2023年4月30日「互いの重荷を負い合いなさい」ガラテヤ6:1〜5

序−前回「御霊によって歩みなさい」ということを学びましたが、御霊によって生きる人は具体的にどうするのでしょうか。今日の箇所では、当時ガラテヤで起こっていたと思われる問題について、御霊の人はどう対応するのかを教えています。これを学んで、私たちの生活へ適用しましょう。

T−柔和な心でその人を正してあげなさい−1節前半
 律法主義のユダヤ人の影響を受けて、パリサイ人のようになっていたガラテヤの聖徒たちは、自分たちは律法を守るしっかりしたクリスチャンという自負があったのでしょう。そして、周りにいる過ちに陥った聖徒たちを批判し、責め、裁いていたようです。このような人の姿は、私たちの社会の中でも見られる姿です。そこからさらなる問題が生じ、人間関係が壊れて行くことにもなります。私たちも、経験することでしょう。
 聖書は、何と勧めているのでしょうか。1節。パウロは、「過ちに陥った人を正してあげなさい」と言っています。「過ちに陥った」とは、どういうことでしょう。原語は、横に落ちるという意味で、正しいところから外れたことを指します。ですから、正してあげなさいというのです。
 過ちに陥った人と向き合う目的は、正してあげることです。罰することでも、免責することもありません。「正して」の原語は、修理する、回復するという意味です。過ちが修理されて、正しい状態に回復するなら、その本人はもちろん、過ちで害を受けた人や周りの人も益を受けるようになります。過ちに陥った人を正してあげることは、とても有益なのです。
 ここで大事なことは、正してあげる人です。正してあげる人は、「御霊の人である」ことが必要です。誰でもいいから正してやるとしたら、批判し、責め立てることになりかねません。御霊の人でなければなりません。それでも、ガラテヤのみなさんに対して「御霊の人であるあなたがた」と言っています。御霊に導かれてするなら、誰でも正してあげることができるということです。御霊の人でなければなりません。
 「柔和な心で」と訳されている原語は、ガラテヤ5:23の「柔和」と同じです。御霊の実で正してあげるのです。肉の感情に支配されるのではなく、聖霊に導かれる心です。ですから、正してあげる人は、御霊の人でなければなりません。柔和の原語の意味は、「優しさの中の強さ」であって、必要な力を使うのに、妥協したりすることなく、不必要な厳しさを避けることです。柔和は、軟弱なイメージではなく、強さを秘めた優しさというイメージです。そのような柔和な心で正してあげるのです。
 過ちを正してあげるということは、デリケートなことです。指摘される方は、批判され、責められたと思い、心傷つき、怒りさえ生じるからです。正してあげるという言葉は、他の箇所で「網を繕う」とも訳されています。マタイ4:21。破れを修繕し、元の状態に回復させることです。正してあげるとは、そういう役割をするのです。そのような働きをするには、強さを秘めた優しさが必要です。私たちの周りには、私たちのそのような働きを必要とする人がいます。助けるには、御霊の人にならなければなりません。

U−それぞれ自分の行いを吟味しなさい−1節後半、3〜4節
 この1節には、正してあげる人々に対して、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と注意しています。そうです。未成熟な人は、他人が過ちに陥った時、すぐに怒ったり、批判したり、責めたりしますが、自分自身のことはまったく考えません。人々は、他人の足りなさや過ちを指摘したり、責めたりするのですが、自分自身はどうなのかとは思わないのです。しかし、主の前では私たちは、同じく過ちに陥り易い者です。同じ罪人です。聖化のプロセスにあり、造り変えられる工事中の者です。
 自分自身も過ちに陥らないようにと思えれば、柔和な心で修繕し、回復させてあげることができるでしょう。誘惑に陥らないようにとは、原文では受身形です。御霊の人は、他人を見ながら自分は誘惑されていないだろうかと省みるのです。自分を振り返り、点検なさいということです。
 他人の過ちを批判し、責め、裁く者には、特徴があります。3節。「自分を何者であるかのように思う」ことです。他人を平気で批判し、簡単に責める人自身は、自分は立派な者、自分はできている者という自負があるからです。しかし、他人から見れば、当然そのような人ではありません。英語の欽定訳では、「nothingである自分をsomethingと考えるのは自分をだましている」となっています。
 ガラテヤ教会には律法主義の聖徒たちがいて、パリサイ人のように自慢し、他人を批判し、責めていたようです。そんな人は、立派でもないし、できる人でもありません。平気で他人を責め、悪し様に批判する人が、なぜあんなに自分に自信があるのか不思議なくらいです。自分にだまされないでください。自分の能力や知識を過信しないでください。自分の経験や判断について自信過剰にならないでください。
 自分を振り返っていないのです。「自分自身を欺いている」というか、自分が分かっていないのです。だから、平気で他人を責め、批判することができるのです。肉のプライドが霊的成熟を止め、成長を停止させます。自分の姿を振り返ることなく、他人のほんの少しの過ちや足りなさを声高に指摘し、きつく責める姿は幼稚ですらあります。
 そういう人は、自分を誇っているのですが、誇っている自分の姿が分からないのです。4節。自分の姿を振り返るなら、誇ることはできなくなります。黙示録に出て来るラオデキヤの教会がそうでした。黙示録3:17。自分たちは富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言っているのですが、神様から見れば、惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることが分かりませんでした。福音書にも、高慢な自信家のパリサイ人の恥ずかしい姿がよく出ています。ルカ18:10〜12。自分の財産や地位、自分の能力や評判を過大評価しないでください。
 霊的でない人が、他人のたましいの問題に介入できるのでしょうか。御霊の人でない人が、柔和な心で他人を正してあげられるのでしょうか。私たちはどうしたらよいのでしょうか。

