2023年5月7日「種を蒔けば、刈り取りもする」ガラテヤ6:6〜10

序−今自然は、新緑の季節となっています。自然は、種を蒔けば、芽が出て、枝や葉が伸び、やがて実を結ぶことを見せてくれます。聖書は、農業の例えで満ちています。今日の箇所は、種蒔きと刈り取りの法則を通して、私たちの人生にも実がなることを教えてくれます。

T−種を蒔けば、刈り取りもする−6〜7節
 幸いな人生を生きるために私たちは、御言葉を食べて生きて行く者です。神様に信頼して、御言葉の通り生きて行くのです。ですから、私たちは思い違いをしてはならないし、神様を信頼しないことは神を侮ることになります。7節前半。今日も、私たちは、御言葉の素晴らしさと確かさを学び、良いものを分かち合いたいと願います。6節。イエス様を信じて救われた者に約束された人生の祝福を享受するには、どうすればよいですか。自然の法則から学びます。
 まず、学ぶべき自然の法則は、「種を蒔けば、刈り取りもする」ということです。7節後半。まず、何よりも蒔かなければ刈り取ることはできない、蒔かないといけないということです。蒔かぬ種は生えぬということわざの通りです。今日、不労所得の誘惑が多い社会です。ギャンブルや投資の誘惑が多くなり、公的な機関まで勧めています。人生においても、この「種を蒔けば、刈り取りもする」という法則を無視して生きる人々がたくさんいます。種を蒔かないのに、収穫を期待するのです。例えば、勉強しないで試験の得点を願う、仕事をしないで事業成功を期待するようなことです。
 そんな笑ってしまうようなことを、多くの人がしているのです。そんな人は、思い違いをしているのです。神を侮ることになります。7節前半。「思い違い」と訳された原語は、さまよう、外れるという意味の言葉です。法則を無視すれば、迷い、外れます。
 「種を蒔く」とは、人が継続的に行うそれぞれの行為を示しています。聖徒たちは信仰の祝福を願うのですが、御言葉通り生きようとしないでは得られません。試みや問題の渦中でも神様を信頼しないのでは勝利できないのです。信仰によって生きる生活が人生に実りを与えてくれます。
 私たちは、神様の祝福が必要です。それには私自身も最善の努力をしなければなりません。タラントの例えも、それを教えています。マタイ25:14〜30。5タント受けた人と2タラント受けた人はそれを用いて働いて収入を得ましたが、1タラントを受けた人は用いませんでした。人は神様を侮り、神様を愚かに扱ってもいいのでしょうか。1タラントを受けた者のように、種を蒔かずに狩り取ろうとしてはなりません。
 もちろん、人がどんなに努力しても、神様が恵みを与えてくださらなければ得られません。農民が耕し種を蒔いても、神様が太陽の光と雨の水を与えてくださらなければ、実らないのです。
 創世記26:12には、「イサクが種を蒔いて百倍の収穫を見た」とありますが、主が彼を祝福してくださったと理由が付記されています。百倍の収穫を見たというところに目が行きますが、イサクが種を蒔かなければ、収穫を見ることはできないのです。イサクが百倍の収穫を見たのは、神様が祝福してくださったからです。ですから、私たちは、主が実らせて刈り取りをさせてくださると信じて、一生懸命信仰の種蒔きをするのです。

