2023年5月21日「十字架以外を誇りとしない」ガラテヤ6:11〜16

序−人には、誇り、プライドというものがあり、自分の才能や業績に自信を持ち、評価を求めたり、それで品位を保ったりします。誇りには功罪があり、プラスに働く場合とマイナスに働く場合があると言います。私たちは、どんな誇りを持っていますか。プライドは、どのように働いていますか。ガラテヤの聖徒たちの中にあった肉の誇りから学びます。

T−肉のプライド、外見の誇り−11〜13節
 人は誰でも、自分が持っているものや自分がしていることを誉められたい、評価されたいと思っています。ガラテヤの人々も、そうだったようです。ガラテヤ書を書き終えようとしながら、御霊によって生きる人がどのような誇りを持って生きるのか教えています。「こんなに大きな文字で書いている」と言っています。11節。これから記すことを強調しているのでしょう。ガラテヤの教会で問題となっていたということです。
 ガラテヤ教会には、ユダヤ人の影響を受けて、割礼を受け、律法を守ることを誇る人々、肉のプライドを持つ聖徒たちがいました。12〜13節。その内容は、ガラテヤの人々に割礼を受けさせようとしたのは、肉の誇りを得るためだというのです。それも、自分が迫害されないためにしたことで、誇っているのです。完璧に極めたから誇っていたということではないのです。肉のプライドとは、そんなものかもしれません。
 彼らの特徴は、彼らは、肉において外見を良くしたい者と言われています。12節。人は、外見を気にして生きています。人にどう評価されるかということを心配しています。誇り、自慢って、何でしょうか。神様のことを思わないで人と比べると、そこから誇り、自慢が生じて来ます。もちろん、人と比べると劣等感やねたみも生じて来ます。劣等感かねたみから逃れるために、肉の自分を誇るということもあります。
 イエス様に似ていく人生、御霊に従って人生を生きるためには、どう生きなければならないのでしょうか。肉を誇る生き方、外見を誇ることでいいのですかということです。12〜13節。そういうところから自由にされて、主の与えてくださる幸いを享受できたらなと思います。
 誇りやプライドすべて悪いということではありません。自尊心とか矜持と言えば、良い印象でしょう。しかし、誇りやプライドには、虚栄心や自己顕示欲という面があります。自分を大きく見せたがり、自分を認めてもらう欲求が強いです。自分に自信がないから、虚勢を張り、自分を誇りますが、他人が認められることは嫌うのです。自分に自信のある人は、他人の評価を気にしませんし、自分をそのままさらけ出すことに抵抗がありません。見えを張ったり、自分を誇ったりするのは、コンプレックスを隠そうとしているのかもしれません。
 ガラテヤの教会で問題を起こしていた人々は、パウロに対抗して、自分を誇り、自分を大きく見せようとした人々でした。そういう人は、自分に自信がないので、外見を誇ります。現代であれば、地位や名誉、学歴や会社、肩書や家柄、衣食住についてのブランド志向などでしょうか。それで自分を飾り、自分を良く見せようとするのです。聖書で言う暮らし向きの自慢です。Tヨハネ2:16。自分を強く見せようとしますから、自分の弱さを見せたくない、自分をさらけ出すことを恐れ、自分を隠すのです。
 ここまで来るとやっかいです。その人自身も周りの人々も肉のプライドに翻弄され、時には問題が起き、傷付きます。私たちは、どうすれば、よいのでしょうか。私たちの視点が変わり、土台が変わらなければなりません。