V−互いの重荷を負い合いなさい−2,5
 もっと進んで、正してあげるというレベルを越えて、「互いの重荷を負い合いなさい」と勧めています。2節。2節の「重荷」の原語の意味は、重り、困難な事、荷物のことです。お互い、弱さがあり、過ち易い者であることであるならば、互いに重荷を負い合いなさいと言うのです。相手の足りないことや過ちを責め、裁くのでなく、過ちや足りない所を負い合いなさいというのです。
 どんなことでも一人でやれば、労力も時間もかかります。何かの回復や修復であれば、なおのことです。でも、誰かと一緒にやれば、容易になります。互いの足りなさを指摘し、過ちを責めるよりも、相手の足りなさを補い、過ちが修復することに心を向けましょう。互いの重荷を負い合う心を持つようにしましょう。どんなに素晴らしいでしょうか。
 「互いの重荷を負い合いなさい、そうすれば、キリストの律法を成就することになります」というのですが、キリストの律法とは何でしょう。イエス様の教えられたすべてのことを指しているかもしれませんが、イエス様が言われた新しい戒めがあります。ヨハネ13:34。それは、「互いに愛し合いなさい」ということです。愛こそ、すべての教えを成就することになります。イエス様は十字架にかかられることによって、私たちへの愛を完全にされました。私たちの罪を十字架に代わりに負ってくださり、私たちに赦しと命を与えてくださいました。
 イエス様は、私たちの過ちや罪を指摘し、責め、裁くために来られたのではなく、私たちの重荷を負うために来られ、十字架に負ってくださいました。ヨハネ19:17〜18。イエス様は私たちを救おうと、探し、訪ねて来てくださいました。その愛を感謝して、その救いの恵みに応えて生きたいと願います。私たちが助ける人を探しましょう。イエス様は、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と言われたのではありませんか。マタイ7:12。
 原文でも、2節の文頭に「互いに」が置かれています。互いに〜し合うという表現が、新約聖書の中に50箇所もあります。イエス様の言われた新しい戒めでも、「互いに愛し合いなさい」と繰り返されています。ヨハネ13:34。ですから、このように、互いに重荷を負い合うことによって、キリストの律法を成し遂げることになるのです。
 私たちは、お互いに重荷を負い合うのですが、まずは自分の重荷を負うことが勧められています。5節。この「重荷」は、2節の「重荷」とは違う言葉が使われています。2節の重荷は、大きい荷物で、一人では負えない荷物です。5節の重荷は、一人で負うことができる荷物のことです。人はそれぞれ、神様から任された賜物と働きがあります。Tペテロ4:10。それを持って、互いに仕え合うのです。自分のせいで起こる問題を他人のせいにしては、自分の重荷を自分で負っていないことになります。自分を正すこともできません。
 人生に疲れて、落ち込んでいる時、とても大変で、不安で、疲れている時、誰かが一緒に負ってくれるなら、再び立ち上がり、歩み出し、生きることができます。ガラテヤ6:2。



ガラテヤ6:1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
6:3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者であるかのように思うなら、自分自身を欺いているのです。
6:4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるでしょう。
6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。


ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

マタイ7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

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