2022年12月4日「偽りの行動に引き込まれ」ガラテヤ2:11〜16

序−古代ギリシャの詩人ピンダロスは、「慣習こそ万物の王」と言いました。習慣というものは、その民族の中で長年続けられて来たもので、間違っていても変わることがないからです。個人の習慣もまたしかりでしょう。その弊害がきょうの箇所の事件を引き起こしています。

T−偽りの行動−11〜13
 迫害によってエルサレムから散らされたユダヤ人がアンティオキアに来て、異邦人にも福音を伝えたことから、そこに教会ができました。はじめての異邦人教会でした。このアンティオキア教会にペテロがやって来て、しばらく滞在していたようです。一緒に食事もして交わりをしていました。ところが、事件が起きました。12節。ある人たちがヤコブのところから来たら、ケファは、異邦人から身を引き、離れて行ったというのです。私たちがそんな光景を見たら、えー、なんでと思うでしょう。
 一緒に食事をしたということが、ユダヤ人の慣習では食べてはならない物を食べたことになるからです。当時のユダヤ人にとって、異邦人はただ外国人というのではなく、偶像崇拝者、汚れた者、罪人という意味であり、食べてはならない食べ物を食べ、偶像にささげた物を食べる異邦人とは食事を一緒にしてはならないということが、民族の慣習でした。
 なぜ、ケファは、一緒に食べていたのでしょう。すでに、そのような慣習から解放されていたからです。使徒10章。ケファがヨッパにいる時、夢の中で、異邦人が食べる動物を食べろと言われて、食べられないと拒みました。その時「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない」という声を聞きました。使徒10:15。それが何度も続き、何の意味だろうと思っていた時に、コルネリウスというローマ人の百人隊長の招きを受け、悟りました。使徒10:9〜35。ですから、アンティオキア教会でも異邦人と一緒に食事をしていたのです。
 慣習から解放されていたはずですが、どうして身を引いたのでしょう。エルサレム教会から来た割礼派の人々を恐れて、異邦人との交わりから身を引いたというのです。慣習に頑ななユダヤ人を恐れたのです。人の目を気にしたのです。慣習から完全には自由になっていなかったようです。
 こういうことは、現代のクリスチャンにもあるでしょう。世の人々の中で、人の目を気にして、信仰によって行動しないことが生じる場合があります。日本の社会慣習の中で、なんとなく人目を気にして、クリスチャンであることを隠してしまう人もいます。問題は、このペテロの行動は、「本心を偽った行動、偽りの行動」だということです。13節。英訳などでは、「偽善」と訳されています。原文は、俳優が演技するという意味です。自分がユダヤ人の慣習から自由にされて、異邦人と主にある交わりを持てたのに、本心を偽って、離れて行ったからです。
 使徒であるケファがそうするのですから、他のユダヤ人も影響を受けました。何とバルナバまでもがこのような行動をしたというのです。私たちも、人の不信仰な行動の影響を受けることがあるでしょうか。だれかがしていれば、それもありなのかと考えもなしにしてしまうかもしれません。
 それまで、異邦人と親しく交わり、食事をしていたのに、エルサレムからユダヤ人が来たら、急に異邦人との交わりをやめ、異邦人から離れて行ったのです。異邦人は、どう思ったでしょう。これは、事件です。

