2022年10月23日「イエス様を信じるだけ」ガラテヤ1:6〜10

序−悪魔は細部に宿るということわざがあります。些細な違いに本質的な違いが隠されているから気をつけろという意味です。イエス様の十字架を信じることで救われるという信仰が揺れ動かされることが起きます。その危険を、ガラテヤの聖徒たちの例から学びます。

T−別の福音があるのではない−6〜7
 6節からガラテヤ人への手紙の本文が始まりますが、原文の冒頭は「驚いている」という動詞です。パウロの衝撃がこの冒頭に出ています。使徒13,14章を読んでみると、1世紀中頃宣教師パウロが小アジア南ガラテヤの地域に伝道し、多くの人々が救われ、その地域に教会ができて行きました。パウロは、彼らの心を強め、しっかり信仰に留まるように励まし、教会ごとに長老を選び、祈って彼らを主に委ねて、その地を去りました。使徒14:21〜23。パウロは、その地で幾度も命の危険に会い、労苦しながら福音を伝えました。心を注ぎながら、仕えました。使徒14:19。
 ところが、しばらく経って聞こえて来たニュースが、ガラテヤの聖徒たちが「キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くこと」だったのです。どんなに衝撃を受け、どんなに残念に思ったことでしょうか。その思いが冒頭の「私は驚いています」に表れています。
 イエス・キリストが私たちの罪と滅びの身代わりに十字架にかかってくださったことを信じるだけで救われるというのが、聖書の福音です。エペソ2:8〜9。人々は、それまでは、因習に捕らわれてむなしい生き方をしていました。心の安定や生きる喜びを味わうことがありませんでした。けれども、イエス様を信じて救われて、そこから引き出され、自分を救ってくれた主とともに生きる喜びの生活を始めました。それなのに、どうして主から離れて、別の福音へ移って行くようになったのでしょうか。
 別の福音があるわけではありません。7節。ガラテヤにユダヤ人がやって来て、イエス・キリストを信じるだけで救われるのではなく、律法も守らなくてはいけないと主張して、聖徒たちを惑わしたのです。割礼とか律法の戒めを守らなければ神の民になれないと教えたのです。その結果、聖徒たちが救われた確信が揺らぎ、喜びを失ってしまったのです。イエス様を信じるなと言うならば、まったくの別ものであり、惑わされることはないのですが、「イエス様を信じるだけでは足りないでしょう。律法をしっかり守ることが救いを確かにする」と言って惑わしたのです。もっともらしいですが、それは、キリストの福音を変えてしまうことになりました。律法とは、「〜するな、〜しなさい」ということです。それができたら神様から義と認められるとしたら、イエス様が世に来られる必要はなく、十字架に死なれる必要もありません。
 「キリスト教って、どんな修行が必要なのですか」と質問されたことがあります。人は、何か修行や戒律がある方が分かり易く、善行を積んだら救われるのではと勘違いしています。でも、旧約聖書を学んで分かることは、戒めを守ることはできなくて罪を犯していた人々の姿でした。ですから、神様がイエス・キリストを十字架の犠牲とされて、それでもって人々の罪が許されて、救われるようにされたのです。これが福音です。
 ただ、救われたからこそ、その救いの恵みに応えて、善を行ったり、何かを守って生きるようになったりするのです。エペソ2:10。救われた恵みに感謝して、礼拝の生活を守り、罪を犯さないようになるだけです。人は世にあって、何かができれば、何かを手にすれば、他人に認められればという価値観の中で生き辛さを覚え、空しさも感じるものです。しかし、自分に命を与え、生かしてくださる神様のもとに帰り、罪赦されて神様の愛と恵みを受けて生きることで、本当に自分を生きるようになります。

