2023年1月22日「祝福を受けるには」ガラテヤ3:6〜14

序−新年を迎えると、人々は福を求めます。韓国の新年の挨拶は、「福をたくさん受けてください」です。人は誰でも、祝福を求めます。あちこち訪ね、捜し求めます。しかし、祝福は神様が与えてくださるものです。聖書の中に神様から祝福を受けた代表的な人がいます。その人がどのように祝福を受けたのかを学び、私たちも神様の祝福を受けましょう。

T−アブラハムの祝福から−6〜8
 パウロは、ユダヤ人に惑わされたガラテヤの聖徒たちのために、アブラハムを引き合いに出しました。6節。なぜ、アブラハムを引き出したのでしょう。ガリラヤの聖徒たちを惑わしたユダヤ人が、自分たちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムを誇りとしていたからです。神に信仰によって義と認められて、祝福を受けた人を紹介しています。私たちも、信仰によって祝福を期待しなければなりません。
 アブラハムは、どのようにして義と認められたのでしょうか。聖書は、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と言っています。ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫として割礼を受けたことを誇り、ガラテヤの聖徒たちに要求しました。ところが、聖書は、アブラハムが割礼を受ける前に、信仰によって神に義と認められたと言っています。ローマ4:9〜10。
 アブラハムが祝福されたことが創世記12:1〜3に出ています。アブラハムが生まれ故郷を出て、神が示す地へ行くならば、その神への従順のゆえに祝福を与えると約束されました。その祝福の内容は、まず「彼を大いなる国民とし、その名を大いなるものとし、彼が祝福の源となる」ということでした。実際に、彼から多くの部族が分かれ、歴史の中で彼の名は偉大になりました。
 ところが、祝福を約束された時、大いなる国民の元となる自分の後取りすらいませんでした。それでも、アブラムはそのような状況にもかかわらず、御言葉に信頼し、神に従いました。自分の現状と神の御言葉とはあまりにも大きな隔たりがあり、心配になりました。そんな時に、神は約束の言葉を再び与えてくださり、アブラハムは信じました。それによって義と認められました。創世記15:5〜6。このような信仰を見習いましょう。
 アブラハムは、アブラハムの行為には、義と認められるには不適切なこともありましたが、神はその信仰を見て義と認めてくださいました。アブラハムは、神に全面的に信頼したことで、神に義と認められました。創世記15:6。アブラハムが神に対して忠実な態度を示したことで、神が義とみなされたのです。私たちは、どれほど神様を信頼しているでしょうか。
 アブラハムは、イスラエルの先祖となるだけでなく、すべての聖徒たちの信仰の父となりました。ローマ4:16。こうして、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」ということになりました。8節。アブラハムが信仰によって義とされて、神様の祝福を受けて生きたように、新約の時代の聖徒たちもアブラハムと同じ祝福を受けるようになりました。信仰によって生きる人々こそアブラハムの子であると宣言しています。7節。ユダヤ人の惑わしなど吹き飛んでしまいます。
 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていた」(8節)というように、「信仰によって人を祝福しよう」という神様のご計画は、歴史の中で変わらずに持続されて来ました。エペソ1:11。多くの人々がイエス様を信じて救われ、義とされ、アブラハムが味わった祝福に参加するようになります。ローマ4:24。救われた聖徒たちは、イエス様の中で喜びを味わい、神様の祝福の中で健康や物質的祝福をも受けるようになります。これが、神のご計画です。

