2023年3月12日「真理はあなたを自由にします」ガラテヤ4:21〜31

序−アレゴリーという比喩の一種があります。諷喩とか寓喩とか言いますが、例えだけを示し、例えられているものが何かを推測させます。イソップ寓話が有名です。24節で比喩と訳された原語がアレゴリーの語源になっています。一見難しく見える箇所ですが、分かり易くするために比喩が用いられています。アブラハムの息子たちが比喩の題材とされています。

T−女奴隷から生まれた、自由の女から生まれた−21〜23
 突然創世記のアブラハムの二人の息子の話が出て来ます。これも、救いが律法によるのか恵みによるのかを説明するために引用されています。ユダヤ人に惑わされて、イエス様を信じるだけでなく律法を守れなければ救われないと思って、律法、律法と騒いでいる人たちに、創世記の話から、律法と福音について説明します。21〜22節。
 アブラハムの二人の息子、一人は女奴隷ハガルが産んだイシュマエルです。創世記16:1,15。もう一人は、妻サラが産んだイサクです。創世記21:1〜3。ガラテヤ3章でアブラハムの約束について学びましたが、アブラハムは子孫が空の星のように多くなると神からの約束を受けていました。にもかかわらず跡取りが与えられず、サラの女奴隷ハガルから跡取りを得ようとしました。不信仰の結果でした。しかし、神様は、その後年老いた二人にイサク与えてくださいました。
 女奴隷ハガルが産んだイシュマエルと妻サラが産んだイサク、この二人の対比に注目させています。女奴隷の子イシュマエルは「肉によって生まれた」のに対して、自由の女の子は「約束によって生まれた」と言っています。23節。肉によってということは、人間的なやり方と人間の熱心と努力によることであることを意味しています。つまり、律法になぞられているのです。一方、イサクは、約束通り神様によって奇跡的に与えられました。サラがイサクを生んだのは、人間のいかなる努力や熱心の産物ではなく、神の約束による恵みです。神様自身が、主権的に働いてくださったことです。イサクの誕生は、イエス様の誕生を思い起こさせます。
 神様を信じないで自分の考えや熱心一辺倒で生きるのか、どんな状況でもひたすら神様を信頼して生きるのかという聖徒たちの生き方の違いが浮かび上がって来ます。イソップのうさぎとカメの寓話を通して油断とか着実とかの教訓を得るように、私たちの信仰への教訓を受けるのです。女奴隷の子と自由の女の子の誕生の違いから、私たちが救われたのは自分の選択や熱心によるのではなく、ただ神の契約に基づいて恵みで救われたことであることを発見するのです。エペソ2:5,8。
 ガラテヤの聖徒たちを惑わすユダヤ人が、自分たちがアブラハムの血統的な子孫であると主張していましたが、パウロは、ただ血統的にアブラハムの子孫であるのではなく、どのように生まれたのかがアブラハムの子孫であることにとって重要であるということです。自分の力と行為で救われると主張する者たちが、まさに今日の箇所のイシュマエルであり、彼らの母は奴隷ハガルということになるのです。
 私たちが、ただ恵みと信仰で神の約束によって生まれ変わった者であるならば、私たちの母はサラであり、私たちはアブラハムの子孫として相続人になるのです。私たちはまったく腐敗し、堕落した罪人であり、何の資格もないが、ただイエス様の十字架を信じたことで神の子とされています。恵みによって贖われた者がサラの子です。イエス様を信じてください。

