2022年12月11日「主が私のうちに生きておられ」ガラテヤ2:17〜21

序−信仰によって義とされるというが、その後も罪を犯しているじゃないか、義などとなっていないじゃないか、という議論が、宗教改革の時からあります。今日でも、同じことを思い、揺れ動くクリスチャンもいます。初代教会にもありました。

T−義と認められることを求めることで罪人となるなら−17〜18
 16節でも、「イエス・キリストを信じることによって、義と認められる」と繰り返され、強調されていました。ところが、17節では、「しかし」と言って、パウロは、重要な質問を投げかけています。もし私たちがキリストにあって義と認められることを求められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者になるのですかというのです。これは、どういうことなのでしょうか。
 原文では、「罪人であると発見されるなら」となっています。先に学んだように、ケファ(ペテロ)がイエス様を信じて義と認められ、律法に囚われていた生き方から解放され、異邦人と一緒に食事もするようになりました。それなのに、ユダヤ人を恐れて異邦人から身を引きました。それは、まるで律法を捨てた罪人として現れたようではないかと言うのです。イエス様を信じながら、自分で義となろうとして、再び自分を罪人にしているというのです。
 これは、今日のクリスチャンも陥るところです。私たちイエス様を信じた者は、信仰によって義とされています。罪の赦しを受けています。しかし、ある時、こんな自分が本当に罪赦されたのだろうか、こんな罪人は救われていないのでは、もっと正しくなければ義人とは認められないと思うようになるのです。時々自責の念にかられ、ひどく落ち込むのです。何かを守ろうとして守れない罪悪感に陥ります。
 こんな罠にかかってはなりません。私たちが救われ、罪赦されたのは、私たちが何かを守ったからとか、何かができたからではありません。イエス様が私たちの代わりに十字架にかかってくださったから罪赦されたのです。ローマ3:24。私たちがイエス様を信じた時、過去の罪はもちろん、現在と未来の罪まで赦されたのです。エペソ1:7。このイエス様の十字架の御業を信じたから、すべての罪から解放されました。ローマ8:2。
 イエス様を信じて罪から自由になったはずなのに、どうして罪に陥るのでしょうか。自分の何かの行為によって義と認められようとすると、罪責感に陥ってしまい、律法主義に戻ることになります。18節は、そういうことを言っています。
 以前のパウロは、自分は律法に従って生きており、律法の義については傷がないと自負していました。ところが、イエス様に出会ってから、自分がして来たことは明確に罪を犯したことであると分かったのです。それまで築いて来た人生が崩れるような衝撃でした。そもそも、律法というものは、罪を自覚させるものです。ローマ7:7。しかし、罪を自覚できませんでした。パウロは、イエス様を通してはじめて、自分の罪を知りました。
 こういう事実に目が開かれると、なぜイエス様が世に来られたのか、なぜ十字架にかかられ、復活されたのかが痛切に分かって来ます。