U−のろいから祝福へ−9〜13
 アダムの不従順のために、世には神の祝福の代わりに呪いが臨みました。人々は、問題や患難、混乱や争いが支配する世に住んでいます。神がアブラハムを選んだ目的は、この呪いの地に新しい信仰の人を起こすためです。神様の御旨に従う者、御言葉を行う者たちです。祝福を与え、アブラハムの子孫が律法に従うように訓練されました。彼らは、約束どおりカナンに入り、祝福を味わうようになりました。富と権威と栄光を得ました。
 しかし、アブラハムの子孫イスラエルが不従順のために、呪いを受けました。10節。呪いの下にある罪人の人生は悲しくて絶望的です。神を離れた人生には真の喜びはありません。アブラハムと共に祝福を受けるには,自分が罪の呪いの下にいる者であることを見なければなりません。これが祝福の始まりです。自分が病気であることを知ってこそ、癒しが始まります。今、謙遜に主の前に進み、主の救いを求めなければなりません。
 そのために、神はイエス・キリストを送ってくださいました。イエス様が新しい契約の仲介者として来て、呪いの下に置かれたユダヤ人と異邦人を呪いから解放し、真の祝福を受ける道を開いてくださいました。イエス様が十字架にかかられて、人々の罪ののろいをその身に負ってくださいました。13節。それゆえ、イエス様を信じた者は、イエス・キリストの十字架の死を通して呪いから解放されています。そして、信仰に生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに神の祝福を受ける者とされました。9節。
 8節で言われているように、異邦人である私たちもアブラハムと共に祝福されます。信じれば祝福を受ける原理は、現在の私たちの生活にも同じように適用されます。私たちも、アブラハムの祝福を受ける者です。イスラエルは不従順で神様がくださった祝福を失いましたが、私たちはキリストの中で祝福を受けて、恵みを味わう者なのです。私たちがアブラハムの霊的子孫となり,アブラハムへの約束を相続することになります。
 私たちは、生活の中で毎日のように神様の驚くべき祝福を受けることができる者です。罪の誘惑にうち勝ち、落胆や絶望から立ち上がることができます。Tコリント10:13。救われた者としての恵み、喜びを通して造り変えられ、霊的に成熟して行く人生を生きることになります。
 ですから、私たちは,救い主イエス様を信じる者に与えられる祝福を期待しなければなりません。もちろん、私たちが受ける祝福は、この世で受ける祝福を越える御国につながる祝福です。ですから、私たちはこの世でパウロや初代教会の聖徒たちのように苦しんでいても、落胆することなく、希望を持つことができるのです。
 アブラハムの信仰を思い出してください。神の祝福の約束に比べて、自分の状況と隔たりが大きく、不安や心配もありましたが、神を信頼し、希望を持ったので、実際に祝福を体験することができました。 以前にはイエス様を知らず、罪の呪いの下に生きていた私たちが、イエス様の救いを信じる信仰によって呪いから抜け出して、アブラハムのように神様がくださった地で祝福を受けていくのです。

V−祝福は自分から他の人へ広がる−8,14
 救い主イエス様をくださった神を信じてください。イエス様の十字架を信じれば、祝福を受けます。これが、祝福を受ける道です。一人の跡取りさえいなかった時、アブラハムは、空の星のような子孫を約束された神の御言葉を信じて、その信仰によって義と認められ、祝福を受ける者となりました。これが、神の祝福を受ける原理です。9節。別の道から祝福を得ることはできません。
 信仰とは、神が祝福の源であることを知り、その御力を信頼し、その知恵を信頼し、その言われる道を進んで生きることです。 私たちが自分の人生の主人ではありません。 主なる神が私たちの人生の主管者です。 ヨハネ15:5。神は、今も私たちに祝福を与えようとされておられます。神が祝福の源であると信じるならば、今イエス様を信じて従う人生を選ぶことです。罪の呪いの下にあるならば、今イエス様の十字架を信じて呪いから解放され、祝福を受けるべきです。
 神は私たちの目に見えないので、ややもすると私たちは神がくださる祝福を受けて味わいながらも、その恵みを忘れてしまい、その神様の代わりに他のもの神のように頼ることになってしまうことがあります。ローマ1:21。祝福が神様から出てきたことを知らず、 他のものを神様のように頼ることになるのです。
 私たちは、キリストの中で驚くべき祝福を受けた者であり、祝福を得ていく者です。 ですから、重要なことは、私たちは、祝福を受けて味わいながら神の祝福を伝える祝福の通路だということです。イエス様の十字架を信じることによって、罪の呪いから解放された私たちは祝福された者です。祝福された私たちは、その祝福を享受するだけでなく、その祝福を他の人も受けるようにしなければなりません。
 アブラハムへの祝福の特徴は何でしたか。創世記12:3。「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」ということでした。8節。「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ」ということです。14節。主の十字架を信じた私たちが呪いから抜け出して祝福を味わい、喜びで生きながら、他の人が罪の呪いの中にいてもいいのでしょうか。神の祝福を受けて、恵まれれば、あの人にも祝福を受けてほしい、この祝福を味わってほしいと願います。そのためにも、神の祝福をしっかり受けて、体験したいと願います。
 


ガラテヤ3:6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と書いてあるとおりです。
3:7 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。
3:9 ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その律法によって生きる」のです。
3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
3:14 それは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようにためでした。


ローマ4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、
4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

創世記12:1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。

創世記15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

エレミヤ17:7 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
申命記28:2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。



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