U−蒔いた種と同じものを刈り取る−8節
 次の法則は、蒔いた種と同じものを刈り取るということです。8節では、「肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」と教えています。小豆を蒔けば小豆を収穫し、大豆を蒔けば大豆を収穫することです。瓜の蔓に茄子はならぬということわざもあります。蒔かなければ、刈り取りはできませんが、何でも蒔けばいいというものではありません。現在の姿は、過去に種を蒔き散らした結果です。今日は、昨日まで蒔いて来たことの結果です。ですから、何を蒔くかということが重要です。
 この自然法則をイエス様も例えに用いておられます。マタイ7:16〜18。葡萄は茨からは取れないし、無花果はアザミから取れるわけがないでしょう。良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びますと教えています。
 私たちは、どんな種を蒔いて来たのでしょうか。「肉に蒔く」とはどういうことでしょう。英語訳には、「罪の本性を喜ばす」という訳があります。ですから、罪を蒔けば滅びを刈り取ることになります。ローマ3:23,6:23。しかし、「御霊に蒔く」は、「御霊を喜ばす」ということです。御霊を喜ばすことを蒔けば、永遠のいのちを刈り取るのです。今私たちは、何を蒔いて生きていますか。その結果を後に刈り取ることになります。どんな種を蒔くかは自由です。選択肢があります。しかし、収穫は、変えられません。人生は、何を蒔くかで決まって来ます。どんな生活をするかです。
 ここに出て来る種は、2種類しかありません。人生で蒔く種は、肉に蒔く種か御霊に蒔く種です。人生の表に表れる姿は色々ですが、人が蒔く種は、肉に蒔く種か御霊に蒔く種のどちらかです。日々の生活態度、一瞬一瞬出て来る言動を気に留めることはないかもしれません。しかし、それが人生に種を蒔いていることになります。肉に蒔く種なのか、御霊に蒔く種なのか、その違いで人生はまったく違って来ます。8節。ガラテヤの聖徒たちにも、もっぱら肉に蒔いている人々と御霊に蒔いている人々がいました。イエス様を信じながらも肉の思い、罪の本性のまま生きる人々がおり、御霊に従って生きようとする人々がいました。
 肉に蒔く、御霊に蒔くというので、畑の違いであるようなのですが、やはり、種が違うのです。肉に蒔く種なのです。肉のわざのリストなどがそういう種でしょうか。御霊の実がなるようなことが御霊に蒔く種なのでしょう。ガラテヤ5:19〜23。私たちの罪の本質が変わらなければ、自然に肉に蒔き続けるでしょう。肉のわざを行い続けるでしょう。過ちや失敗に練習は必要ありません。努力をしなくても、そのままでいれば、罪の結果の実がなります。やがて、人生そのものとなります。
 一方、御霊に蒔く種は、努めて、意識して蒔く必要があります。決心して、肉に蒔くことは十字架につける必要があります。ガラテヤ5:24。御霊の導きを求めて、御霊に喜ばれることを願いながら歩みます。時に主の前に立ち、自分を振り返って悔い改め、御言葉に聞き従います。そうして行くと、天国の前味を味わうことができます。
 イエス様を信じることで、私たちは、肉に支配される者から御霊と共に生きる者に変えられました。御霊と共に歩む人生が始まりました。御霊のために種を蒔くならば、私たちは多くの祝福を受け、主に似た者となっていくでしょう。

V−時が来て、刈り取ることになる−9〜10節
 三つ目の法則は、「時が来れば、刈り取ることになる」ということです。9節。種を蒔いたなら、必ず時が来て、実を結ぶのです。穀物などは一年の中で種が蒔かれ、実り、収穫されますが、木の実であれば、種蒔きから収穫の期間は数年、10数年というスパンとなります。期間が長くなっても、時期が来れば、収穫できるようになります。私たちの人生の種蒔きも、時が来れば刈り取ることになります。ところが、この法則を無視してしまうのです。そのために、多くの人々が神様の備えてくださった祝福を受けることができません。失望し、落胆してしまいます。
 ですから、「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ」と勧めるのです。9節。ここで「善」と言っていますが、善とは、御霊に蒔くこと、信仰で良いことをすることです。御霊に蒔くことを失望し、諦めようとするとは、どういうことでしょう。自分の望む時に事がならない、つまり刈り取りができないと、失望したり、諦めたりするようになるということです。主の導きに失望し、信仰をあきらめてしまうのです。
 しかし、御霊に蒔く人は、御霊が導いてくださるまで待ちます。御霊の刈り取りを待ち望みます。長く待つことは辛いです。期待通りに進まないのは苦しいです。しかし、その労苦と犠牲は報われます。詩篇126:5。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」ことになります。主が豊かに刈り取らせてくださると信じて、御霊に蒔くことを続けるのです。御霊に蒔くとは、御霊に導かれて、御霊に従って蒔くということです。神様の時に信頼し、神様の時に自分を合わせましょう。刈り取りまで、諦めず、失望せず種を蒔き続けるのです。そうすれば、刈り取ります。
 10節では、「機会のあるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう」と言っています。私たちは、人々への信仰の証しに対する実がないことに失望したり、兄弟姉妹に仕えることに疲れたりするかもしれません。でも、私たちのすることは種を蒔くことだけです。実らせてくださるのは主です。機会あるうちに、つまり時は限られています。諦めないで、失望しないで、信仰の種蒔きを続けるのです。
 6節の「分かち合いなさい」の原語は、交わり、コイノニアの動詞です。礼拝を共にし、御言葉の恵みと適用を分かち合い、信仰生活の種蒔きを分かち合うことで、互いに励まし合うことができます。善を行い続けることができます。信仰生活は、人生に御言葉と信仰のわざの種蒔きをしているようなものです。「種を蒔けば、刈り取りもする」という御国の法則を信じて、信仰の種を蒔き続けましょう。ガラテヤ6:7。



ガラテヤ6:6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。


創世記26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。

マタイ7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

詩篇126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。


戻る