2022年11月27日「交わりのしるしとして右手を」ガラテヤ2:6〜10

序−握手の起源や意味は、武器を持っていないことと相手に敵意のないことを示す行為であると言われています。今日の箇所にも、握手が登場しています。どんな意味で行われたのでしょうか。この握手を通して、今日の箇所が教えていることを学びます。

T−同じ福音をゆだねられ、主が同じく働かれ−6〜8
 前回、2節の「おもだった人たち」とは誰かと思ったでしょう。今日の箇所の6節にもあります。それは、9節を見ると分かります。「柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネ」です。エルサレム教会の中心であった3人の使徒たちです。パウロがこの3人と会って、確認されたことが今日の箇所です。どんなことが確認されたのでしょうか。
 まず、初めは、受けた福音が同じだということです。6〜7節。イエス・キリストが私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架にかかられ、贖いの代価となられました。Tペテロ3:18,Tテモテ2:6。そのことを信じることで、人は罪赦され、天国への命が与えられます。ローマ3:23〜24。その同じ福音をパウロも受けていたということが確認されました。エルサレム教会の柱として重んじられている3人は、パウロを使徒として認めてくれて、同じ福音を伝えているとして、パウロに何の注文もしませんでした。
 ですから、柱として重んじられている3人とパウロは、主に立てられ、福音に仕える点において、同じであるということが強調されています。6節。パウロは、その3人がどれほどの者であっても、私にとって問題ではありませんと言っていますが、パウロが使徒たちを無視している、尊敬していないということではありません。大事なことは、「神は人を分け隔てなさいません」ということです。
 社会でこのような状況なら、パウロのような立場の人が、柱として重んじられている人々に引け目を感じて、退いてしまうというところです。しかし、パウロは主から同じ福音を受け、同じように使徒としての働きを受けたと言っています。7〜8節。このことが重要です。パウロは、ペテロがイエス様とともにいて働いたという経験やキャリアと比べることはできませんが、同じく主によって使徒とされたというのです。私たちもそうです。
 私たちも、権威や能力のある人に会えば、引け目を感じたり退いたり、何も言えなくなったりするかもしれません。重要な立場や地位にある人と自分を比べて、まったく違う人のように思うこともあるでしょう。でも、みな神様の前では、同じく神に造られた者、イエス様に出会って、救われた者です。父なる神は同じ、救い主は同じです。それゆえに、どんな人でも主にあって一つなのです。エペソ4:4〜6。
 パウロは、有力な3人に会う時、神は、人を分け隔てなさらないと信じていました。6節。神様が人を見る時、うわべではなく、人の心を見ることを知っていたからです。Tサムエル16:7。
 エルサレム教会の柱として重んじられている3人の使徒たちも、その権威を振りかざして、あれこれパウロに対してつけ加えることをしませんでした。6節。同じ福音を伝えているとパウロを受け止め、その働きを認めてくれました。当時の状況では、この初代教会の柱として重んじられている3人は、イエス様と人生を共にして、直接教えを受けた者です。パウロとは圧倒的に違います。でも、彼らは、パウロも自分たちと同じくイエス様から福音を委ねられたと謙遜に認め、余計なことは要求しませんでした。

