2023年3月5日「キリストが形造られるまで」ガラテヤ4:11〜20

序−今日の箇所には、産みの苦しみという表現が出て来ますが、陣痛は人間が自制出来る最大の痛みだと云われています。数時間から10時間にも及び、立ち会っている夫の方が耐え切れず、騒ぎ出したり、貧血を起こして倒れる人もいるそうです。産みの苦しみをどんなことに例えているのでしょうか。

T−愛のある関係が築かれたが−12〜15
 パウロは、以前の自分とガラテヤの聖徒たちとの親密な関係を思い出しています。12〜15節。まず、パウロのガラテヤの聖徒たちに対する思いが表れています。12節。「あなたがたも私のようになってください」と求めるのは、「私もあなたがたのようになった」からです。パウロは、ユダヤ人として律法を守ることに熱心で、徹底してユダヤ人として生きていた人です。 しかし、イエス様を信じて救われた後は、ユダヤ人のように生きることを止め、異邦人宣教においては、徹底して異邦人のように生きたことが、あなたがたのようになったということです。
 ガラテヤの異邦人たちと一緒に過ごすことは、パウロにも少なからず負担だったと思われます。これまでのユダヤ人の生活様式を捨てて、律法を知らない異邦人のように生きていくことは、ユダヤ人としての考えをくつがえす必要がありました。ああパウロは宣教師だなと思います。ユダヤ人のプライドや慣習に囚われずに、福音が曲げられない範囲で彼らのように生きたというのが「あなたがたのようになった」という意味です。
 パウロは、誰に対しても自由でしたが、すべての人々を獲得するためにすべての人の奴隷になった人でした。Tコリント9:19〜20。ですから、ガラテヤの人々の救いのためには、彼らのような生活様式と情緒に合わせたのです。これは、私たちの伝道や証しのため、私たちが覚えるあの人のためにはどのようにしたらよいかを考えさせてくれます。
 福音のためにご自分のあり方を完全に捨てられた方がいます。イエス様は、福音のために神の御子としてのあり方を捨てて、ピリピ2:6〜8。ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。罪人の中で、彼らと一緒に住み、労苦しながら、福音を全人格的に伝えられました。その主に出会ったパウロは、まさにそのような心情で、ガラテヤの人たちを愛して仕えたのです。 ユダヤ人としての生き方を捨て、彼らと同じ姿で彼らのように生きて、福音を全力で証ししました。
 そして、そのパウロから福音を聞いて、イエス様の十字架を信じて救われたガラテヤの聖徒たちも、自分たちのために、自分たちのようになって福音を伝えてくれたパウロを徹底して受け入れました。13〜15節。パウロの弱さを理解して、受け入れてくれたのです。この地方で福音を伝えた時、パウロはユダヤ人たちから大きな迫害を受けました。パウロは、石を投げつけられ、死んだと思われたこともありました。
 加えて、パウロには深刻な病気があったようです。小アジアの南部の低地から高地のガラテヤ地方に来たのは、マラリヤのためだと言われています。その痛みは大きいです。また、てんかんを持っていたと考える学者もいます。そして、重い眼病を患っていたと思われます。15節。大きな字でこの手紙を書いています。ガラテヤ6:11。どんな病気か、確かなことは分かりませんが、3度も肉体のとげを取ってくださいと祈るほど、パウロには痛みを伴う持病があったようです。Uコリント12:7〜9。医者のルカが途中から伝道チームに加わっているほど、健康に問題がありました。使徒16:10。
 そのようなパウロの姿は、受け入れるに躊躇する試みを受けるくらいのものでした。しかし、ガラテヤの聖徒たちは、そんなパウロの姿を見ても軽蔑したり嫌悪感を持ったりしないで、かえってパウロを神の御使いのように、キリスト・イエスにあるかのように、パウロを認め、敬愛し、受け入れてくれたのです。自分の大切な目もあげたいと言うほどに、パウロを敬愛しました。それは、パウロがそんな体でも、魂を救うために労苦してくれたからです。聖徒たちは、福音を聞いて感激し、救いの恵みを享受し、福音を伝えてくれたパウロに対して大きな感謝を覚えたのです。このような美しい出会いと愛の関係が築かれました。

