするようになっていました。ガラテヤ5:20〜21,マタイ5:11。
 そういう罪の悲惨な世界から救い出されたという恵みは、どれほど感謝なことでしょうか。ただし、それを得るようになったのは、私たち自身の努力や節制、知恵や能力によったのではありません。一方的な恵みです。エペソ2:4〜5。ですから、有り難味が分からず、感謝の思いが薄いと、その救いの恵みに応えて生きようとしないのです。救い出された者は、世にあっては、地の塩、世の光として生きることが必要です。マタイ5:13〜14。
 そして、イエス様は、「神である父のみこころにしたがったので」十字架に死なれました。旧約聖書を学ぶと、神様がやがて救い主を送られ、犠牲となられるということが預言されているのを知ります。イエス様の十字架の犠牲は、神様が準備してくださった救いのご計画の成就なのです。イエス様が十字架で死なれたのは、御父なる神のみこころのままにされたということです。ルカ22:42。私のために苦しまれた主を覚えます。
 パウロ自身も、かつてはクリスチャンを迫害していたような人です。しかし、復活されたイエス様に出会って回心し、救われ、使徒としての召しを受けるようになった人でした。彼の生き方はまったく変わりました。それまでは、自分の栄誉のために、人から認められるために悪いことすら行っていた人でしたが、回心後は命をかけて神の栄光を表すために働き、生きました。
 救われたクリスチャンは、その働きと生活を通して、神の栄光を表すために生きる者となります。私たちはどうでしょうか。少なくとも、そのことを意識して働き、生活したいと願います。

V−与えられる恵みと平安−3
 イエス様の十字架を信じる者は、救われたばかりでなく、この救いによって与えられるものがあります。3節。それが、「恵みと平安」です。恵みと平安は、神からの最大の祝福です。知らなければ受けていないと同じです。知らなければ、享受することはできません。ですから、改めて学ぶことにしましょう。
 まずは、恵みです。カリスと言う言葉は、喜び、親切、好意を意味する言葉で、恵みが最も適した訳です。人は誰でも恵み、喜び、親切、好意を受けたいと求めるものです。ところが、自分が人に与えていないのに、人から受けることを期待します。自分は人に与えているのに、自分は受けられません。そういうことで、がっかりしたり、不満を持ったりします。
 パウロは、恵みと平安を「神と主イエス・キリストから」受けるように祈っています。カリスという言葉には、プレゼントの意味があります。プレゼントは、代金を払って受けるものではなく、ただで受けるものです。イエス様を知って、イエス様が救い主であると信じて救われます。それによって、神に拠り頼むことができる者となりました。信仰は、プレゼント、神からの贈り物です。ですから、救いは神の恵みだというのです。
 聖書を学ぶと、私たちがどれほどの罪人であるか分かります。それなのに、イエス様を信じた私たちを罪なしと認めてくださいました。神の子どもとしてくださいました。ですから、神様は、私たちがミスを犯したり、失敗したりしたとしても、悔い改めて、立ち返るようにさせてくださいます。私たちは、見捨てられることはありません。Uコリント4:9。
 救いの恵みは、救われた後も続きます。日々の生活の中でも恵みを与えてくださいます。恵みはお金で買えますか。自分の力で手に入るものですか。神の恵みでしか受けられません。他人からの恵みでさえ、神様の介在によるものということができます。良い人との出会いや交わり、相応しい働きの場や守られた生活も、神様の恵みです。私たちが信仰による神の恵みを受けていると、私たちから他人にその恵みが流れるようになります。
 救いによって与えられるもう一つの祝福は、平安です。誰でも平安を求めます。平安な人生、平安な働き、平安な家庭を必要としています。罪と悪が横行する世にあって、多くの人々が平安を感じることができないために、どれほど悲惨な生活をしていることでしょうか。
 平安を受けるのに、勘違いしていることがあります。平安は環境が整えられることだと思うことです。人は、困難や問題のない環境、自分の思い通り進む環境を期待します。そういう期待は諦めなければなりません。そんなところはどこにもないでしょう。でも、がっかりしないでください。たとえ環境が悪くても、平安を覚えることができるからです。パウロの環境は、とても患難が多いものでした。Uコリント11:23〜28。そのような環境の中で、パウロは平安を味わいました。使徒16:25。
 平安、エイレーネとは、神様との関係が正常な時に与えられるプレゼントです。人は、神との関係が整っている時、心の深いところで平安を感じます。ですから、神様との関係を正さずに環境をいくら変えても、平安にはなりません。神様との関係を直すために神様が求めることは、人が罪を悔い改めて、イエス様を信じることです。信じたら、日々イエス様に拠り頼むことです。救われた結果が平安だからです。救われて神の子どもとされたなら、自分の人生を確実に委ねるところができ、そうするならたましいの平安を味わうことができます。ガラテヤ1:3。



ガラテヤ1:1 人々から出たことではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと
1:2 私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自身を与えてくださいました。私たちの神である父のみこころにしたがったのです。
1:5 この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。


Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

エペソ1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、そむきの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

エペソ2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中にあって今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの罪の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。


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