2023年4月16日「御霊によって歩みなさい」ガラテヤ5:16〜26

序−イエス様を信じて救われた者は、霊的に成長し、造り変えられ、聖化すると学んだが、変化しない自分を否定したり、悩んだりする人がいます。成長するには時間もかかると諦めたり、霊的成熟を願わない人もいます。聖徒の聖化、霊的成長は約束されています。そのためには秘訣があります。

T−聖霊によって歩みなさい−16〜18,25
 前回、イエス様を信じて与えられた自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさいということを学びました。13節。そのためには、「御霊によって歩みなさい」と勧めています。16節。御霊によって歩めば、肉の欲望を満たすようなことはないというのです。ということは、肉の欲は私たちの自由を奪い、御霊に従えばイエス様によって与えられた自由を味わうことができるというのです。御霊によって歩むとは、御霊によって行動する、御霊によって生活するということです。18,25節。
イエス様を信じた者は、聖霊を受けました。御霊なる神がその内に住んでいてくださいます。ヨハネ14:16〜17。クリスチャンになったということは、御霊とともに人生を生きる者になったということです。大変な変化です。自覚されているでしょうか。御霊の導きを受けるには、御霊の導きに敏感でなければなりません。考えや状況が御霊によることなのか、肉の欲によることなのか、見極めなければなりません。そして、主に委ねて、御霊の導きに従って行くのです。そうすることで、御霊が働いてくださいます。
 神様は、御霊の力なしに神の働きをしようとする人たちを残念に思われます。神の働きは、御霊の助けがなければできません。人の力や能力ですることはできず、ただ御霊の力によって可能だからです。17節を見てください。願いとは、強い欲求を示しています。私たちの内には、肉の望みと御霊の願いという二つの強い願いがあります。この二つの対立があります。
 イエス様を信じた後に私たちの内に起こることが、この現象です。かつては、何も感じないことが、葛藤を覚えたり、躊躇したりするようになるのです。自分の中で、誰かがそれをしないように言うのです。誰の声ですか。それは、私たちの内に住んでおられる御霊です。御霊がそれでいいのですかと問い、それはしないようにと言われるのです。しかし、その内なる御声を聞かず、肉の欲に従うようになると、葛藤が生じるのです。二つの願いが対立するからです。そういうことがありませんか。
 また、聖霊の願いが心に生じ、御霊の声が心に聞こえることもあります。でも、心の中では、肉の望みがそれを拒み、聞かないようにさせます。そんなことしなくていい、先延ばしすればいい、みんなもしていないと言うのです。そんな声が聞こえませんか。肉の望みです。こうして、葛藤が生じ、二つの願いが対立するのです。結果、自分が願っていることができなくなります。
 この二つの願い、望みが対立すると、なにもできなくなります。この二つの願いの両方を叶えることはできません。中間に立つこともできません。肉の欲を満足させ、御霊の願いも一応聞くなんてこともできません。どちらかを選ばなければなりません。どちらを選びますか。もちろん、御霊の願いを選びます。18節。御霊の導きに従って生きれば、私たちの内で葛藤と戦いが終わります。イエス様によって与えられた自由を享受することができます。
 今私たちの生活は、御霊の願いによるものですか。肉の望むことによるものですか。御霊によって歩みましょう。御霊の願いを聞こうとする私たちの決心、御霊の導きに従おうとする私たちの願いが必要です。

