2023年1月1日「慰めよ。わたしの民を」イザヤ40:1〜5

序−昨年私たちには、様々なことがありました。悩んだり、病気になったり、職場で痛みを受けたり、家族に問題が起こったり、身近な者が召されたりしました。ですから、新しい年を迎えて私たちに必要なことは、慰めです。神様の慰めが語られるイザヤ書40章の箇所を読みましょう。

T−慰めが必要です−1〜2
 この箇所は、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、捕囚にされる民への慰めが語られるところです。神様に背を向け、偶像を拝み、罪の生活をしていたユダは、北イスラエルがアッシリアによって滅びたのを目の当たりにして、罪の裁きによる滅亡の預言は重く受け止められました。やがて国が滅びて、捕囚になるなんて、絶望しかありませんでした。
 人の心が疲れて、悲しみや絶望に陥るのは、様々な理由があります。仕事での失敗や挫折もあり、人間関係のストレスもあります。家族の問題で心を痛めることがあり、愛する者との別れもあります。体の病気ばかりでなく、心の病にもなることもあります。燃え尽きて、空しさに陥ることもあります。悲しみ絶望するならば、自分で立ち上がることができません。
 そんな深い絶望や悲しみに陥っている者に、今日の主の言葉が与えられます。1〜2節。「慰めよ。慰めよ」と二度繰り返され、強調されています。原文は、美しい詩文体で書かれています。朗々と吟じるところです。神様が仰せられます。それも、「優しく語りかけよ」と言われています。なんという慰めでしょうか。心に語りかけなさいという意味です。どれほど慰めが込められているのでしょうか。
 今、心痛めて、落ち込んでいる者に、私たちに「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と語りかけてくださるのです。すべての人が慰めを必要としています。問題のない人はいません。誰もが、慰めを受けたいのです。悩みや痛みを抱え、労苦しています。そんな人々に、「その労苦は終わる」と宣言してくださるのです。労苦が多かったね、でも、もう労苦は終わると言ってくださるのです。何とありがたい言葉でしょうか。そのお言葉だけでも、慰めを与えられます。ユダの民にとって労苦とは、裁きが終わる、捕囚が終わるということです。この労苦は無駄なことだったのでしょうか。この捕囚を通して、民は神の民となりました。エルサレムに帰還後は、以前とまったく違った信仰の民になりました。
 さらに、ユダの民に必要な慰めは、その咎は償われるということです。2節。つまり、罪の赦しです。堕落し、偶像を拝み、神に背を向け、罪を犯し続けて行き着いたのが、バビロン捕囚でした。ですから、ユダの民には、罪の赦しが必要です。神様はいつも変わらないお方です。いつも私たちを見守り、愛してくださるお方です。です。私たちが神から離れてさまよっても、私たちを待っておられます。いつも私たちを助けるために準備しておられる方です。
 神様に背を向けて、罪を犯し、裁きを受けてバビロン捕囚になるしかない民ですが、その民を神様は「わたしの民」と呼んでくださいます。ユダの民は神を離れても、神はその民を見捨てられませんでした。民は神を忘れましたが、神は民を忘れませんでした。神様の愛はすごいです。わたしの民、ご自分の民なので、回復させてあげたい、落胆した者を慰めてあげたいと思われるのです。私たちも、神の民としてそうされます。

