2023年1月29日「約束と律法」ガラテヤ3:15〜22

序−鎌倉幕府3代目執権北条泰時によって、何百年も武士の基本となる御成敗式目が作られました。それまで武士たちの争いを治める基準がなく、武力に訴えていたからです。ガラテヤ書を学んでいると、律法は必要ないもの、恵みの信仰にとって妨げになるものではと思うかもしれません。それでは、律法はなぜ与えられているのでしょうか。律法が与えられている意味はなんでしょうか。救いと律法にはどんな関係があるのでしょうか。

T−約束は、律法によって変えられない−15〜18
 まず、神の約束は、律法によって変えられないことについて、人間の例で説明しています。15節。人の契約でも、いったん結ばれたら、誰もそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしないと言っています。当時のその地方では、重要な契約を結ぶ時、獣を半分に切って、もし破ったらこの獣のように呪いを受けると言いながら、契約を結んだそうです。恐ろしい感じですが、それだけ契約は守られなければならないということです。
 ユダヤ人は、割礼を受け律法を守ることでアブラハムの契約の民になり、義とされると主張しましたが、そうだとすると、先に神がアブラハムと結んだ契約を廃止することになるがというのです。神様がアブラハムと結んだ契約は、無効にしたり、それにつけ加えたりしない、430年後にできた律法に関係なく永遠に効力があるということです。17節。先週学んだように、ユダヤ人だけがアブラハムの子孫ではなく、信仰によってすべての異邦人も祝福を受けるということです。8,14節。
 この契約は誰によってなされるのでしょう。16節。この約束は、神は「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して、「あなたの子孫に」と言っておられるのです。つまり、イエス・キリストを通して信じるすべての者を救うという約束のことです。ですから、イエス様を信じてユダヤ人と同様に異邦人もアブラハムの子孫となり、契約の民となり、アブラハムの祝福を受ける者となります。これが、神のご計画であり、御旨だったのです。それで、私たちも救われているのです。
 ですから、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、イエス様を信じなければなりません。割礼を受けることで神の民になるのではなく、律法を守ることで義とされるのでもありません。信仰によって義とされるのです。
 神の民は、アブラハムの約束の祝福を恵みとして受けました。18節。恵みを、律法を守る功績に変えようとする行為は、神様の契約を捏造しようとする深刻な罪だとなります。救いの恵みの事実に信頼しながら、聖徒は神の民らしく生きることができます。恵みを覚えるほど感謝の思いが生じ、信仰生活において律法を守ろうとするようになります。しかし、恵みの思いが薄れると、律法行為の功績を加えようとし、できれば誇り、できなけば絶望したりします。
 そうなると、神の民らしい姿も消えて、呪われた者のようになります。再び恵みを握るまで律法の呪いから抜け出せなくなります。律法主義は言います。恵みだけではわがまま、放蕩になるのではないかと。しかし、放蕩息子も恵みに接した時に変わりました。聖徒たちは、はじめから恵みだけで生きる者です。救われた神の子どもたちは、救いの恵みの中に入れられ、祝福されています。 これが福音です。
 その証拠は、私たちです。罪の中で生まれ、罪の中で生き、罪の中で死んでいたような私たちが、それでも救われて、祝福された人生を生きることができるのは、神の約束、神の恵みのゆえです。そんな私たちが、時には神に背を向け、罪に陥ったり、神から離れたりします。それでも、このように愛されて、守られて、生かされているではないでしょうか。これが、救いの契約であり、恵みなのです。
 救われた者に対する神様の無限の愛と赦しを知るならば、その神の恵みに応答するようになります。神様を信頼して、聞き従うようになります。そして、福音に相応しい生活を送るようになり、幸せを感じるようになります。

