2023年1月8日「ああ愚かなガラテヤ人」ガラテヤ3:1〜5

序−古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、問答法を用いて、自分はよく知っていると思っている他の哲学者に対して、無知の知を自覚するよう促しました。このソクラテス・メソッドは、今日ロースクールの授業や精神療法、コーチングなどの分野で用いられています。パウロも、ガラテヤの聖徒たちに、5節の中で六つもの質問を投げかけて、考えさせています。

T−だれがあなたがたを惑わしたのですか−1〜
 最初の質問は、「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」という質問です。1節。パウロは、ガラテヤの人々にイエス様の十字架の福音を明確に伝えました。まるで彼らがイエス様が十字架にかかられた様子を目の前で見ているように描き出して伝えました。イエス様の十字架は、彼らの心に深く記憶され、信仰告白に導かれました。
 それなのに、ガラテヤの聖徒たちは変わってしまいました。目の前にイエス様の十字架を見るように聞いたのに、彼らはユダヤ主義の人々からの間違った教えを受け入れたのです。イエス様の十字架と復活は、その後も信じた者の生活に適用され、その人生を導きます。ルカ9:23。それなのにガラテヤの聖徒たちは、そのことを忘れていました。私たちはどうでしょうか。日々生き生きと十字架を体験し、告白して生きているでしょうか。
 パウロは、ショックのあまり「ああ愚かなガラテヤ人」と呼びかけます。「愚か」と言っても、知性がないとかばかにしているのではありません。その原語は、「考えがない」という意味です。なぜこんな言い方をしたのでしょう。彼らの行為が救いの恵みを無にするほどの危機に陥っているからです。ユダヤ人の要求は、イエス様の十字架を信じるだけでなく、律法も守り割礼も受けてこそ、救いは完全になると主張したからです。
 そんなことだったら、イエス様は何のために十字架にかかられたのですか。私たちの罪の赦しのため、私たちを義とするための身代わりでした。律法を守ることで義となるなら、イエス様の死は無駄になってしまいます。彼らは、このことにまったく気付いていない、考えていなかったのです。ですから、パウロは「だれがあなたがたを惑わしたのですか」と質問したのです。イエス様が十字架で死なれたことで明らかに示されているのは、人の全的堕落と無力です。 人の努力と行為では決して救われないということです。 人が十字架の前で気付くことは、自分が死ぬべき罪人であるという事実と、この十字架の恵みだけで救われるということです。エペソ2:8。
 この「惑わされた」という言葉は、原語では、魔法で人を騙すという意味です。誰かを魔法にかけて、理性に従って考えたり行動したりできなくすることです。偽教師たちが、魔法のようにガラテヤ人聖徒を騙したのです。イエス様の十字架を否定はしていません。それに加えて律法を守り、割礼を受ければ完璧というように教えたので、ガラテヤ人は、騙されたのです。深く考えることなく、惑わされたのです。「だれがあなたがたを惑わしたのですか」と質問されて初めて考え、気付くようになります。
 質問は大事です。子どもが悪さをすると、「あなたの神様はどこに行ってしまったの」と尋ねるお母さんがいました。叱るより考えさせたのです。
 イエス様が私たちの身代わりに十字架で死なれたという福音を聞いて信じて、主と共に死んで生きる体験をしたとしたら、人は救いの恵みにあえて別のものを加えようとはしないでしょう。もしそんなことをするとしたら、それは考えないでしたということになります。ガラテヤの聖徒たちがそのことをしたので、パウロは酷く嘆いたのです。こういうことは、今日も起こり得ることです。私たちも、十字架の恵みをしっかり考えていないと、惑わされたり、騙されたりすることになります。
 知識としては十字架のことは知っています。でも、十字架の意味を深く考え、黙想してみてください。十字架の意味について深い悟りがある時、人は大きく変えられ、信仰生活は恵まれます。

