2022年12月25日クリスマス「喜びの回復」イザヤ9:1〜7

序−1914年12月24日第一次世界大戦中、ドイツ軍の塹壕から「きよしこの夜」の歌声が流れて来ました。イギリス兵たちも「きよしこの夜」を歌いました。その時銃声が消え、自然にクリスマス休戦となりました。旧約聖書のクリスマスの預言も、戦争にまつわるものでした。

T−闇の中を歩んでいた民−1〜2
 時代背景は、アッシリヤによって北イスラエル王国が滅び、支配されていた時期でした。1節。異邦のガリラヤとは、異邦人に占領されたガリラヤ地域ということです。ゼブルンの地とナフタリの地も、ガリラヤ地域です。1〜2節には、悲惨な言葉がたくさん出ています。苦しみ、闇、辱め、死の陰の地とは、極度の悲惨さを意味しています。闇が繰り返されていますが、その惨状だけでなく、民の心の状態が闇や苦しみでした。
 時代が変わっても、悲惨な状態のために、苦しみや闇が人々の心をおおいます。このようにクリスマスの預言に記されているということは、ガリラヤとは、今日の悲惨な状態となっている人々を指していると言えるでしょう。苦しみや悩み、絶望で心が打ちひしがれている現代の人々の姿です。
 人の世には、苦しみや闇があります。人間関係の苦しみ、環境の悲惨、仕事でのトラブル、家庭での問題、健康を失う肉体の痛みがあります。それらによって苦しみ、心が闇に覆われてしまいます。辱めを受けたとありますが、異邦人からの受けた辱めだけでなく、異邦人との混血が多かったその地の人々は、ユダの民からも辱めを受け、蔑まれました。イエス様の時代でもそうです。ヨハネ1:46,7:41。私たちは、どんな辱めを受けたでしょうか。その時心に受けた傷がありますか。それが心に残ると、苦い根のように心にはびこります。ヘブル12:15。
 戦いに敗れたその地の人々は、くびきを負わされ、鞭で追い立てられました。4節。現代も、くびきは拘束や重荷の象徴です。その人生においてくびきを負わされたようになっている人もいます。現代社会では、人から暴力や言葉の鞭を受け、いじめや圧迫を受けることも多く、社会問題となっています。職場や学校でのパワハラやいじめを受けることがあるでしょう。そうしたくびきや虐げのために、心の闇が深くなってしまいます。
 ガリラヤは、イスラエルの北に位置していたために、外敵の攻撃や支配を受けることが多かった地です。戦争や侵略が絶えませんでした。5節。現代社会では、職場や学校において葛藤があり、人間関係において争いがあります。それは、まるで戦いのようです。競争社会という環境は、本当に大変です。いつも平安がなく、恐れや不安が生じています。そうしたことも苦しみとなり、心の闇となります。
 ですから、世の中には苦しみと闇がたくさんあります。人の心には、苦しみと闇の部分があります。そこには、罪もあります。憎しみや怒りが生じ、争いや敵対心が起こり、自己中心や妬みがあるからです。神のいない人生、それは光のない闇の中にあります。罪には救いが必要です。苦しみには癒しが、くびきには解放が必要です。そして、やみには光が必要です。ですから、人は光を求め、癒しと解放を求め、救いを求めます。