U−律法はなぜあるのですか−19〜20
 では、なぜ律法が必要なのでしょうか。いったい律法って、何なのでしょうか。約束を通して与えられた恵みだけでよかったのではないですか。19節。律法は「違反を示すためにつけ加えられたもの」です。人は、アダム以来罪を犯し続けて来ました。問題は、何が罪だか分からないことです。ですから、罪を犯しても、罪を犯しているとは思わないのです。
 法律がなくても、犯罪かどうかは常識で分かるでしょうと思うかもしれませんが、その常識も法社会において築かれて来たものです。聖書でも、「隣人のものを欲してはならないと言われなければ、欲望を知らなかった」と言っています。ローマ7:7。近年社会状況の変化に伴って、罪意識は悪化しています。以前は常識とされていたことでも、罪の意識が薄れて来ています。社会に流されるのではなく、御言葉に聞かなければなりません。
 律法はなぜ必要なのでしょう。律法には、罪を抑える働きがあります。19節。罪だと分かれば、罪を犯した時に受けるであろう刑罰に対する恐れや恥のために、心に抱いた罪を実行に移すことができません。 律法のこの機能は、社会を維持するために必要不可欠なものです。これが、常識となって、社会が維持されています。ですから、聖書の戒めも、私たちに罪が何かを教えてくれて、私たちがかつては平気でしていたことでも、罪意識が生じて、罪を犯すことを止めてくれます。
 しかし、律法は人の心に起こる欲望まで取り除いてくれるわけではありません。旧約時代の神の民にとって、律法は違反を示すためにつけ加えられたものでした。律法は、何が罪なのかを明らかにし、罪を悟るようにさせます。ローマ3:20。律法は人を義にする手段ではなく、罪人であることを明らかにする手段として与えられました。律法は、人をより良い状態にすることができず、より悪い状態にもします。
 信仰による恵みは人を義としますが、律法は人の罪を暴露します。多くの人々は法律に従っており、見た目は正しい人のように見えますが、心の中は分かりません。心の中は腐敗しており、偽りに満ちているかもしれません。謙遜さときよさの外観の裏には、高慢と欲望が隠れているかもしれません。ですから、どんな人でも、神の前では弁解できず、裁きを避けることができないことを認めさせます。

V−律法は神の約束に反するのですか−21〜22
 では、律法は神の約束に反するのでしょうか。21節。そんなことはありません。律法がなぜ与えられたのですか。律法は、命を与えることはできません。律法が与えられた目的は、人が律法を守る能力がまったくないこと、律法を守ることができないために裁かれ、滅びに至る運命であることを知らせるためです。
 それをしっかり知ってこそ、切実に救いを求めるようになります。救いは神様の愛と恵みによるものであり、神様の誠実な約束によるものです。アブラハムのようにイエス様を信じるだけで得ることができるという「恵みの福音」だけに頼って、救いを得て祝福を得ます。22節。
 ですから、律法は、この時代にも必要です。なぜなら、人の実情を明らかにしてくれるからです。罪にまみれた自分の内実を省みさせ、罪を悟らせ、切実にイエス様の救いが必要なことを願うようになるからです。
 ただ、律法を守ろうとする時気をつけなければならないのは、ガラテヤの聖徒たちのように、恵みの福音に他の福音、いや別のものを混ぜるなら、恵みの福音が分からなくなります。信仰の自由を失い、信仰の恵みから離れるようになります。他の福音を混ぜることによって、福音が変質してしまうからです。ガラテヤ1:6〜7。信仰の自由を失った聖徒、パリサイ人のような聖徒、信仰と生活が一致しない聖徒となるでしょう。私たちは、ただ神の約束と福音の恵みを握って、信仰生活をしているでしょうか。
 律法の有効性についても、言っています。19節。「それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで」です。約束を受けたこの子孫とは、イエス様のことです。イエス様が来られる時まで、律法は有効だということです。律法は、私たちをイエス様に導く役割を果たします。この手紙を書いているパウロほど律法に熱心だった人はいません。しかし、その熱心がパウロを義にしてくれたのではなく、イエス様を信じる聖徒たちを迫害し、神の救いのご計画を妨げる深刻な罪を犯させたのです。私たちも肉の熱心で生きるなら、それが私たちを神様から離れさせ、傲慢にさせ、自分勝手な行動に向かわせてしまいます。
 イエス様を信じる者は、福音と律法について正しい理解をしなければなりません。 神の御言葉には、二つの柱「律法と福音」があります。福音と律法は、人を救うために必要で有益です。 律法を離れて福音を理解することができず、福音を抜くなら律法は私たちには役に立ちません。福音は旧約聖書の中にもあります。 律法はイエス様の説教の中にもあります。イエス様を通して約束が成就すると、ユダヤ人も異邦人も、イエス様を信じる人々は誰でも救いを得て、祝福を受けます。
 律法も神から来たので、神聖で誠実で重要な使命があります。律法がなければ、十字架の恵みを悟ることはできません。律法は人間に罪人であることを覚醒させ、神様の恵みの御座の前に導いてくれます。ローマ3:23〜24。



ガラテヤ3:15 兄弟たちよ。人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して、「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
3:17 私の言おうとすることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
3:18 相続がもし律法によるのなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。
3:22 しかし聖書は、すべての人もの罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。


ローマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

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