2023年3月26日「自由を得させるために解放して」ガラテヤ5:1

序−社会心理学者エーリッヒ・フロムによる「自由からの逃走」によると、封建制や絶対王政などから解放された近代人は自由を得たが、それによって安定感が失われ、孤独と無力感がつきまとうようにもなり、そこから逃れるために、自由を棄てて、束縛と権威へ逃避するようになったと言っています。当時の人々が自由を棄てて、全体主義に走っていたのを考察したのです。ガラテヤの聖徒たちの姿を思わせます。

T−自由ですか。与えられた自由を味わっていますか−
 ガラテヤの聖徒たちは、イエス様を信じてたましいの自由を得ましたが、ユダヤ人に律法も守らなければならないと教えられ、再び自由を失ってしまいました。現代の人々もまた、自由を得ているようで、自由ではなく、むしろ自由から逃走しているようです。エーリッヒ・フロムは、ドイツ人がなぜ自由を棄てて、ナチズムに走ったのか考察して、その本を書きました。私たちは、 自由ですか。私たちは、イエス・キリストを私の救い主として受け入れた時に自由を宣言され、与えられているはずです。ルカ4:18〜19。その与えられた自由を体験していますか。 その自由を味わって生きているのでしょうか。与えられた自由はどうなっていますか。
 自由についての宣言を見ましょう。1節。ガラテヤ書の主題は、キリスト者の自由です。この節は、ガラテヤ書の主題聖句です。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」には、自由という言葉が二度使われています。「自由」という名詞の動詞形が「解放して」と訳されています。「キリストは、私たちを自由にしようと自由を与えました」となります。自由が強調されています。自由を得させるために、解放されたのです。
 聖書の言う自由とは、どんな自由なのでしょうか。自由というと、人々は肉体的に拘束されず、自分の思いのままに話し、自分の思い通りに行動できる状態を考えるでしょう。しかし、聖書の言う自由は、内面の自由、たましいの自由です。罪からの自由です。人は誰でも、罪の奴隷です。心が何かに囚われ、束縛されています。しかし、裁きを受けなければならない罪から自由になって、天国に入ることができるようになりました。
 この自由は、単に消極的に律法からの自由、律法の呪いと罪から解放されることだけを意味するのではなく、積極的にその自由の中でその自由を享受して生きることです。罪と滅びから解放されました。ローマ8:2。聖徒たちにおける真の自由とは、決して自己実現ではありません。 ただ自分を罪の裁きから救い出してくださった自由に対する感謝があるだけです。
 罪から自由になりました。たましいも自由にされました。かつて、私たちの心の中にある多くの傷や苦い根、恐れや不安、劣等感や高慢、怒りや憎しみなどに囚われ、支配されていましたが、イエス様の愛で、それらのものから自由にされました。どんなにすばらしい自由でしょうか。 これが、私たちがイエス様を受け入れた時に私たちに与えられる自由であり、経験することができる自由です。
 ですから、イエス様を信じるすべての聖徒は、自由な存在でなければなりません。どうですか。あなたは自由ですか。与えられた自由を失い、何かに縛られていませんか。何かに巻き込まれ、新しい束縛に向かっていませんか。自由から逃走していませんか。

