2023年4月2日「愛で仕えるための自由」ガラテヤ5:2〜15

序−イエス様を救い主と信じた者たちに自由が与えられたことについて学びましたが、自由が与えられた目的は何でしょう。与えられた自由をどのように使うのでしょうか。自由を守る方法は何でしょうか。そういう質問が出て来るでしょう。今日の箇所から学びます。

T−大事なのは、愛によって働く信仰です−2〜11
 ガラテヤの聖徒たちは、パウロから福音を聞いて、救われ、自由を得たはずなのに、その後やって来たユダヤ人から、イエス様を信じるだけでなく、律法を守り、割礼も受けなければならないと教えられ、再び自由を失ってしまいました。1節。旧約において神様が命じたすべての儀式は、やがて来られるイエス・キリストを預言することでした。割礼の儀式も、世に来られる神の御子が人々の贖いのために苦しみ、血を流して死ぬことの予表でした。神の民としてのしるしは、洗礼に変わりました。
 イエス様が世に来られ、十字架にかかって血を流されたことで、割礼を受ける必要はなくなりました。割礼を受けるということは、キリストの働きを全面否定する結果をもたらします。2節。多くの悪影響を与えます。真理に従わないようにさせます。7節。イエス様を信じるだけでなく、割礼も受けなければならないというのは、神から来たものではありません。8節。パン種のように、この偽りの教えは、あっという間に全体を汚染してしまいます。9節。そして、人を動揺させる者は、さばきを受けるようになります。10節。
 パウロは、迫害を覚悟して、十字架の真理とクリスチャンの自由を伝え、迫害を受けました。11節。人々に認められ、人々から非難されないようにと、真実を放棄して、与えられた自由を失ってはなりません。私たちの中に認められたいという願望、人々から非難を受けることに対する恐れがあります。自由のための憎しみと非難を受ける勇気が必要です。
 何が大事なのですか。6節。愛によって働く信仰なのです。愛によって働く信仰がなくても、いくらでも教会に通うことができます。 祈りもできます。 礼拝もできます。 奉仕もできます。新約時代の割礼は、体にするのではなく、御霊によって心にしなければならないと教えています。ローマ2:29。心に割礼を受けたというしるしは何ですか。それが、愛によって働く信仰なのです。6節。
 信仰とは、神を知り、主を信頼し、神を恐れ、主の御言葉に従うことです。神を離れたことが、人間の最大の危機です。神様を離れるにつれて、人間は罪に陥り、神の御怒りのもとに生きるようになりました。イエス様の十字架を信じなければならないのは、彼が私たちの罪の代わりに死なれたからです。イエス様の十字架によって、私たちは罪赦され、裁きから解放されました。これが救いです。 私たちは神を知り、神を愛し、神の言葉に従い、生きるのです。
 神を知ること、神の愛を経験することが人生の幸せです。 信仰は、幸せな人生の最も重要な要件です。信仰は神との関係であり、人生に根本的な変化を起こします。主は私たちの人生に入って私たちの主人になり、私たちは主の中で愛の人生を生きるのです。これが、愛によって働く信仰です。私たちが信仰によって主の愛を経験するならば、それによって私たちは愛の人に変わります。

U−自由を肉の働く機会としないで、隣人を愛する−13〜14
 何のために自由が与えられたのか、見てみしょう。13節。まず、神様が私たちを救いに召してくださった目的の一つが自由だというのです。自由を与えられるために召されたのです。救われて与えられた自由を誤って用いてはなりません。「その自由を肉の働く機会としないで」と言っています。自由を得た私たちの前に罠が置かれています。それは、肉の欲です。自由を間違って使うと、反対に自由が失われます。
 多くの人々が、自由を勘違いしています。人が自由と言えば、何の抑圧や干渉を受けない状態と考えます。 やりたいことをして生きることを自由な人生だと思うのです。自由と放蕩を混同しています。自由ということが、人々を奴隷にしています。現代社会において、人々は、お金に奴隷になり、権力の奴隷になり、快楽の奴隷になり、貪欲の奴隷になっています。そんな奴隷の生活を自由と勘違いしているのです。
 ですから、その自由を肉の働く機会としないようにと注意しているのです。13節。自由を制御できないと、自由はむしろ人々をかみつき合うようにさせます。14節。互いに肉を働かすなら、互いにかみつき合い、食い合う泥沼に陥ります。そして、お互いの間で滅ぼされてしまいます。
 では、どうすれば、いいのでしょうか。イエス様が私たちを愛して、私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。イエス様は、救われた私たちの人生の新しい規範をもたらしてくれました。イエス様は、律法全体をまとめて何と言われましたか。マタイ22:36〜40,マルコ12:28〜31。神を愛し、隣人を愛する人生です。今日の箇所でも、律法全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされると言っています。14節。
 私たちを愛する神様が、私たちを救うために御子を十字架に渡されました。ここに愛があります。Tヨハネ4:9〜10。この愛を受けた私たちは、神を愛し、隣人を愛するのです。イエス様は、私たちを自由にしてくださいました。 イエス様の救いによって、罪から解放され自由とされた私たちは、神を愛して隣人を愛するという新しい人生の規範を持つようになりました。自由を与えられた目的は、自分を愛するように隣人を愛することです。自由の使い方は、隣人を愛するために使うのです。
 イエス様の弟子は、イエス様がくださった新しい戒めのとおりに生きる人です。 イエス様の弟子は、お互いを愛して生きる人です。ヨハネ13:34〜35。イエス様が十字架にかかって、与えてくださったその自由で、肉の働く機会にしないで隣人を愛する人が、皆からイエス様の弟子として認められる人です。

