2022年11月6日「福音の真理」ガラテヤ2:1〜5

序−先週10月31日は、宗教改革記念日でした。ルターが1517年に95か条の論題をウィテンベルク城の門扉に張り出したのが、宗教改革の始まりとされています。いわゆるプロテスタント教会の始まりです。今日の箇所は、福音の真理が確認されたエルサレム会議が開かれたところです。

T−啓示によってエルサレムに−1〜2
 パウロは、14年後にエルサレムを再び訪問しました。1節。これは、世界最初の公会議、エルサレム会議に出席したことです。イエス様の十字架を信じただけで救われるのか、ユダヤ人のように律法も守らなければならないのかという会議でした。ガラテヤの教会でも、ユダヤ人たちがエルサレムからやって来て、イエス様を信じただけでなく、律法も守らなければ救われないと教えたのです。特に、割礼を受けなければならないと異邦人を悩ませ、イエス様の12弟子ではなかったパウロは使徒ではないとパウロの権威を否定しました。
 そのような間違った教えをするユダヤ人があちこちに現れ、人々を惑わし、異邦人の聖徒たちを混乱させていました。そのために会議が開催されたのです。この会議の行方によっては、パウロの資格や働きは否定され、異邦人の救いも認められないことも起こる可能性もありました。当時パウロが仕えていたアンティオキア教会でも、その問題が起こっていたので、エルサレムに上って来たのです。使徒15:1〜2。
 問題に対処し、話し合いや会議に臨む時、私たちに必要なことは何でしょうか。パウロは、このエルサレム訪問を、「私は啓示によって上った」と言っています。2節。これは、自分勝手な行動ではなく、神の導きによってだということです。ですから、私たちも、そのような時には、神様の導きを意識して、助けを求めることが必要です。この時、言ってみれば、この問題のために神様がパウロをエルサレムに遣わされたということです。私たちも、神様に遣わされたと思いながら、臨むことが肝要です。
 この訪問には、バルナバとテトスが一緒だと特記されています。ここにも神様の導きを見ることができます。バルナバとは慰めの子という意味の呼び名であり、本名はヨセフです。使徒4:36。彼は聖霊と信仰に満ちた立派な人で、そんな名で呼ばれるほど評判の良い人でした。使徒11:24。この人がパウロの働きを説明してくれることで、エルサレムの聖徒たちに受け入れられ易くなります。バルナバは、回心したばかりのパウロを聖徒たちが警戒して受け入れなかった時、パウロを引き受けて仲間入りさせ、タルソにいたパウロをアンティオキアに連れて来て一緒に教会で奉仕させました。そんなバルナバの同行は、心強かったでしょう。
 また、テトスはパウロから福音を聞いて信じ、同行するようになったギリシヤ人です。クレテ島の出身で、後にクレテ教会の牧師となり、テトス書は、彼に宛てられた手紙です。実際に救われた異邦人として証言するためです。パウロが異邦人に伝えた福音が確かなものであることを証明してくれる人となったことでしょう。しかし、場合によっては、危険な目に合う可能性もあります。覚悟しての同行と言えます。パウロにとっても、必要な証人でした。テトスの覚悟にも励まされたでしょう。
 問題が起こったからとパウロは闇雲に突っ込んで行ったわけではありません。重要な役目を担ってもらうために、二人が同行していたのです。それだけでなく、パウロにとっては、励ましや平安を与えてくれた二人でもありました。神様に導かれるということは、着実で緻密であり、準備があります。私たちが何か問題に臨む時にも、準備や協力者、とりなしの祈り手が必要でしょう。