U−御霊によって始まって、肉によって完成されるのですか−2〜3
 問題を明確化させるために、漠然と質問せず選択させる質問があります。昼食に何を食べるかではなく、カレーか牛丼かを聞くようなことです。パウロの次の質問は、二者択一です。2節。イエス様を信じて救われると、私たちのうちに聖霊が住んでくださいます。Tコリント6:19。ガラテヤの聖徒たちが救いの結果として受けた聖霊をどのように受けたかを思い出させるために、「御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」と質問していました。
 「聞く」ということは、十字架と復活の出来事に対して反応することです。パウロは、「信仰は聞くことから始まる」と強調しています。ローマ10:17。二者択一なので、はっきりしています。それなのに、騙され、惑わされていました。ですから、再び、パウロは、ガラテヤ人の聖徒たちに対して、「あなたがたはそんなにも愚かなのですか」と質問しています。3節。つまり、しっかり考えていないと指摘しています。
 そして、「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」と質問しています。3節。すべての信仰は、聖霊によって始まります。ガラテヤ4:6,Tコリント12:3。ガラテヤの聖徒たちも、聖霊の働きによってイエス様を信じるようになりました。それなのに、ユダヤ主義者に惑わされて、今や律法を守り、割礼を受けることで、自分たちが神の子であることを確認しようとしています。そのことを肉によって完成されると言っているのです。
 現代の聖徒たちも、この危険があります。イエス様を信じていても、世の価値観に流され、世の言葉や人に惹かれます。世のものを追求して生きてしまいます。聖霊に導かれて救われ、聖霊の恵みを受けながら、自分の行為で認められようとします。いつの間にか信仰が変質して行きます。世に飲み込まれ、肉の価値観に染まってしまうのです。
 もちろん、そうしている人は、そんな自意識はありません。信仰生活をしていると思っています。だから、危険なのです。ですから、パウロは、あなたがたは愚かなのですかと繰り返して質問しているのです。あなたがたは考えていないのですかと質問されれば、考えてみます。果たして、私は信仰によって生きているのだろうか、私の生活に御言葉の適用がされているだろうか、御霊に相談して、御霊に導かれているだろうかと省みるのです。そうすると、分かって来ます。
 こうして、信仰生活は整えられ、軌道修正されるようになります。私たちは、イエス様を信じることによって、御霊の原理が私たちを罪と死の律法から解放し、御霊が私たちのうちに生きておられるので、できるようになります。ローマ8:2,9。

V−あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか−4〜5
 3節の「肉によって完成されるというのですか」ということから、かりにそうであるならば、「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか」と質問しています。4節。仮にそうだとしたら、どうなるかと考えさせるタイプの質問です。仮に誰かが「こうしたい」と言って来たら、「そうしたらどうなるか」と質問し、考えさせるようなものです。簡単に要望を言っていた者がしっかり考えることで、現実的に取り組むようになったりします。悩んでいる者が、カウンセラーから「そうしたらどうなるか」と聞かれ、考えてみることで、整えられるようになります。
 パウロは、そうだとしたら、ガラテヤの聖徒たちが福音を聞いてから受けた様々な霊的な経験が,無駄に受けたことになるのではと考えさせています。5節を見ると、ガラテヤの聖徒たちが聖霊の力あるわざを体験していたことが分かります。聖霊によって信仰に導かれ救われたという驚くべき体験をし、その後信仰生活を通して数々の聖霊による力あるわざを経験して来たのです。それにもかかわらず、その人生が肉で終わったなら、あれほどの聖霊の経験は無駄になるのでしょうかと質問しています。
 しかし、この質問は、「いいえ、無駄ではありません」という答えを期待する、いわゆる反語的質問です。聖霊によって信仰に導かれ救われ、聖霊による力あるわざを経験して来た彼らは、「いいえ、無駄ではありません」と答えざるを得ません。ガラテヤの聖徒たちは、パウロに質問されることによって、「そうだった、あれほどの聖霊による信仰の経験をしたのは、律法を行ったからではなく、信仰をもって聞いたからだ」と確信するようになるのです。5節。
 私たちもそうです。私たちは、自分の決断で信じたと思うかもしれません。自分がキリスト教を選んだと思います。自分の知恵や力で信仰生活をしていると思うでしょう。しかし、一つ一つのことに聖霊が働いて導いてくれたから、私たちは御言葉を聞き、イエス様に出会い、福音を信じるようになったのです。救われた後も、聖霊は私たちを守り、導き、助け、私たちの相談に答えてくださいます。それなのに、その恵みを忘れて、そうできなくなったら、何と愚かなことでしょうか。
 今日は質問がとても大切なことだと分かりました。私たちも、自分に質問してみましょう。よく考えてみましょう。自分一人でもセルテキストを用いている方もいます。質問されると、自分を省みる事ができ、霊的状態を知り、信仰生活を修正することができます。詩篇143:5。



ガラテヤ3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
3:2 これだけをあなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3:3 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
3:4 あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。
3:5 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。


エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

Tコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

詩篇143:5 私は昔の日々を思い出し、あなたのすべてのみわざに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。

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