U−肉のわざ−19〜21,26
 この二つの望み、願いのどちらに従うかによって、その人の人格と人生が違って来ます。肉の望みに従う者は、肉の欲の望むままに生きようとします。エペソ2:3。肉の業を行うことになります。19~21節。肉の業の代表的なものが15、具体的に取り上げられています。肉の欲に従って行動する人々の姿です。具定例を見ながら、私たちも自分を省みてみましょう。
 まず、最初の「淫らな行い、汚れ、好色」は性的な罪です。逸脱した性的なことに恐れや恥ずかしさを覚えることなく、他人の権利や社会の道徳を無視し、淫らな行動をすることです。現代社会はもちろんですが、古代のガラテヤの社会でも、相当に淫らだったようです。周りがそうであれば、簡単に淫らな言動に流されてしまうでしょう。肉の欲は、「偶像礼拝、魔術」です。ほとんどの偶像崇拝が、自分の利益や自己の目的を満たすために作られました。偶像崇拝は自分の変化を必要としません。 これが偶像崇拝の特徴です。魔術も、元々他人を傷つけようと悪魔の力を借りる魔法に由来します。偶像崇拝は、自分が主人になるか、自分が望む神を作ることです。自己中心に関わります。
 次に、「敵意と争い」ですが、何らかの理由で、誰かを敵対視します。人間関係において葛藤が起こった時、敵意を持ち、争います。自分を良いとして、すべて相手のせいにします。そこに「憤り」が伴います。憤りは、怒りの爆発です。多くの罪を引き起こします。「そねみ、ねたみ」は嫉妬心のことです。日本語のねたみ妬み、そねみ嫉みには少し違いがあります。妬みは羨ましくて、憎らしいことであり、嫉みは羨ましくて、悔しいことです。羨ましく思った後の感情の違いです。この感情がやっかいです。制御できなければ、色々な罪につながって行きます。「党派心、分裂、分派」については、自分の利益や利己的な野望のために党派を作り、人々の不和を扇動して分裂を起こし、利己的な目的のために分派を作ります。
 以上の大部分は、対人関係での罪になります。 非常に小さなものから始まりながら、自分や他の人を致命的な罪に追いやり、傷を与えるものです。「酩酊、遊興」において、酩酊とは、過度に酔った状態のことで、遊興は過度に快楽を楽しんだ状態のことです。自分自身を壊す罪の行動と言えるでしょう。聖書は、「酒に酔ってはいけません。御霊に満たされなさい」と言っています。エペソ5:18。
 16節の「肉の欲望」のまま行動すれば、このリストの行動をいくらでもしていまいます。これらは、元々ガラテヤの聖徒たちの中にあったことであり、肉の望むままを行動していた人々がいたのでしょう。ですから、リストの最後に、「このような者たちは神の国を相続することはできません」と警告しています。私たちは、肉の望むままに生きる者ですか。イエス様を信じた者は、肉の欲を十字架に付けたことになります。24節。ですから、肉の望むまま生きることはできません。では、どう生きるのですか。

V−御霊の実−21〜25
 それは、「御霊によって導かれて行動する」ことです。18節。「御霊によって生きる」人です。25節。御霊に従って行動し、御霊によって生きていくならば、その人生の姿が明らかに違って来ます。 それが「御霊の実」です。 聖霊の実はどんなものですか。22~23節。
 御霊によって生きる人に現れる特徴は「愛」です。肉の欲に従う人も愛に従ったのですが、それは、エロス、利己的な肉欲の愛です。しかし、御霊の実である愛は、イエス様の十字架が見せてくれた犠牲的な愛、至高の愛と言われるアガペーです。御霊の実である「喜び」は、肉の欲を満足させる喜びではなく、外的な環境に関係なく、苦難の中でも持てる喜びです。この「平安」は、平穏な苦しみのない状態と言うのではなく、神様との正しい関係から来ることで、問題の中でも主にあって平安を覚えます。
 「寛容、親切、善意」は、他人に対して現れる行動です。寛容は、自分に害を及ぼし苦しめる人に怒り、報復したりすることなく、耐えることです。御霊に導かれる人は、自分の害を与える人にさえ親切や善意で応答するようになります。「誠実、柔和、自制」は、自分に向かって現れる御霊の実です。誠実とは、いつも誰が見ても信頼できる、変わらない姿です。柔和は、穏やかであることです。自制は、主に自分の肉の欲を制御できることです。これらの実は、感情の起伏をいたずらに繰り返したりしません。
 なぜ、イエス様に救われて、霊的に造り変えられる聖化が約束されているにもかかわらず、肉の望みが依然として聖徒たちを捉え、葛藤させるのでしょうか。エペソ4:13〜16。御霊によって歩まないからです。御霊に導かれるなら、肉の欲に翻弄されません。16,18節。
 この9個の御霊の実は、原文では単数形で、全体で一つの実です。一本の木に幾つか実があるというイメージです。木がきちんと根付いていて栄養分を供給されれば、実は自然に結ばれます。御霊の実も、人為的な実りではなく、御霊の働きによります。ですから、私たちが御霊の実を結ぶためには、御霊に従うことが必要です。御霊に導かれて生きるのです。
 9個が一つの御霊の実であるなら、生まれつきの性質のように、多いか少ないか、有るか無いかということではないようです。私たちが御霊によって歩むならば、9個の特質が一つの実のように結ばれることになります。そんなことは難しいと思いますか。実を結ぶには、花が咲いて、小さな実のもとが作られ、それが成長して実を結びます。ですから、私たちの御霊の実は、今は小さく見えないようであっても、御霊に導かれて生きるなら、必ず成長して実を結ぶのです。そして、その御霊の実で人を愛し、人に仕え、霊的に成長し、御霊の人になり、教会を建て上げる人になることを願います。ガラテヤ5:25。
 
 


ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすようなことは決してありません。
5:17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が願うことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることはできなくなります。
5:18 御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。以前にも言っておいたように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続することはできません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに、十字架につけたのです。
5:25 私たちが御霊によって生きるのなら、御霊によって進もうではありませんか。
5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、そねみ合ったりしないようにしましょう。


ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

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