U−今のイスラエル、天のイスラエル−24〜27
 次の対比は分かりにくい印象ですが、やはり例えていることは同じです。24〜26節。二人の女を二つの契約とシナイ山とエルサレムに結びつけています。ハガルは、古い契約、シナイ山、そして今のエルサレムとつながります。 古い契約は、シナイ山で律法によって立てられた契約を言いますから、ハガルとつながるのは当然です。そして、このハガルとシナイ山が今のエルサレムともつながっていると言うのです。
 今のエルサレムとは、イエス・キリストによって新しい契約が与えられたにもかかわらず、救い主イエス様を拒み、依然として古い契約にこだわって、今も律法に従って神殿で犠牲祭をささげ、律法を守ることによって救いを得ようとしているユダヤ人社会を指しています。特に、パウロはこのシナイ山がアラビアにあると言いました。25節。アラビアとは、エジプトを出たイスラエル人が40年間さまよった荒野のことです。律法の奴隷として生きる厳しさと空しさを表しています。 誰もが自分の考えや力に救いの願いを置けば、こうなるのです。
 しかし、サラは上のエルサレムにつながります。26節。旧約聖書のすべては、新約聖書のモデルであり、影であり、予言です。預言された救い主イエス様が来られて新しい契約を立ててくださったならば、モデルや影であったものはもはや意味がなくなりました。目に見えるエルサレムは、霊的なエルサレム、天のエルサレムを象徴するものです。
 霊的なエルサレム、すなわち天のエルサレムが重要なのです。 上のエルサレムとは何ですか。それは、イエス様を信じて神の子どもとなった神のすべての民の霊的な住みかです。私たちがこの地に住んでいますが、私たちの国籍は天にあります。ピリピ3:20。
 天国には、世では味わえないものがたくさんあります。 神様がくださる永遠の安息と平安があり、 永遠の命があります。 喜びと賛美があり、 慰めと愛があります。聖書は、このような天国に入るために、世に生きている間に天国の市民権を得なさいと言っています。天のエルサレムに入る方法は律法を守ることではありません。 人間の行為によって入れるわけでもありません。イエス・キリストを信じる信仰だけで入ることができます。
 教会は、地上で始まった天国のコミュニティです。私たちは、教会生活を通して天国生活を練習していることになります。すでに神の子とされているのですから、霊的な生活をしなければなりません。聖徒たちは、イエス様に似る者となるように成長して行く者です。Tヨハネ3:2,エペソ4:13〜15。神の栄冠を得るために、目標目ざして走っているのです。ピリピ3:14。
 私たちは、救われた後も地上で生きる者ですが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制など天国の市民としての実を持つように生きるのです。私たちが主の日を守り礼拝生活をすること、聖書を読んで祈ること、証しと奉仕、これらすべては天国生活を練習していることになります。私たちが魂中心の生活を送ることも天国生活の練習です。家庭や職場、学校など生活現場においてもそうして行くのです。地上のエルサレムに目標を置かないでください。 天のエルサレムに目標を置いてください。

V−奴隷の子、自由の子−28〜31
 自分がどういう者であるかということが分かっていると、地上での生き方が変わって来ます。自分がどういう者であるかという対比が示されています。28〜31節。イシュマエルは女奴隷の子であり、イサクは自由の女の子です。束縛と自由が対比されています。律法主義がもたらすものは束縛ですが、福音がもたらすのは自由です。 イエス様を信じて与えられる恵みの一つは、魂の自由です。
 でも、イエス様を信じて救われて、自由になっていますか。自由を味わっていますか。最も幸せな人は、魂が自由な人です。相続できる最大の財産も、魂の自由です。女奴隷ハガルは、律法を象徴していました。律法は人を律法の奴隷にします。イシュマエルは、奴隷の身分を相続します。人々がいくら律法を守ろうとしても、守ることができません。 律法で義になろうとしても、罪を知るだけでした。ローマ7:7。
 しかし、イエス様が身代わりに十字架にかかることで、罪が赦され、義とされる道を開いてくださいました。この福音は、神様の愛とあわれみの結果です。イサクは、神様の愛の契約に従った者です。イエス様を信じることで新しい契約、恵みの契約に入れられています。今日の箇所で強調されているのは、キリスト者の自由です。イエス様は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われました。ヨハネ8:32〜36。真理は、まさにイエス・キリストご自身です。 誰でも真理であるイエス様を信じれば、魂の自由を得ます。
 魂の自由とは何でしょうか。世で自由と言えば、何物にも束縛されない、何でもできるということでしょうか。でも、何でもやり放題できることが、自由ということではありません。自己中心で判断して行動すれば、人に害を及ぼします。人に害を与えると、人間関係が壊れます。しかし、愛は隣人に害を与えません。ローマ13:10。愛は人に害を与えないだけでなく、他人のために自分の命を差し出します。人の救いのためイエス様を十字架に犠牲とされたことに神の愛が表れています。Tヨハネ4:10,ヨハネ3:16。イエス様を信じた人は、この愛で生きる者です。愛は律法を越えています。
 奴隷の子が自由の子を迫害し、追い出されました。29〜30節。イシュマエルがイサクをいじめて、ハガルとイシュマエルが追い出された話があります。創世記21:9〜10。律法では天国へ入れないということを示しています。私たちの前には二つの道があります。 イサクの道とイシュマエルの道です。福音を信じて生まれ変わり、天のエルサレムを目指して生きていきます。 罪から自由になり、魂の自由を享受して生きます。 律法の束縛から解放されて、自由人として生きるのです。ヨハネ8:32,36。



ガラテヤ4:21 律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
4:22 アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
4:23 女奴隷の子は肉によって生まれたのに対して、自由の女の子は約束によって生まれました。
4:24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一つはシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
4:27 なぜなら、こう書いてあるからです。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
4:28 兄弟たち。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
4:29 けれども、あのとき肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」
4:31 こういうわけで、兄弟たち。私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。


エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

ピリピ3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ヨハネ8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。

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