2023年6月4日「イエスの焼き印を帯びて」ガラテヤ6:17〜18

序−家具やインテリアなどの木製品には、作品名や製造元の焼き印が押してあるものがあります。その昔、家畜や人にも焼き印が押されていました。今日の箇所に「焼き印」という言葉が出て来ます。ガラテヤ書の最後になっている所で記されているのは、きっと大切なことなのでしょうが、なぜこんな言葉が出ているのでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。

T−イエスの焼き印を帯びている−〜
 17節を見てください。「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのです」と記しています。どうして突然こんな話をするのでしょうか。すぐ前に割礼のことが出ていました。ユダヤ人がガラテヤに来て、イエス様を信じただけは足りない、割礼を受け、律法を守らなければならないと言って、割礼を受けさせ、聖徒たちもそれを誇っていました。パウロが、彼らがそんな体の傷を誇るのに対して、私はイエス様の焼き印を誇ると言っているようです。
 「焼き印」と訳された原語スティグマとは、家畜や奴隷の皮膚に焼付けられたブランドマークであり、特定の所有者のものであることを証明したものです。奴隷としての焼き印、しるしなど消してしまいたい忌まわしいものでしょう。ところが、パウロはそれを帯びていると言うのです。「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と誇っているのです。
 聖書では、マーク、痕跡とも訳されます。つまり、パウロは、自分はイエス様のしるしが付いていると言っているのです。イエス様のしるしって何でしょう。何かパウロの体に、イエス様が十字架刑を受けた時の傷、手と足の釘の痕や脇腹の槍の痕があったのでしょうか。何をもって、イエスの焼き印、痕跡というのでしょうか。
 一つは、パウロの宣教の生涯における迫害や苦難の傷や痛みだと言われています。パウロの背中には、イエス様のように鞭打ちの傷痕がたくさんありました。パウロは、福音を伝える生涯において数多くの苦しみと痛みを受けました。Uコリント11:23〜28。何度も鞭打たれ、投獄され、殴られ、石打ちにされました。傷だけでなく、病気にもなりました。宣教の旅は危険が多く、飢え渇き、寒さに凍え、船が難破し、一週間海を漂ったこともありました。悩みや苦しみで眠られぬ夜も過ごし、教会への心遣いも多くありました。
 イエスの焼き印とは、まさに主の働きのために受けた肉体の傷、心の痛みだったのです。これらは、パウロの信仰の生涯そのものでした。怪我や病気、精神的な労苦も、イエス様の焼き印だったのです。私たちの信仰の生涯においてどんなイエス様の痕跡があるのでしょうか。私たちの傷や病気、悩みや苦しみもイエス様の痕跡、焼き印であるなら、どのように受け止めますか。以前のように、恥ずかしいもの、苦しいだけのものではなくなるでしょう。私たちの人生における傷や心の痛みも信仰によって受け止めるようになるなら、きっとイエス様の焼き印となるでしょう。
 もう一つは、「肉体のとげ」のことだと言われています。Uコリント12:7。パウロには、生涯続く痛みがありました。この病気を治してくださいと繰り返し、切々と祈りました。でも、癒されませんでした。生涯その病気を持ったまま生きました。その代わり、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。Uコリント12:8〜9。
 しかし、そこからパウロは大切なことを悟りました。「私の弱さに神様の力が働き、私の弱さを覆ってくださるのだ」と分かりました。とげにさされるような痛みがあったけれども、その弱さに働く神様に支えられて働きました。肉体のとげを思うたびに、イエス様の十字架を思い出しました。自分を救うために十字架にかかって死なれたイエス様を思いました。
 何が自分の弱さ、痛みでしょうか。肉体的な弱さもあります。物質的な弱さ、精神的な痛みもあるでしょう。私たちも、パウロのようにイエス様を思いたいのです。私たちが弱さのためにイエス様を思い、十字架を考え、ますます信仰で生きて、イエス様に似た者となっていくならば、それが私たちにあるイエス様の焼き印、痕跡となるでしょう。自分の弱さが信仰に生きるようにさせるなら、パウロのように弱さを誇れるでしょう。弱さは、恥ずかしいもの、隠したいものではなくなります。