U−初めの愛の回復を訴える−15〜17
 ところが、このようなパウロとガラテヤの聖徒たちの関係が、今まったく変わってしまいました。ぎくしゃくした関係になっていました。15節前半。最初に福音を聞いた喜び、幸せを感じた皆さんの心は今どこに行ったのですかと言っています。残念です。あれほどパウロを敬愛していたガラテヤの聖徒たちの態度がまったく変わってしまいました。パウロはそのままですが、ガラテヤの聖徒たちが変質してしまったのです。16節。敵のようになってしまいました。そんなことがあるのでしょうか。パウロが去った後に、律法に熱心なユダヤ人が来て、イエス様を信じただけでなく、律法を守らなければならないと偽りを教えたのです。
 ユダヤ人の偽りは、ガラテヤの聖徒たちの好感を買うために熱心さを見せました。 ガラテヤの聖徒たちは彼らの外見だけを見て、中心は見ませんでした。ユダヤ人の律法に対する熱心さに騙されて、福音から離れるようになりました。17節。
 彼らの熱心は福音のためではありませんでした。ガラテヤの聖徒たちをパウロから引き離し、自分たちに従わせようとする肉の思いでした。私たちも、肉の熱心に陥っていないか顧みることが必要です。私の熱心は果たして良いものだろうか、 私が苦労する働きの熱心は誰のためなのかと。聖徒の間の関係を離間させようとすることは、今日もサタンはチャンスを狙います。 関係を破ろうと獅子のように探し回っています。Tペテロ5:8。
 試みを受けたガラテヤの聖徒たちは、パウロに対する気持ちが変わってしまいました。パウロが伝えてくれた福音への喜びと情熱を失い、パウロに対する熱い愛も消えてしまいました。パウロを御使いのように思っていた人が、敵のように思っています。 自分の気に入る時は喜んで受け入れますが、自分の気に入らなければ敵のように見なすという人の姿がここにあります。
 聖霊に満ちた神のしもべパウロでさえこのような状況に直面するならば、足りない私たちは、どれほど心配な状況に陥ることでしょうか。 人間関係から来る葛藤は、人生の現場である家庭や職場、学校等でしばしば起こります。親しかった間でも起こります。共に過ごし、共に働いている関係にもひびが入り、わだかまりが生じます。ちょっとした誤解や期待外れが、その関係を急速に変えてしまいます。
 裏切られたと憤慨しますか。自分はあれだけやったのにと落胆しますか。でも、そのような姿を主は喜ばれるでしょうか。それでは関係は改善しないし、回復しないでしょう。どうすれば、いいでしょうか。

V−再び産みの苦しみをして−〜
 私たちは、常に聖書の中で問題の答えを見つけなければなりません。パウロの態度に注目しましょう。19節。子供を産むには、母親の犠牲的な苦労が必要です。つわりをしながら10ヶ月間不快や痛みを経験します。とりわけ出産の時の痛みはどれほどでしょうか。パウロは、ガラテヤの地で多くの痛みと労苦をしながら福音を伝え、多くの聖徒たちが生まれました。
 今、パウロは再び産みの苦しみをしながらガラテヤの聖徒たちにキリストの信仰を立て直すというのです。養育の労苦を再びしなければならないというのです。霊的命が生み出され、成長するのですから、犠牲や痛みも伴います。裏切られた、労苦が無駄になると思っても、「再び」産みの苦しみをするのです。自分の心が傷付いた痛みよりも、聖徒たちを心配する痛みが強いのです。痛んだからこそ、「子どもたち」と呼んでいます。
 パウロがガラテヤの聖徒のために働くことの目的は、彼らの中にキリストが形造られることです。形造られるとは、内なる本質を適切に体現するという意味です。キリストの福音に生きて、キリストを深く愛して、やがてキリストに似る者となるためです。私たちの考えや言葉、行動をイエス様の考えや言葉、行動にして行くのです。再びガラテヤの聖徒たちのために労苦すると覚悟しています。 パウロは、ガラテヤの聖徒たちの態度のために葛藤したり、恨むよりも、彼らの霊的に成長して行く姿、キリストが形造られる姿を望み見て、労苦するというのです。
 イエス様の十字架を信じて救われたクリスチャンにとって大事なことは、自分のうちにキリストが形造られる人生を生きることです。神様は今日も、神様の御心通りに生きながらキリストに似ている人たちを探し求めておられます。ガラテヤの聖徒たちとの軋轢によってパウロが悟ったことは何でしょう。福音に根ざすことは、状況の変化に関わらず、労し続けることです。どんな状況でも、主が与えられた使命に忠実であるということです。そのためには、再び犠牲を覚悟して進む必要があります。
 人間関係で葛藤する私たちもそうすべきだと分かりました。いつまでそうすべきですか。主の前に立つ日までです。 そうするならば,仕える者と仕えられる者にキリストが形造られて行くでしょう。失望落胆する時があり、倦み疲れる時もあります。 悔しい思いをする時もあり、誤解される時もあります。それでも、救いの恵みを握りながら、再び産みの苦しみをして行くのです。互いにキリストが形造られるために。エペソ4:13〜15。



ガラテヤ4:12兄弟たち、あなたがたにお願いがあります。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。
4:13 あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いのように、キリスト・イエスにあるかのように、受け入れてくれました。
4:15 それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。
4:16 それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
4:17 あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。
4:18 善意から熱心に慕われるのはいつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。
4:19 私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
4:20 私は今、あなたがたと一緒にいて、口調をかえて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。


Tコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。




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