U−福音に反する福音を宣べ伝えるなら−8〜9
 私たちが神様の恵みで救われたのなら、その恵みの中で生きることができます。それなのに、その恵みを捨てて、救われる以前の姿に戻ってしまうのでしょうか。ですから、パウロは、次のように厳しく戒めています。8〜9節。呪われるとは、神様から捨てられるということです。この問題は、エルサレム会議でパウロの主張が認められて、イエス様を信じるだけで救われ、律法を守ることは必要ないとされました。使徒15:7〜11,19〜21。
 ガラテヤの聖徒たちを惑わし、動揺させたユダヤ人たちは、イエス様を信じてはいました。イエス様を信じることは同じなのですが、律法も守らなければいけないということを付け加えたのです。聖徒たちは、それが自分たちの慣習にも合っており、些細な違いとして受け入れました。その結果、福音は変質してしまいました。
 ですから、パウロは、ユダヤ主義者の主張は、別の福音だ、いや福音ではない、福音に反することを福音だと言って伝えるなら、そんな者は呪われるべきだと言っているのです。8〜9節。パウロのこの言い方は、ちょっと言い過ぎだと思われるかもしれません。しかし、ユダヤ主義者の教えは、本質がまったく違うものを福音と信じさせ、聖徒たちを救いから遠ざけてしまうものです。だから、強く言わざるをえなかったのです。
 決して怒りにかられて言っているわけでもなく、独善的でもありません。よく8節を見てください。「私たちであれ天の御使いであれ」と言っています。福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、パウロ自身ものろわれるべきだと言っているのです。この問題は、初代教会の時代だけでなく、現代でも形を変えて起こっています。今日でも、信仰なのか行為なのか、恵みなのか律法なのかとしばしば問題になります。
 昔から今日まで様々な異端が発生しています。熱心さや霊的さという衣をかぶって来るものがあり、学問的な装いをするものもあります。聖徒たちを惑わし、別な道へ誘います。イエス様を救い主としていないもの、十字架のないもの、他の何かを加えるものはみな、真実ではありあません。人を惑わし、救いを空しくします。見極め、退けなければなりません。

V−本質が大事−10
 パウロは10節で「私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、人々を喜ばせようとしているのでしょうか」と言っています。いや、そうではないと強調しています。律法が必要だ、これを守り、あれをしない努力をすることで救われるというのは、ガラテヤ人の習慣や考えに合っていました。言わば、人に取り入ろうとしているのであり、人々を喜ばせようとしているのです。私たちも、信仰を律法のように思っていませんか。
 今日でも、聖徒の中には、主のためと言いながら、人々に認められるためにしていることがあります。信仰的だと言いながら、人を満足させるために妥協していることがあります。そうして、福音が変質して行くのです。キリスト教は了見が狭いな、あれもこれも信じるのが寛容だろうという批判もありますが、イエス様の十字架を信じることが救いの道です。ヨハネ14:6。イエス様の十字架が道であり、真理であり、いのちなのです。
 こういうと、独善的だと批判されます。世の中色々な道があるのに、イエス様を信じる者だけ救われるというのか、どんな道を行こうとも幸いになればいいのでないかと言うのです。これも非常に人間的に受け入れやすい主張です。人に取り入ろう、人々に喜ばれようとしています。
 世の人は、他人に認められるためにあれこれ労苦し、人に取り入ろうと気を配るものです。このために倦みつかれてしまうことも多いです。他人に喜ばれ、認められることは悪いことではありません。それが目的となるから、他人の目や評価が気になり、苦しくなるのです。誠実に神に喜ばれるように生きた結果、人々にも喜ばれ、認められればよいのです。
 イエス様に救われた者は、神様を喜ばせようとします。それなのに、神を喜ばせることより人を喜ばせようとなると、肉の欲と罪が働くところとなります。異端などの間違った教えは、人に取り入ろうとし、人々を喜ばせようとして近づいて来ます。もっともらしく近づきます。ですから、似て非なるものは、断固として拒否し、遠ざけなけれなりません。「もし今なお人々を喜ばせようとしているなら、私はキリストのしもべではありません」ということになります。
 イエス・キリストの十字架による救いが福音の本質です。神様を喜ばせることが本質です。この本質を掴まえておけば、他のものは自由です。逆に本質を逃して、非本質的なものにこだわると自由を失ってしまいます。いったい何が大切なのでしょうか。命より大切なものがあるでしょうか。Tヨハネ5:12。イエス様の十字架を信じる者が罪赦され、まことの命を与えられるのですから、イエス様を持っている者が命を持っているのです。
 イエス様の十字架を信じるだけで救われます。イエス様の十字架によって救われた者の人生は、一瞬一瞬恵みで生きて行くものです。私たちは、たまたま世に生まれたのではなく、神様から命を与えられて世に生まれました。ですから、生きる目的があり、生かされる意味があります。でも、罪によってそれが分からなくなり、空しく生きるようになります。イエス様の十字架の福音を信じることによってそこから救い出され、罪の赦しと新しい命を与えられ、新しい命で生きて行く者とされるのです。Uコリント5:17。この救いの本質をしっかりつかんで、信仰の生涯を生きて行くことを願います。



ガラテヤ1:6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
1:8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。神に、取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようとしているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているなら、私はキリストのしもべではありません。


エペソ2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

使徒15:9 私たちと彼らとの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そ腕あるならば、なぜ今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われたと信じていますが、あの人たちも同じなのです。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

Tヨハネ5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

Uコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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