U−キリストとともに十字架に死にました−19
 パウロは、イエス様を信じて義とされる時、それまでの私たちがどうなったかについて、衝撃的な表現をしています。19節。神に生きるために、律法によって律法に死に、キリストとともに十字架につけられたというのです。パウロは、律法を守って義となろうとしたけれども、結局罪人で終わりました。罪によって死刑宣告を受けることになります。これを、パウロは、私はキリストとともに十字架につけられたと言いました。私たちはこの言葉を知っていますが、本当に知っているのでしょうか。
 十字架って何ですか。会堂の飾りですか。アクセサリーですか。いいえ、死刑の道具です。ですから、イエス様が十字架にかけられた時、私たちも一緒に十字架刑にかけられ、死んだということです。イエス様を信じた時に私たちの古い人は死んだのです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。ローマ6:6。果たして、私たちの古い人は、十字架に死んでいるでしょうか。
 イエス様の十字架によって救われる人は誰ですか。イエス様の十字架を見て、自分の無力と堕落を徹底的に理解した人です。イエス様の十字架が救いの力になる人は、十字架で古い自分が徹底的に死んだ人です。イエス様の十字架とともに自分の古い人は太死んだ人です。私たちはみな、罪の赦しと神様との和解を必要としています。十字架だけで私たちの罪は赦され、天国への命が与えられます。ですから、パウロはイエス様の十字架以外は知らないことにしたと言ったのです。
 イエス様も、「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。ルカ9:23。間違った自我と肉の欲に死んで、イエス様に従って行くのが、救われた者の生き方です。私たちの古い自我が死ねば、新しい自分が生きることになります。私たちが十字架を見る度に、自分の古い人が死んだということを覚えるのです。
 当時のユダヤ主義の聖徒たちは、自分がイエス様の十字架とともに死んだということを知りませんでした。それで、イエス様を信じながらも自我で生きており、律法を守ることで義になろうとしていたのです。現代のクリスチャンもそうです。イエス様を信じながらも、イエス様の十字架と一緒に古い自分が死んだということを知らないで生きています。イエス様と一緒に自分の古い人が死んだということを聞いてはいたが、まったく忘れています。意識していないのです。
 いや、一緒に死ぬことを拒んでいます。平安を得たい、祝福を得たい、天国への命を得たいというだけで、十字架と一緒に古い自分が死ぬことを拒むのです。自分の欲、自分の願い、自分の計画は望むのですが、神様の御心、ご計画を知ろうとしません。主とともに生きることをしないで、自分で生きています。
 イエス様と一緒に十字架に付けられたと言えば、イエス様が十字架に付けられた時、その左右に十字架に付けられた強盗のことを思います。ルカ23:39〜43。十字架に付けられた強盗二人のうち、一人は天国への命をいだだきました。強盗の一人は、自分が十字架で死ぬほどの罪人であることを知り、それをそのまま受け入れました。イエス様を信じて、「あなたの御国に入られるときには、私を思い出してください」と願いました。イエス様も、「今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言ってくださいました。ルカ23:42〜43。イエス様を信じた私たちも、この言葉を受けています。

V−キリストが私のうちに生きておられる−20〜21
 イエス様を信じて義とされたということには、二つの過程があります。一つは、義認ですが、もう一つは聖化です。義認は、神様が判定してくださるただ一度のことですが、聖化は、聖霊の働きで一生続くものです。ですから、今日の箇所でも、続けてこう言っています。20節。イエス様を信じると、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」ことになるというのです。
 イエス様がお客として住まわれるというのではなく、所有者、主人として住んでくださるのです。イエス様は、私の中に主人、主権者として住んでくださるのです。ローマ6:8でも、「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる」と言っています。
 どんな生活になりますか。古い人が生きていた時の自分は、何でも自分中心、肉の思いで生きていましたが、信じて救われた後は、イエス様が自分の中に生きておられるので、瞬間瞬間イエス様に頼って生きて行きます。イエス様に相談します。寂しくありません。不安ではありません。日々イエス様が私の中に生きておられるからです。どんな時にも、平安を覚えることができます。
 私の中にイエス様が生きておられることは、イエス様に頼ることができる特権を持っているということです。このお方は、私のために十字架に死なれた方です。それほどに私を愛してくださる神の御子が私のうちに生きておられるのです。この特権を忘れないでください。多くのクリスチャンが、そのことを忘れて自分の力で生きようとして、戸惑い、悩み、恐れます。この特権を用いてください。イエス様に頼ってください。イエス様にお願いしてください。それが、クリスチャンの人生です。
 イエス様を信じた時、古い自分は十字架とともに死んだのだということを意識してください。イエス様が内に生きておられるというのが、どんな素晴らしいことか、どんなに力あるものか、実感して行くのが、信仰生活です。
 自分の内に生きておられるイエス様に頼るなら、それに相応しい生活をする必要があります。イエス様は、言われました。ルカ9:23。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と、今も私たちに言われています。日々自分の十字架を負うということは、日々自分の古い人に死んで、私の内に生きておられるイエス様とともに生きるのです。



ガラテヤ2:17 しかし、もし私たちがキリストにあって義と認められることを求められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者になのですか。決してそんなことはありません。
2:18 もし自分が打ちこわしたものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになります。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」


ローマ7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際律法が、「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

ローマ6:6私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
6:7 死んだ者は、罪から解放されているのです。
6:8 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

ルカ9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

ルカ23:42 そして言った。「イエス様。あなたの御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」



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