U−会議での承認、福音の確認−2〜3
 パウロがエルサレムで何を示し、何を相談したかったのでしょう。2節。会議に集まった人々に対して、パウロが異邦人の間で伝えている福音を示しました。指導者たちには個人的にも示しました。パウロは、ここでも着実に緻密に勧めています。影響力があり、決定権を持っている指導者たちには、個人的にも説明していたのです。まるで根回しをしているかのようです。神様の導きがあるから何の準備もいらないということではありません。神の導きの中で状況を分析し、準備して会議に臨んでいたのです。私たちも、見習うべきことです。
 なぜ、議場の人々に福音を提示したのでしょうか。このことも、神の啓示によることでしょう。なぜならば、福音が何であるかが揺るがされていたからです。福音を変質させる者たちがいたからです。この会議でもっとも重要なことは、福音とは何であるかということでした。私たちにとっても、福音とは何かは、重要なことです。福音とは何ですか。福音とは、滅ぶしかない罪人が、イエス様を救い主と信じて、罪赦されて、神の子どもとされることです。人が救われる道は、イエス様の御名のほかはありません。使徒4:12。イエス様が道であり、真理であり、命なのです。ヨハネ14:6。
 ところが、元パリサイ人のユダヤ人がガラテヤの教会にも入り込んで来て、イエス様の十字架を信じるだけでは足りない、異邦人も律法を守り、割礼を受けなければ救われないと教えていたのです。旧約聖書をよく知っているユダヤ人から言われれば、異邦人の聖徒たちは揺れ動かざるをえません。これは、異邦人に福音を伝えて来たパウロにとって由々しきことでした。それで、イエス様を信じるだけで救われるのに、律法のくびきをつけるべきではありませんと訴えました。使徒15:8〜11。
 幸いにも、会議では、イエス様の十字架を信じるだけで救われる、異邦人の聖徒に律法を強いてはならない、割礼を強要すべきではないと確認されました。使徒15:19〜20,28〜29。ですから、パウロと一緒にいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。3節。
 私たちにとっても、福音は何かということが重要です。イエス様の十字架による犠牲によって救われるという恵みの福音です。宗教改革において、私たちには何の救われるべき要件はない、全的堕落の存在である、ただ神様の憐れみと慈愛によって救いに選ばれ、予定されていたということが確認されました。この信仰は、宗教改革の戦いの中で勝ち取られたものです。この救いの恵みに立つことで、主なる神をより頼んで信仰の生涯を歩んで行くことができます。

V−自由を狙われたが−4〜5
 会議でイエス様を信じるだけで救われる、異邦人が割礼を受けなくてよいことが確認されましたが、実は危なかったのです。4節。実際の会議でも、反対者の論争は激しかったのです。使徒15:5,7。それも、「忍び込んだ偽兄弟たちがいて、〜忍び込んでいた」と繰り返されています。つまり、意見を異にしているから論争したのではなく、信じて救われるという福音を歪め、異邦人に割礼を強要することを企んで、会議に忍び込んでいたというのです。悪意のあることでした。
 なぜ、「奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って」と言っているのでしょうか。律法を守ることで義とされる、つまり罪なしと認められると主張したのです。これは、福音の根幹を揺るがすことでした。イエス様の十字架を信じることで罪赦されるという福音を否定することでした。それでは、聖徒たちを罪の奴隷に戻し、罪からの解放という自由を失わせてしまうことになります。ローマ6:6。
 福音の真理は、自由を与えてくれます。ですから、譲歩したり、屈服したりすることはできません。5節。私たちは、イエス様を信じて救われ、神の子どもとされた者です。私たちが受けている大きな祝福は、自由です。「真理はあなたがたを自由にします」と言われています。ヨハネ8:32。主の十字架によって救われるということは、罪と滅びの囚われから解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることになります。ローマ8:21。本当に自分は自由にされているだろうか、自分を吟味してみましょう。
 サタン、悪魔と呼ばれる存在は、いつも罪をもって人々から自由を奪おうとしています。現代社会でも、経済や人間関係などを通して、人々の自由を奪おうとしています。悪魔の仕業を打ち壊して、罪に囚われた人を自由にするために、イエス様が世に来られました。人が奪われた自由を取り戻す方法は、福音だけです。
 私たちが持つ自由の本質は何ですか。一般的な自由ではなく、たましいの自由です。たましいの自由は、罪の囚われから解放された自由です。その自由は、神様との関係が整えられた自由です。それによって、人々との関係も自由になります。たましいの自由がある時、ほかの自由も意味あるものとなります。
 たましいの自由は罪から自由ですが、どうしたら罪から自由になれるのですか。イエス様の十字架が私の罪の身代わりだと信じて、罪が赦されたと知った時、たましいが自由になります。救われて、神の子どもとされたと確信する時です。様々な問題が私たちのたましいを捕らえ、縛ります。こうならなければという思いが私たちのたましいを不自由にします。でも、イエス様のゆえに私たちを救ってくださった神様を信頼する時、私たちのたましいは自由になります。ルカ4:18。私たちの中にある心の傷や苦い根からも開放され、自由になります。イエス様を信じて、救いによる自由を享受してください。ヨハネ8:32。



ガラテヤ2:1 それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
2:2 私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。
2:3 しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
2:4 忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。
2:5 私たちは彼らに一時も譲歩したり、屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。


使徒15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

使徒15:19 そこで、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れたものと淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。

ローマ6:6私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

ルカ4:18 「主の御霊がわたしの上にある。貧しい人々に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には開放を、目の見えない者には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

ヨハネ8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ローマ8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

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