2022年11月13日「子どものようにならなければ」マタイ18:1〜6

序−子どもというと、どう教育しようか、どう躾けようかということがすぐに思い浮かぶと思います。でも、今日の箇所は、子どもに学ぶように教えています。イエス様がなぜ子どもに学ぶように言われたのか、どのようなことを学ぶのかを知りたいと思います。

T−誰が一番偉いかという弟子たちの真ん中に子どもを−1〜2
 弟子たちの間に一つの問題が起きていました。それは、自分たちの中で誰が一番偉いかということです。1節。この問題は、何度も福音書に取り上げられています。ルカ9:46, 22:24。その度に、イエス様からたしなめられているのに、繰り返しています。イエス様がもうすぐ十字架にかけられるという最後の晩餐の時にも、弟子たちは、誰が一番偉いかと争っていたというのです。なんということでしょう。そして、今日の箇所では、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」とイエス様に質問しているのです。あきれてしまいますか。弟子たちは愚かですか。
 でも、このような姿は他人事ではありません。私たちが生きている社会は、比較と競走の社会です。人と比較していないでしょうか。人からの承認を求め、認められることを望んでいないでしょうか。環境によっては、比較と競走社会の中で走らざるを得ないこともあるでしょう。比較して競走する中で、いい気持ちになったり、妬んだりしてしまうでしょう。現代は、そのような社会の中で苦しみ、倦みつかれている人も多いです。
 何と、弟子たちの問題は、だれが一番偉いかということだけではありません。それを天国まで持ち込もうとしていることです。1節。確かに、神を信じる者にとって、天国は最も関心を持つことです。しかし、天国まで誰が一番偉いかと争うのでしょうか。余りにも比較競走に囚われていると、こんなになってしまうということを私たちに見せているのです。いや、天国のことを考えるならば、天国では誰が一番偉いかではなく、どうしたら天国へ入れるかではないでしょうか。そうできないほどに、弟子たちは、比較と競走の価値観に囚われていたということです。
 イエス様のお答えを見てみましょう。2節。まずイエス様は、小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせました。わざわざ真ん中に立てたということは、子どもは隅っこにいる存在ではない、家庭や社会の付属物ではないということです。当時の社会は、子どもに対して、隅にいればいい存在としていたのですが、イエス様の子ども観は全く違いました。イエス様が子どもを中心に立てたということは、社会で子どもは中心に置かれるべきだということです。コミュニティーの中心的な存在なのだということなのです。わたしたちが居るところでは、子どもが真ん中に置かれているでしょうか。
 教会が美しいところとなるためには、子どものような人が真ん中にされるところとならなければならないということでしょう。子どもが真ん中に置かれている光景は、うるわしいです。小さい人や弱い人を真ん中に立てなければならない、注意を払わなければならないということです。「小さい子どもを真ん中に立たせて」ということに、イエス様はとても大事なことを教えておられました。子どもの存在の重要性に目覚めさせ、子どもにズームさせています。