U−パウロの公的な叱責−11,14
 この光景を見て、パウロは、ケファを非難し、抗議しました。11節。その時責めたことは、異邦人との食事をやめて、異邦人から離れたことではありません。14節。直接そのことを責めるのではなく、その元となっていたことです。ユダヤ人の律法や慣習を完全に守っているわけではないのに、それを異邦人の聖徒たちにも要求するのかと責めています。
 ケファは、そんなことは要求していませんでしたが、交わりをやめて、身を引くことがそうなるのだというわけです。異邦人たちは、ケファたちが自分たちから身を引いたのを見て、自分たちもユダヤ人のように割礼を受け、彼らが食べない肉は食べないようにしなければならないのだろうかと思わせるだろうというのです。ユダヤ人のように律法や慣習を守らなければ救われないのかと思わせるからです。
 パウロは、単にケファの偽善的な態度を責めていたわけではありません。信仰を揺るがす問題になるからです。パウロは、ケファたちの行動は、「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいない」と責めています。14節。イエス様が伝えてくださった福音を崩すことになるから、公然とケファを責めているのです。ケファは、そんなつもりはないにしても、結果的には福音を歪めることになることだったからです。
 私たちの行動が、私たちが意識していないこととして受け取られ、考えもしないことまで影響を及ぼしてしまうことがあります。不信仰になると意識していなかったけれども、そうなってしまう危険もあります。自分の言動がどんな影響を及ぼすかということも気をつける必要があります。
 ケファは、福音を歪め、異邦人を困らせるつもりはまったくありませんでしたが、人を恐れて取った行動がそうなる危険があったのです。人を恐れると、罠にかかります。箴言29:25。パウロ自身、かつて、人に認めてもらおうとして、熱心に律法や慣習を守ろうとした者でした。そのために、聖徒たちを苦しめ、迫害し、死に至らしめたのです。ピリピ3:6。ですから、回心してからは、「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心して」いました。Tコリント2:2。ユダヤ人として誇りであったものを損と思い、ちりあくたと思うようになりました。ピリピ3:7〜8。律法や慣習から自由になっていました。
 イエス様の十字架による救い、この福音こそが、最も尊いものです。他のことは譲歩しても、福音だけは譲歩してはなりません。人は、どうしても自分の義、自分の栄光のために行動してしまいます。人の目を気にし、人の評価を求めて行動してしまいがちです。主の聖徒がそうなると、信仰が歪み、信仰生活が揺さぶられることになります。私たちは、気をつけなければなりません。
 もし、使徒ケファがそのままになっていたら、エルサレム会議の決定は有名無実となり、後のキリスト教は福音中心にならなかったかもしれません。もちろん、ケファもパウロの心配は分かりました。一言も反論せず、パウロの言うところを受け入れました。ケファがパウロに叱責され、ケファも受け入れたのを見たユダヤ人たちも、改めてユダヤ人の律法や慣習を異邦人に強要すべきでないし、イエス様の十字架を信じることで救われる福音を確認させられたことでしょう。直接言われるより、この様子を見た方が、彼らにとって説得力があったと思われます。

V−信仰によって義とされる−15〜16
 このあと、このことの理由を記しています。15〜16節。「異邦人のような罪人ではありません」というのは、ユダヤ人がそう言っていただけで、ユダヤ人にも罪があります。律法や慣習を守ることで義とされ、罪なしと認められるということではありません。イエス様の十字架による身代わりを信じて救われ、神様に義と認められ、罪ゆるされることが福音です。人は罪人です。外見だけでなく、心の中まで見たら誰でも罪人です。時には、それが外に出て来て、問題や葛藤、争いが起きます。肉の行いは明白です。ガラテヤ5:19〜21。
 私たちも、イエス・キリストを救い主と信じることで義とされます。自分が義となるのではなく、イエス様のゆえに神様が義と認めてくださるのです。ローマ3:24。イエス様が私たちの罪と滅びの代価を支払ってくださったからです。マルコ10:45。イエス様は、私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、私たちのために犠牲となられました。ヘブル9:12。
 この福音による義は、信仰生活の原則です。救われた後でも、罪を犯します。救いの完成は御国に入ってからです。ですから、信じたあとも、イエス様の十字架に頼らなければなりません。
 こうして、パウロとケファの二人によって、この事件の結果、よいものが導かれました。慣習に囚われ、偽りの行動をしていた姿があらわになり、福音を確認することができました。福音は、クリスチャンの人生全体に適用されるものです。
 また、互いに信仰を立て上げ、整え合うという姿を見せてくれました。だれでも、互いに間違ってしまう可能性があり、互いに間違うこともあります。それを互いに示し、助け合うことが必要です。ただ、指摘を受ける方からすれば、それを受け入れることは、簡単ではありません。パウロとケファの間に信頼関係があったからです。相手がケファだから、面と向かって抗議したのです。その内容も、公的なものだからです。
 パウロは、他のところでは、そうではありません。相手の弱さに配慮し、弱さを思いやることを勧めています。ヘブル5:2。パウロは、福音のためには、ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、弱い人々には、弱い者になりました。Tコリント9:20,22。パウロは、この時弱い立場の異邦人のために、ケファを叱責したのです。ケファも、分かっていないユダヤ人のためにも、叱責を受け入れたのでしょう。ローマ15:1。こうして、この事件の中にも、福音による愛が流れています。私たちも、他人に配慮し、思いやります。Tコリント9:20,22。



ガラテヤ2:11 ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。
2:14 彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活を強いるのですか。」
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。


Tコリント2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスとのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

箴言29:25 人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は高い所にかくまわれる。

ピリピ3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところのない者でした。
3:7 しかし私は、自分にとって得であったすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

ローマ3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

ヘブル9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

ヘブル5:2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。

Tコリント9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには、―私自身は律法の下にはありませんが―律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、何人かでも救うためです。

戻る