V−愛をもって互いに仕える−13
 イエス様を信じて与えられた自由を豊かに味わう方法があります。自由を正しく使うことです。13節。愛をもって互いに仕えることです。ただ神様の恵みに感謝して、愛をもって互いに仕える機会として自由を用いるのです。私たちは仕えるために救われたということが言えます。放蕩することが自由ではありません。
 放蕩と言えば、放蕩息子の例えを参照してみましょう。ルカ15:11〜24。放蕩してしまう次男は、自由を肉の働く機会としてしまいました。放蕩の結果、豚の世話をする者となり、その餌を食べたいと思った時、父の家にいるのが本当に自由だという事実に気づきました。帰宅後の次男の生活は記されていませんが、雇い人の一人としてくださいと言っていた通り、父を愛しながら父に仕える自由の生活を生きたことでしょう。
 これが、霊的な自由の姿です。自由をいただきましたが、自らしもべになるのです。イエス様も、自由の原理を説明されました。マタイ11:28〜30。イエス様は、ご自分に来る者を自由にしてくださいますが、「わたしのくびきを負いなさい」と言われています。 これはどういうことでしょうか。主に従い、仕えることです。そうすることの方が易しく、むしろ平安が来るというのです。
 これが、霊的な自由です。先週の凧と糸の話と同じです。凧は所有者と糸でつながっています。糸は束縛ではありません。救われて神の子どもとされた私たちは、自ら進んで主のしもべになるのです。 そして主があなたの隣人をあなた自身のように愛せよと言われるので、互いに隣人に仕えるのです。13〜14節。これが、仕えるための自由です。仕えるって、どうすればいいのでしょうか。「人からしてもらいたいことは、同じように人にしなさい」とイエス様が教えておられます。マタイ7:12。とても分かり易いことではないでしょうか。
 イエス様は、奴隷のように弟子たちの足を洗いながら、互いに仕え合うことを教えられました。ヨハネ13:14〜15。互いにプライドが高く、高慢になり易い弟子たちに対して、あえてこのようなことをされたのです。誰が一番かと争う弟子たちに対して、「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」と教えられました。マルコ10:43〜45。私たちに与えられた所有物、資格、環境、地位などは、しばらく私に任せられたものに過ぎません。 それを持って仕えなければならないのです。Tペテロ4:10。
 イエス様が私のために十字架にかかられたという主の愛を知って、仕える者になるために献身します。 これがまさに仕えるための自由です。 そして、このような人生を生きる時、主がくださる喜びがあります。主がくださった真の自由を味わうために、仕える者になってください。
 自由を守る方法は、自由を積極的に使用することです。パウロは極めて逆説的な方法を提案しています。13節。自由は、隣人を愛して、互いに仕えることから始まります。他人の存在を尊重し、他人に仕えることが自分の自由を保証する方法です。自分だけ仕えるのではありません。ここには「互いに仕え合いなさい」と勧めています。教会共同体において、各人が自由を享受する秘訣は、互いに仕え合うことにあります。マルコ10:45。



ガラテヤ5:2 よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって、何の益もないことになります。
5:3 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。
5:4 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5:5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。
5:6 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
5:7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。
5:9 わずかのパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。
5:10 あなたがたが別の考えを持つことはけっしてないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。
5:11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっていたはずです。
5:12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。
5:13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
5:14 律法全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。
5:15気をつけなさい。互いにかみつき合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。


マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

Tヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

マタイ7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

マルコ10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

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