U−主の十字架以外に誇りとするものはない−14節前半
 14節を見ましょう。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と宣言されています。イエス・キリストの十字架は、過去の間違った土台を崩して、私たちの視点を変えてくれます。十字架以外に救いの道はありません。世の誇る富や権力、名誉や幸いはすべて過ぎ去るからです。Tコリント7:31。
 人々の誇りは、愚かです。世のものがしばらく喜びや幸いを与えてくれても、やがて悲しみや苦痛になります。人の称賛と栄誉を頼りとすれば、いつか恥ずかしさと後悔でいっぱいになるでしょう。世の富と権力も、神から離れた危険と不安定が伴います。肉のプライドを周りの人にぶつければ、自分は気持ち良くても、他人の心を傷付け、人間関係は壊れます。
 肉を誇るな、自分を誇るなと言われても、何かを誇りたい気持ちがあるでしょう。イエス・キリストの十字架を大いに誇ってください。主の十字架以外に誇りとするなということは、主の十字架を誇っていい、誇りなさいということです。イエス様を信じて救われた者は誰でも、イエス様の十字架を誇っていいのです。堂々と誇るべきなのです。
 パウロという人は、ユダヤ社会においては誰よりも誇るものが多い人でした。ピリピ3:3〜6。しかし、その肉の誇りのために、教会を迫害する者になってしまいました。肉の誇りがどれほど危険であるか、身をもって体験したパウロでした。私たちも、そうではありませんか。肉の誇りのためにどんな体験をしましたか。痛みや悲しみを味わいましたか。
 そんなパウロも、イエス様に出会ってから、すべての誇りがちりあくたに過ぎないことに気づきました。ピリピ3:7〜8。クリスチャンとなった後でも、自慢して、誇ることができたでしょう。少しくらい誇ってもいいのではないかと人は思うかもしれません。しかし、パウロは、イエス様を知ってからは、それらのものはすべて損と思うようになりました。肉を誇る自分が罪人のかしらに過ぎないことを知ったからです。Tテモテ1:15。ですから、その後はただイエス様の十字架だけを誇りました。私たちは、イエス様を信じて救われた後、肉の誇りはどうでしょうか。
 私たちが注意しなければならないことがあります。以前のパウロの誇りも、ガラテヤの聖徒たちの誇りも、歪んだ信仰の熱心から生じた肉の誇りです。かつてのパウロは、律法を行う熱心は誰にも負けない自負がありました。ガラテヤの聖徒も、割礼を受け、律法を行う自分たちを誇りました。ですから、私たちも、肉の誇りは他人事ではないということです。熱心に奉仕した、信仰生活をしっかり守っているというような思いが、肉の誇りになる危険があります。奉仕する自分を誇ったり、しない人を批判するのです。私たちは、仕えることのできることを感謝すべきです。私も、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものがあってはならないのです。

V−大事なのは新しい創造です−14後半〜16節
 ですから、信じて救われた後の変化が重要です。16節。大事なのは新しい創造です。信仰は、神の救いの中で新しい自己発見です。自分の人生が神の愛と主の十字架の中にあることを発見します。イエス様に出会う以前は、自分を世の価値観によって判断していました。自分が持つ外的な条件によって自分を誇ったり、劣等感に陥ったりしていました。自分の人生が何か外的なもので決まると思っていました。時には、お金がない、能力がない、見た目がよくない、評価されていないと思って、自分を否定し、自分は不幸だと考えたりしました。
 しかし、イエス様を知った後は、そのような外的な条件は何も関係ないと分かりました。Tコリント1:26〜29。以前は土の器のような者であったとしても、今はその中にキリストの宝を入れている土の器なのです。ですから、以前は、否定し、認めていなかった自分を肯定するようになります。救われて、新しくされている自分を愛し、幸せに生きて行くことになります。
 ところが、私たちは、自分の力で肉を誇ることを止め、肉の欲を壊すことはできません。新しく創造された者は、「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」と言われています。14節後半。真の自己肯定は、十字架での自己否定が前提でなければなりません。パウロは、世の誇りを十字架につけました。主の十字架以外は誇りません。古い自分は、キリストとともに十字架につけられました。ローマ6:6。キリストとともに肉を誇る自分が十字架につけられたなら、その人は新しく造られた者です。肉を誇る古い生き方は過ぎ去り、新しくなりました。Uコリント5:17。
 パウロは、イエス様に出会った後、何も誇ることなく、イエス様の十字架だけを誇りました。それでも、例外的に一つのことだけ誇っています。それは、弱さを誇ることです。Uコリント11:30,12:5,9。肉を誇ることとは真逆のことです。人は、弱さや欠けがあるから、誇ることができず、葛藤するのではないですか。誇ることができなくて、妬みを覚え、落ち込んだりするでしょう。
 しかし、新しく造り変えられた者は、肉の自分を頼むのではなく、問題や弱さがあっても、神に拠り頼み、御言葉に信頼します。神の力は、弱さのうちに完全に現れるからです。ですから、イエス様の十字架を誇る者は、自分の弱さを誇ることができるのです。これが、福音の力です。もう、肉の誇りに囚われる必要はありません。
 神の恵みを誇り、イエス様の十字架を誇り、自分の弱さを誇る人は御霊とともに生きる人です。造り変えられて、イエス様に似て行く人生は、肉の自分には何も誇るものがないことに気付かされます。イエス様の十字架と共に死ぬとき、イエス様の中ですべての誇りがなくなり、新しい世界が開かれます。イエス・キリストの中で自分が新しくなるという変化を起こります。ですから、大事なのは新しい創造です。



ガラテヤ6:11 ご覧なさい、こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。
6:12肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。
6:13 割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。


Tヨハネ2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。

ピリピ3:7 しかし、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

Uコリント12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。

Uコリント11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

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