U−キリストが私を解放して自由にしてくださいました−
 では、その自由はどこから与えられたのですか。なぜ与えられたのですか。それを知ることが、自由を享受するために重要です。1節。イエス様が、私たちに自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。自由は、人の行動や能力によるのではありません。私たちに自由を与えてくださったのは、イエス様です。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げるために。虐げられている人を自由の身とすることが、イエス様の働きです。ルカ4:18〜19。
 イエス様は、私たちに自由を与えるために、何をしてくださったのですか。今私たちはレント、受難節を過ごしています。イエス・キリストの十字架の場面を覚えましょう。神の御子であるイエス様が、私たちの身代わりに十字架にかけられました。イエス様が十字架につけられる場面では、人々のののしりやあざけりが記されているのが目立ちます。マタイ27:38〜44。緋色の服を着せ、いばらの冠をかぶせてからかい、つばきをイエス様にかけました。どれほどプライドが傷つき、心が痛むことでしょうか。
 私たちも、世にあってののしりやあざけりを受けます。からかわれ、ばかにされることもあります。プライドが傷つき、心がズタズタになります。体の痛みは一時的ですが、心の痛みはずっと残り、増えこそすれなくなりません。そんな私たちの心の痛みを、イエス様はその身に負われました。私たちのために十字架にかかり、ののしられて、あざけられたイエス様の姿を思う時、私たちの痛んだ心がどれほど慰められることでしょうか。痛みや憎しみ、恨みに囚われていた私たちの心が自由にされます。
 イエス様が十字架に苦しむ時、異様な空模様となりました。マタイ27:44〜45。この暗闇は、人々の罪に対する神の御怒り、裁きを示しています。イエス様が罪に捕らわれた人々を解放するために、私たちの代わりに神の怒りの裁きを受けられたからです。人が失望し、落胆すれば、心が暗くなります。何もかもうまく行かず、突然問題が起これば、絶望して、人生は暗闇に覆われます。ですから、十字架から復活され、勝利されたイエス様を心に迎えるのです。イエス様に心を開いてください、光が心に臨みます。絶望から解放されます。
 その暗闇の中で、イエス様は大声で叫ばれました。マタイ27:46。信頼する神から見捨てられた痛みの叫びです。人が見捨てられた時の孤独と悲しみと喪失の痛みは、どれほど大きいことでしょうか。イエス様の孤独と痛みは、敵対する者から捨てられただけではありません。ホサナと歓迎していた民衆から見捨てられ、ののしられました。愛する弟子たちからも裏切られ、捨てられました。そして、信頼していた神から見捨てられました。痛みの中で最も大きな痛みは、肉体の痛みでも、侮辱を聞く痛みでもなく、見捨てられる痛みです。しかし、それは私たちを救うための叫びであり、赦しと愛の叫びでもあります。イエス様の苦しみは私たちのためだからです。イエス様の救いは、私たちを孤独と喪失感から解放してくれます。
 イエス様の十字架と復活は、私たちを罪と滅びから解放し、囚われていた心の傷や恨み、失望や恐れから自由にしてくださいました。その自由を体験していますか。囚われていた思い、束縛から解放されていますか。

V−再び奴隷のくびきを負わされない−〜
 1節で、パウロは、「ですから、あなたがたは、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」と強く勧めています。なぜなら、イエス様の十字架の犠牲によって自由にされ、解放されているにもかかわらず、律法の奴隷に戻っていたからです。それは、まるで与えられた自由から逃走しているようです。今日、イエス様から与えられた自由を現代のクリスチャンは味わっているのでしょうか。はたして、聖徒たちは、キリスト者の自由を享受して生きているのでしょうか。けっこう多くの聖徒たちが自由を体験していないようです。
 与えられた自由に慣れていないのかもしれません。 真の自由が何であるかを知らずに信仰生活をしているのかもしれません。ショーシャンクの空という印象深い映画があります。刑務所の囚人たちの話ですが、30〜40年拘束された刑務所での生活にあまりにも慣れ過ぎて、釈放され自由が与えられても、社会での生活に大きな不安と恐れを感じて、絶望するシーンがあります。突然与えられた自由が恐怖の対象でしかなく、与えられた自由をどうすべきか分からなかったのです。
 ガラテヤの聖徒たちも、真の自由に慣れていなかったのです。イスラエルの民がエジプトから解放されても、その自由を味わうことができない姿がしばしば現れます。エジプトにいた方が良かったと文句を言い、エジプトに戻ろうとするのです。なぜでしょう。エジプトで長い期間奴隷であったからです。民は、与えられた自由を享受することができず、再び奴隷のくびきを付けようとしました。
 何かあると、クリスチャン以前の考え方や価値観に戻ってしまい、囚われてしまうことがないでしょうか。苦しい問題が続けば、かえって主を拠り頼み、もっと信頼すべきであるのに、神様から離れて絶望し、見捨てられたと落ち込んでしまうのです。自分の思うようにならない時、主の導きを求め、従い続けるのではなく、以前の習慣に戻ってしまうのです。肉の自分、自我からの解放が必要です。
 時には、「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ぶでしょう。ローマ7:24。しかし「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」と宣言しています。ローマ8:2。罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理に生きる自由が与えられています。罪から解放されて神の奴隷となったと言われています。ローマ6:22。神の奴隷となって、御言葉に従うことの中で本当の自由が得られます。主の御手の中で、環境に左右されないたましいの自由を味わうことができます。ガラテヤ5:1。



ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。


ルカ4:18 「主の御霊がわたしの上にある。主が、貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げるために。虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

マタイ27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

ローマ6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

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