U−喜びを増し加えられる−1〜5
 苦しみや闇の中にあるたましいに、クリスマスのメッセージが告げられます。1〜2節。苦しみのあった所に闇がなくなる。ガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。彼らの上に光が耀くと言います。やがて救い主キリストが来て、苦しみや闇、死しかなかった人々に救いを与えてくれるという預言です。先には辱めを受けたが、後には栄誉を受けるようになります。1節。この言葉は、イエス様によって成就されます。イエス様が救い主として活動し始められたのは、どこですか。マタイ4:12〜17。この異邦人のガリラヤです。「すべての人を照らすそのまことの光」であるイエス様が来られました。ヨハネ1:9。
 イエス様は、カリラヤで行われたことは、絶望と苦しみの中にあった人々の人生を回復させる働きでした。罪の赦しと救いを宣言し、神様との関係を回復し、人々を苦しみから解放し、病を癒し、死んでいたような人生を生かして回復させてくださいました。
 イエス様は、闇の中にいる者にとって希望の光であり、心の闇に光を照らしてくださるお方です。こんな奇跡が私たちに起こったのが、クリスマスなのです。回復されれば、雰囲気は全く違ってきます。苦しんで闇の中にいた心に喜びが与えられます。3節。「楽しむ」と訳された言葉も喜ぶの意味の言葉ですから、この節で喜び、喜ぶが4度も繰り返されています。回復される喜びは、農夫が刈り入れ時に喜ぶようであり、兵士が分捕り物を分ける時のようだというのは、それ以上の喜びがないということです。作物を育てる労苦、戦いの苦しみがあったからこそ、喜びも一入です。
 さらに、この喜びには、特別な意味があります。「あなたの御前で喜ぶ」つまり神の御前で喜ぶと言っています。収穫も勝利も、神様からだということです。苦しみの中にあった者にとって、救い主が来られ、救われることほど楽しい、喜びの時はないからです。ですから、私たちも神の御前に喜ぶのです。クリスマスの礼拝をささげる私たちも、この喜びをいただいているのです。喜ぶことができるのです。
 驚くべきことに、1〜3節の動詞の時制は、現在完了形です。「栄誉を受ける、大きな光を見る、光が耀く、御前で喜ぶ」と後に起こることを預言しながら、すでに行われたかのように表現されているのです。私たちにクリスマスの祝福を確信させるかのようにすでに行われたと記されているのです。変化が起こる前に心の闇を光が照らし、喜びが与えられるのです。
 では、なぜこのような光や喜びが与えられ、大きな変化が起こるのでしょうか。4〜6節。この三つの節の文頭には、いずれも「キー」なぜならという接続詞が記されています。どのように回復させてくださるのでしょうか。「ミディアンの日になされたように打ち砕かれた」というのは、たった3百人のギデオンたちが、ただひたすら神様に信頼して、何十万のミディアン人に勝利する話です。救い主イエス様が、虐げと蔑みを受けてくださり、十字架で代わりに苦しみや死の刑罰を受けてくださったからです。Tペテロ2:24。
 それゆえに、イエス様はすでに勝利して、平安を与えてくださいました。ヨハネ16:33。イエス様が勝利してくださったので、私たちは勝利する戦いをしていることになります。十字架によって、イエス様は私たちの人生を回復させてくださいました。世のいかなる困難も、私たちから回復を奪うことはできません。クリスマスは、救い主イエス様が世に来られたことを記念する日です。私たちを、私を回復させてくださるために、イエス様が世に来られたことを覚えて、この日を喜びで迎えましょう。

V−不思議な助言者、平和の君−6〜7
 救い主イエス様は、どのようにして来られたのでしょうか。6〜7節。なぜ、神様は私たちを回復させてくださったと言えるのでしょうか。なぜなら、神様が御子イエス様を人として世に生まれさせてくださったからです。6節にも、なぜならという接続詞が文頭にあります。神様が私たちの救いのためのイエス様を十字架の犠牲としてくださいました。
 6節の救い主の名前は、イエス様が世に来られた働きを説明しています。イエス様が世に来られた意味が、その名に含まれています。 まず、「不思議な助言者」です。英訳聖書では、wonderful counselorとなっています。救い主は、私たちの素晴らしい相談者となります。私たちは難しい問題をかかえると、不安と恐れに陥り、苦しみ、心が暗くなります。しかし、イエス様を信じる者は、祈ってイエス様に相談できます。詩篇119:24。私たちには、すごいカウンセラーがついています。素晴らしいですね。
 次に、「力ある神」です。イエス様を信じて救われるということは、全能の神が付いているということです。私たちは弱くても、全能の神が味方です。ローマ8:31〜32。恐れることはありません。イエス様を信じる私たちの人生にも、力ある業や奇跡が起こります。「永遠の父」は、永遠に存在し、永遠に生きておられる神様が、信じている者の父だということです。イエス様に救われた者は、神の子どもとされる特権を得ます。ヨハネ1:12。親は子どもがどうであっても親として愛するように、私たちがどうあっても神様は私たちを愛してくださいます。何と素晴らしいことでしょうか。
 そして、「平和の君」です。イエス様を信じるようになると、福音によってまず自分自身が変わります。自分の家族が変わります。そして、社会が変わります。私を取り巻く人間関係が変わります。私たちの人生が回復される時、私たちに平安が与えられます。
 それも、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」ということです。7節。神様は、ご自分の御子を世に送るほどに私たちを愛されたのです。私たちを救うために御子イエス様を十字架に渡されるほど、熱心なのです。救い主イエス様が世に生まれた、これがクリスマスの神の熱心、パッションです。イエス様を世に送ってくださり、ついには十字架にまで渡して下さった、私たちを救われた神様の熱心を今日感じてください。この熱心を受け入れるならば、救いの恵みを受け、慰めと平安が与えられ、私たちの人生が回復します。たとえ苦しみと闇の中にいたとしても、神様が与えてくださった回復の喜びを味わうクリスマスとなりますように。イザヤ40:1〜2。



イザヤ9:1 しかし、苦しみのあった所に闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦のガリラヤは栄誉を受ける。
9:2 闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が耀く。
9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれたからだ。
9:5 まことに戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣物は焼かれて、火の餌食となる。
9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。


マタイ4:12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」



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