U−違いを受け止めて、−7〜9
 しかし、福音は同じでしたが、その伝え方、伝える対象はまったく違っていました。問題になっていたのは、その違いでした。しかし、そのことも認められました。7〜8節。柱として重んじられている使徒たちは、パウロが割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。主がパウロにも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったと認めたのです。
 ユダヤ人と異邦人、割礼の者と無割礼の者とは、まったく違います。伝えられる福音は同じですが、福音を受ける対象者が違い、その伝え方も違っていました。同じ福音を共にしていながら、伝え方には多様性がありました。人々が救われるためにという目的は同じなのですが、その伝え方、伝道の多様性を認めたということです。
 それまで、問題が生じ、混乱が起きていたのは、福音を受ける対象が違うため、その伝え方が違うためでした。旧約聖書の中で歩んで来たユダヤ人とギリシャ文化や偶像の中で生きて来た異邦人とは、まったく違う価値観と文化でした。でも、彼らを救う福音は同じなのです。違いにばかり目を囚われると、肉的な思いに翻弄されることになります。私たちも気をつけなければなりません。周りの人々とは、その生い立ちや成育環境の違い、経験や価値観の違いのために、時には相容れず、軋轢が生じ、敵対し争うことがあるかもしれません。違うのは当たり前、でも神様の前には同じ罪人であり、救われるべき者であることを思うのです。
 そう思って受け止めようとしても、時には受け止め難いことがあるでしょう。私たちが、その違いを受け止め、受け入れる時、自分の価値観や感性が揺さぶられるからです。でも、受け止めるということは、自分の価値観や感性を捨てろということではありません。そう感じるのなら、一時期自分の感性や価値観を「脇に置いて」、受け止めてみましょう。
 異なる人々が福音で一つとなるコミュニティーが、まさに教会です。様々に違う人々が集まり、福音で一つとなるところです。異邦人もユダヤ人も福音によって一つとなりました。Tコリント12:12〜13。
 パウロと柱として重んじられている使徒たちは、その違いを受け止め、受け入れ合った時、何をしましたか。9節。交わりのしるしとして右手を差し出しました。つまり、握手をしたということです。ここに、握手の一つの起源があり、その意味が示されています。聖書起源の握手には、互いの違いを認め合い、福音にあって一つである、そのしるしという意味がありました。一般の握手の起源にも、敵意がなく、親しみの表現という意味があります。私たちの文化、習慣では、握手よりも、お辞儀ですが、その意味と意義は受け継ぎましょう。互いの違いを認め合い、福音にあって一つであるという思いを共に持つならば、健康な教会となります。
 教会の目的は、福音を伝え、福音で生きるようになることです。人の力や権威によるのではなく、イエス様の十字架の福音を信じて、頼ることが必要です。私たちは、生い立ちも文化も違う者たちがイエス様に出会い、福音を信じて救われ、教会に導かれました。福音で一つとなるのです。そうして行く時に、天国の前味を味わわせてもらえるでしょう。

V−互いに心に留める、交わりと助け合い−9〜10
 最後の部分には、実際の交わりの姿が記されています。10節。異邦人教会とエルサレム教会が、互いの必要を満たす関係になりました。当時、エルサレムの聖徒たちは、何らかの迫害にさらされており、家を追い出されたり、仕事を失ったりしていました。飢饉もあって、多くの聖徒たちは、生活に困窮していました。それを聞いた、異邦人の教会の聖徒たちは義捐金を集めて、エルサレム教会へ送りました。使徒11:27〜30。
 その時、パウロは、エルサレムの聖徒たちを助ける働きは、異邦人の聖徒たちが受けている霊的負債を返しているに過ぎないと言っていました。ローマ15:26〜27。つまり、福音はエレサレムの聖徒たちから異邦人に広がって来ました。ユダヤ人の聖徒たちがいたから、異邦人の聖徒たちがいるということです。霊的なものをもらっているのだから、物質的なものをもって奉仕すべきだとパウロは言っています。
 私たちも、互いに助け合い、仕え合うことが勧められています。Tペテロ4:10。私たちが様々な賜物を与えられているのは、それを持って人々に仕え、主に用いられるためです。イエス様ご自身が、仕えるために世に来られ、十字架にかかられました。マルコ10:45。イエス様ご自身が、仕える姿を見せられたのです。ピリピ2:7〜8。教会の交わりは、御言葉の分かち合いのように霊的な助け、励ましもありますが、互いに助け合い、仕え合うこともあります。先に救われ、恵みを受けた者として、世の人々の救いのために仕える働きもあります。
 エルサレム教会で柱として重んじられている使徒たちが、パウロたちに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。9節。彼らは、それぞれ委ねられた福音は同じだが、伝える方法は多様性があることを認めました。目的は同じでも、方法には多様性がある。基本は同じでも現れには多様性があるということは、どのようなコミュニケーションにおいても共通しています。
 時代が変わっても、福音は一つです。異なる福音に揺さぶられないでください。イエス様の十字架の死と復活を通して明らかにされた福音があるだけです。イエス様の救い、福音がユダヤ人と異邦人の隔ての壁を崩しました。エペソ2:14。福音は、世の差別と違いを崩します。
 クリスチャンの交わりは、様々な人々でも福音で一つとなって、主にある交わり、コイノニアが与えられます。福音によって恵みを与えられ、互いに助け合い、励まし合い、仕え合うことは、聖徒たちの大切な交わりとなっていきます。Tコリント12:12〜13。

ガラテヤ2:6 そして、おもだった人たちとからは、──彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません──そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒となされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けている人々のところへ行くためでした。
2:10 ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来ました。


エペソ4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

Tコリント12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

ローマ15:26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
15:27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

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