U−キリスト・イエスのしもべ−〜
 焼き印は、奴隷の持ち主をあらわすものでした。ですから、パウロが「私はこの身にイエスの焼き印を帯びている」と言っているのは、「私はイエスの奴隷だ」と言っていることになります。パウロが、福音のために受けた傷や苦しみ、イエス様の焼き印は、自分がキリストの奴隷であることのしるしだというのです。イエス様が自分の主人だと言うのです。
 パウロも、自分を紹介する時、「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と言っています。ピリピ1:1。しもべと訳されているので、実感がないですが、原語はドゥーロス、奴隷です。「キリスト・イエスの奴隷であるパウロ」と自分を紹介しているのです。奴隷がどんな存在であったか考えてみてください。奴隷とは、主人の所有物であり、徹底して主人に隷属している存在です。自分の物は何一つなく、何の自由もなく、運命は主人に握られています。パウロが自分をそんな悲惨な奴隷であるというのを聞いた人々は、驚きとともに、そこに深い意味を感じたことでしょう。
 パウロは、自分を徹底的にイエス様のしもべ、奴隷であると認識しているからこそ、この「私はイエスの焼き印を帯びている」という表現を使ったのです。これは、パウロだけでなく、イエス様を信じて救われた私たちもそうです。私たち一人一人が、主のしもべ、キリスト・イエスの奴隷です。Tコリント4:1。ガラテヤ書は、福音による自由を教えていますが、その自由は好き勝手な自由ではなく、罪の奴隷、律法の束縛から解放されたが、キリストの奴隷となる自由でした。
 確かに、私たちはイエス様の十字架によって罪赦され、罪と死の奴隷から自由になりました。古い自分は死んで、新しい命で生きています。ガラテヤ2:20。しかし、同時にイエス様のしもべ、奴隷となったことを忘れてはなりません。これは、イエス様の十字架によって与えられた愛と恵みによることです。どうして、信仰生活に葛藤が起こるのでしょう。なぜ、信仰生活に力や恵みがないのでしょう。
 問題は何でしょう。果たして、私たちは、パウロのようにキリストのしもべ、イエス様の奴隷として生きているでしょうか。はっきりと、「私はイエスの焼き印を帯びています」という自己認識を持っているでしょうか。私たちがイエス様の焼き印を帯びているなら、世の人々は、私たちがイエス様の奴隷であり、徹底的にイエス様に従う存在であると見るはずです。問題は、ここにあるのです。
 勘違いしないでください。好き勝手にして、思い通りなることを望むという姿は、奴隷の姿ではありません。徹底的にイエス様の奴隷として、御言葉に従って行くならば、神様は私たちを徹底して守り、愛して、導いてくださいます。それが、主人の務めだからです。主であるイエス様が身代わりに十字架にかかってくださったのではありませんか。私たちは、十字架の恵みを悟らなければなりません。そうすれば、喜んで主のしもべとして生きることになります。

V−私を煩わさないように−
 パウロは、自分はイエスの焼き印を帯びているキリスト・イエスの奴隷であるから、「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください」と宣言しています。17節。ガラテヤの聖徒たちへ言っているだけでなく、世の人々に対しても、サタンに対しても宣言しているのです。奴隷の焼き印によって主人がはっきりしていれば、別な主人の所へ連れて行かれることはありません。さまよっていれば、主人の所に連れ戻されます。焼き印がその奴隷をあらゆるトラブルや妨害から守ってくれるのです。そういう意味で、私の主人はイエス様なのだから、今後は誰も私を煩わさないでくれと言うのです。
 奴隷とかしもべとかいうので、何か不自由で束縛されているようなイメージを持つかもしれません。しかし、私たちがキリストのものであり、主の奴隷であるというしるし、表示によって世の悪しき影響や人の妨害から守られるのです。イエス様の奴隷だと自覚し、徹底して主に従って行くなら、人々から悩まされること、不必要な問題に巻き込まれること、些細な煩わしさから守られるでしょう。
 パウロは、コリントの聖徒たちに、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。」と言っています。Tコリント7:23。代価って何ですか。イエス様の十字架という尊い犠牲でもって買い取られたのではありませんか。人の声に煩わされないでください。あなたの主人はイエス様です。神様を喜ばせるために生きてください。あなたは、イエス様のしもべなのですから。
 確かに、世に生きていれば、煩わされることがたくさんあります。惑わされることもしばしばです。そこで私たちがするべきことは、自分がイエス様のしもべであることを自覚し、徹底して御言葉に従って生きて行くことです。ガラテヤ6:17。



ガラテヤ6:17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。
6:18兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。


Uコリント11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

Uコリント12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ピリピ1:1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。

Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。

ガラテヤ2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

Tコリント7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

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