U−天国へ入るには、子どものようになる−3〜5
 小さな子どもを真ん中に立たせて、イエス様は何を言われたのですか。3節。「向きを変えて、子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と答えられました。向きを変えてとは、悔い改めてということです。子どものようになるには、決心が必要だということです。
 では、子どもの何が天国に入れる条件となっているのでしょうか。4節で「この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです」と答えられました。弟子たちが、誰が一番偉いかにこだわっていたので、一番偉いと言われたにすぎません。大事なことは、「子どものように」ということが、「自分を低くする者」だと教えておられることです。子どもの特徴は、社会の中で低くされているということです。反対に、弟子たちは、誰が一番偉いか、自分が高くされることに関心がありました。
 弟子たちは、比較と競走の世にあって、自分を高くしようと思っていて、自分を低くするなんて考えもしませんでした。誰が弟子の中で一番かということでいつも議論していた弟子たちです。
 イエス様は、私たちが天国に入るために謙遜を求められました。謙遜でなければと言われれば、私たちの社会では、たいていの人が自分は謙遜だと言うでしょう。確かに表面は謙遜にしていますが、心はどうですか。心には高慢があり、妬みがあるでしょう。高慢な人は、自分の弱さを隠し、人の助けを受けません。ところが、子どもは、自分の弱さをそのままあらわし、助けを求め、頼ることを知っています。このような謙虚さと単純さが、子どもたちの素晴らしいところです。素直に神様を信じて、頼ります。
 こういう意味で、子どもは大人が学ぶべき対象です。大人が中心の世界は、能力ある者や強い者、権威のある者が中心です。そういう世界で生きていると、比較と競走の価値観になってしまいます。自分が自分がという思い、人よりも認められたいという思いでいっぱいになります。でも、子どものようにならなければとイエス様は言われました。子どもと言えば、すぐに教える対象、弱く、足りない者という思いになるでしょう。しかし、子どもは天国に入るために学ぶ対象なのです。
 私たちは、どのように子どもを育てて来たのでしょうか。何に重点をおいて育てるのでしょうか。天国の子どもを育てることに重点を置きましょう。天国の子どもを育てるなら、家庭に栄光が輝きます。大きな者が天国人になるのではなくて、天国人になる者が祝福を受ける者になり、大きな者にもなります。
 ある人は、「子どものようにならなければ」と言われても、いくら努力したって大人は子どもになれない、子どもになるには、生まれ変わるしかないと思いました。ヨハネ3:3。そうです。イエス様の十字架を信じた人は、罪赦され、新しい命をいただきます。新しい人に生まれます。Tヨハネ5:1。信仰によって過去の高慢で罪に囚われた自分ではなく、小さな子どものように純粋な新しい心に生まれ変わるのです。Uコリント5:17。
 新しく信じた人の中には、子どものように純粋な人がいます。純粋な信仰で、神様の恵みに感激しながら生きます。喜んで教会に来て、賛美しては涙を流し、祈っては感謝します。イエス様を信じることで新しく生まれた人です。Tペテロ1:3。

V−受け入れられ、つまずかせない−5〜6
 それから、子どもは、受け入れられるべき存在だと教えられています。5節。子どもは、真ん中に受け入れられ、歓迎されなければならない存在だというのです。その理由は、イエス様のゆえに子どもを受け入れることは、イエス様を受け入れることになるからです。イエス様を受け入れるなら、イエス様のゆえに小さな子どもを受け入れてくださいということです。なぜ、わざわざ「子どもをイエス様のゆえに受け入れる」と言われているのでしょうか。
 大人の言うことを聞くなら、子どもを受け入れるというのではありません。良い子だから受け入れるというのでもありません。ただ、条件はイエス様にあってです。イエス様が、ご自分に免じて受け入れてほしいと言われたのです。そう言われれば、受け入れないわけにはいきません。子どもは大人の思うようには行かない場合もあるでしょう。大人の手を煩わすことも多いでしょう。しばしば、子どもが大人によって受け入れられないことが起こります。そのことが子どもの心にも残ります。ですから、イエス様のゆえに受け入れるのです。イエス様が助けて、守ってくださいます。
 イエス様にあって子どもを受け入れる心に、天国の価値観が含まれているということです。天国は、小さな者、弱い者が受け入れられるところだからです。イエス様は、小さな子どもを受け入れるように言われるだけでなく、小さな者をつまずかせることを厳しく戒めておられます。6節。ここでは、子どもから発展して、小さな者となっています。この世の弱い者、取るに足りない者や見下されている者のことを意味しています。Tコリント1:27。そのような者が、愛を経験し、喜びを味わい、平安を覚えるところが天国なのです。
 まさにそのような子どもをつまずかせるなら、天国に入れないと警告されたのです。どんなことが小さい人を躓かせるのでしょう。罵倒され非難されることで躓くでしょう。ぞんざいな扱いや嘲笑でも躓くでしょう。無視されたり、目を留められなくも躓くでしょう。躓くと簡単に傷を受けます。問題は、傷を受けるに留まらないことです。躓けば、天国も、救いも嫌になります。ですから、イエス様は、大げさに言われたのです。
 私たちは天国に入りたいです。天国に入るには、子どものようにならなければなりません。子どものような心を持つのです。子どもの心を持てば、子どもの心も理解できるでしょう。イエス様のゆえに子どもを小さい者を受け入れましょう。私たち一人一人信仰的に子どものようになって、天国に入ることを願います。マタイ18:3。



マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
18:4 ですから、この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。
18:5 また、だれでもこのような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みに沈められるほうがよいのです。


ルカ9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
22:24 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、という論議も起こった。


ヨハネ3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

Tヨハネ5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者をも愛します。

Uコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


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