U−慰め主イエス様−3〜5
 では、慰めはどのように与えられるのでしょうか。3〜5節。これを読んで、すぐに思い出されることがあるでしょう。今日の箇所は、イエス様が来られることを準備したバプテスマのヨハネのところで引用されていた箇所です。ルカ3:3〜6。そうです。この箇所は、救い主の来られることを預言したことなのです。救い主イエス様が私たちに来てくださることが慰めです。ですから、イエス様を信じた者には、慰めが約束されています。
 イエス様の来られた時代は、ローマ帝国の圧制の時でした。抑圧と迫害に苦しみ、呻いていた人たちに、慰めと癒しと解放と赦しを与えるためにイエス様は来られました。イザヤの預言通り、神の御子であるイエス様が人となられて世に来られました。救い主として来られたイエス様は、罪によって苦しみ、呻いているたましいを罪から解放し、慰めと喜びを与えるために十字架にかかり、三日目によみがえられました。マタイ20:28。2節の「その咎は償われている」というのは、まさにイエス様の十字架によって民の罪が償われるのです。そして、私たちの罪も、償われたのです。エペソ1:7。
 イエス様を信じてください。神様が私たちを慰めるために遣わしてくださった救い主がイエス様だからです。イエス様を信じて救われていることが、どれほど素晴らしいことか、どれほど神様の愛が溢れていることか、どれほどイエス様が自分の救いのために犠牲となられたのか、黙想し、確信しましょう。新しい年を迎えて、まずするべきことは、これです。
 慰めを受けるために、備えをする必要があります。「主の道を用意せよ」と言われています。3〜4節。その昔、王を迎える時、王に会う時には、道を整えたそうです。道は平坦になり、谷は埋め立てられ、山は崩されて、平らになります。曲りくねっている道は、まっすぐにされます。
 なぜ、そのようにするのですか。私を慰めるために来られるイエス様を迎えるためです。道路工事を命じているわけではありません。イエス様に会うために障害物を取り除いて備えなさいと言われているのです。イエス様を自分の王として心の王座に迎え入れなさいというのです。苦い根を抜いて、主を迎える心を備えます。ヘブル12:15。新しい年を迎えて、まず私たちがすることは、心の障害物を取り除いて、主を迎え入れる備えをすることです。
 そうすると、主の栄光が現れます。5節, ヨハネ1:14。グロリヤ、主の栄光をほめよと賛美して、迎えます。イエス様がガリラヤの地を巡りながら人々を尋ねて、迎えてくれる人々を助け、癒し、教え、慰めてくださいました。人々も感謝して、ホサナとイエス様を迎えて、賛美しました。私たちも、そのように慰められ、癒されるには、主を迎えなければなりません。道を備えて、愛を持って主を褒め称えます。
 ヘンデルのメサイヤは、絶望の中にあったヘンデル自身を完全に再起させた作品です。メサイヤは、テナーの「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(1〜3節)で始まります。そして、合唱の「主の栄光が現される」(5節)と続きます。ヘンデルは、この曲を生涯に34回も公演しました。

V−慰められた者が人を慰められる−〜
 捕囚の生活が長く続くと、もはや帰国の希望すらなくなります。戻って来る気力すらありません。そのような民に、神様は預言者イザヤを通して、絶望に陥っていた民に、慰めを語らせました。1〜2節。落ち込んで、心が沈んでいる民に優しく心に語りかけさせました。これが、今日の教会、聖徒たちに与えられている使命です。失意に陥っている人々を慰めなければなりません。周りの苦しんでいる人を慰めるのです。イエス様に救われ、慰められた者は、他の人を慰めることができるからです。Uコリント1:4。
 慰めは、人を変える力があります。慰めの言葉一つが、落胆していた者から落胆の思いを消し、喜ばせます。詩篇94:19。倒れていた心を慰め、立ち上がらせます。多くの苦難を受けたら、慰められないでしょうか。いいえ、「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている」と言っています。Uコリント1:5。苦難は苦難で終わるのではなく、最後には慰めを得ることになります。
 御言葉は、自分が苦難に会うなら、他の人が慰めを受けるためだと教えています。Uコリント1:6。自分が慰めを受けるなら、それも他の人の慰めのためだと言います。自分が受けた慰めは、苦難に耐え抜く力を他の人に与えることになるからです。苦しみを共にするなら、慰めも共にするのです。
 想像してみてください。落胆して、悲しく、心が落ち込んだ時、イエス様に自分のところに来てくださり、肩に触れて慰めてくださることを。もう、その瞬間、それまでの労苦を忘れさせるほどの慰めとなるでしょう。イエス様を心の内に迎えてください。イエス様を信じて、心の傷が癒され、慰めを受けるからです。Tペテロ2:24〜25。
 バビロンに捕囚になっていた民が、このイザヤの預言を聞いたなら、慰められ、エレサレムのことを再び思い、帰還の希望を持てるようになりました。慰めは、落胆した心を潤します。重要なことは、誰かが慰めなければならないということです。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を、とあなたがたの神は仰せられる」というのですから、主の民である聖徒たち、私たちに、そうするようにと言われていることになります。
 私たちは、主から慰めを受けます。だからこそ、困難の中にいる人や落胆している人を慰めることができます。慰められる者になるだけでなく、慰める者にもならなければなりません。多くの人が慰めを求めています。慰めは難しい面もあります。慰めることができるとは限りません。でも、私たちは、慰めの人でなければなりません。そのためにも、私たち自身、イエス様から慰めを受ける者になりましょう。私のうちで、思い煩いが増すときに、主の慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますようにと願います。詩篇94:19。



イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。―あなたがたの神は仰せられる―
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。主の御口が語られる。」



エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

Uコリント1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

詩篇94:19 私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

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