2023年7月2日「ご自分を隠す神」イザヤ45:9〜15
 序−私たちは人生で様々な問題に出会い、恐れや悩みの中にある時、神様が隠れているように思うことがあります。そのような時、神の民は、「なぜ、私たちが苦しむようにされたのですか、どうして放っておかれるのですか、神は愛なるお方、全能なる方ではなかったのではありませんか」と叫びました。そして、思うようにならず、願っても答えられないと思うと、「神様は隠れておられる」としか、思えなくなります。

T−なぜ苦しみの時に、身を隠れておられるのですか−15,9〜10
 もとより、神様を信じている者は、神の臨在の中で生きる者です。皆さんは、神の臨在を経験しておられますか。神様の臨在をなぜ経験できないのかを学び、神様の臨在を経験しながら祝福を味わう聖徒となることを願います。信仰生活をしながら、神の臨在を覚えることができず、神様が隠れていると思うのはなぜでしょうか。
 預言者イザヤも、神について「あなたはご自分を隠す神」と言っています。15節。ユダの民にとって、国が滅ぼされ、民がバビロンに捕囚とされると聞いて、呻き、崩れてしまいました。絶望の深みに沈みました。私たちも、次々と問題が起こる、何もかも失ってしまう、まったく希望が見えない、そんな状況に陥ることがあります。願っていた通りにならない、ことごとく閉ざされてしまうと、人は酷く落ち込んでしまいます。否定的にしか考えられなくなります。
 そんな時、ユダの民は、神様が隠れておられると思い、神様に文句を言い、抗議しました。詩篇を見ると、切実に神様の助けが必要な時、「なぜ苦しみの時に、身を隠れておられるのですか。いつまで私をお忘れになるのですか」と神の民が叫んでいます。詩篇10:1,13:1。「御顔を私に隠さないでください。見放さないでください。見捨てないでください。」と祈っています。詩篇27:9。私たちも、苦しみと悲しみの中でそのように叫んだことがあるでしょう。
 そんな神の民の訴えに対して、神様はこう答えられました。9〜10節。9節の陶器のたとえが面白いです。粘土が陶器師に「何を作ろうとするのか」とか、「あなたの作っているのは不恰好ではないか」などと文句を言えますかというのです。「なぜこんな器に造ったのか」と言う者は、神に言い逆らう者と言われています。ローマ9:20。自分の思うとおりにならないからと文句を言うのは、あたかもこの粘土のようなのです。
 10節のたとえは、ぐっと現実味を帯びたシリアスなものです。「なぜ、私を産んだのか。どうして私を育てたのか」という文句や抗議は、現代も聞かれることです。私たちはどうでしょうか。心に痛みの残ることです。私たちが神様に愚かな文句や抗議をしたなら、私たち愛して育んでおられる神様は、悲しまれたことでしょう。
 私たちは、神によって造られた被造物であることを忘れてはなりません。土の器が陶器師に「何を作るのか、なぜこのように作るのか」と尋ねることは、神様を自分の統制下におこうとする傲慢な姿です。私たちが神様の愛と全能さを疑うのは、高慢です。高慢の逆は謙遜です。謙遜の英語の語源は、ラテン語の「土」から来ています。自分は土の器に過ぎないと悟るのが、謙遜なのです。私たちは、自分ではどうにもできない苦難に出会う時、自分は限界を持つ被造物であると悟るのです。そして、造ってくださった神様を覚えるのです。

U−神様に信頼し、神様に委ねる−11〜14
 神に文句を言い、抗議する者は、神様に熱心に祈り求めたとしても、実は、神に命令しているのです。11〜12節。熱心に祈っていたとしても、神に自分の言うことを聞かせようとしているだけなのです。私たちは、被造物です。神様に命令する態度を捨てなければなりません。神様に信頼し、神様に委ねなければなりません。人は、自分中心になると、何とかして周りの人々を動かし、神様にまでも命令し動かそうとします。
 神の被造物である私たちは、神の御心を信頼し、神の方法に委ねなければなりません。「これから起こる事をわたしに尋ねよ」と言っています。私たちは、将来のことを神様に委ねなさいということです。
 「御顔を私に隠さないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。」と切実に祈る神の民に対して、神様はご自身の計画を教えてくださいました。13〜14節。神様は、「わたしが彼を奮い立たせ、わたしの捕囚の民を解放する」と答えてくださいました。
 それは、願いと思いをはるかに越えた方法でした。「彼」とは、キュロスのことです。イザヤ45:1。それは、前回学んだように、ペルシア帝国の王キュロスUを用いてバビロンを倒させ、オリエントを支配させることです。それが、ユダの民をバビロン捕囚から解放する方法でした。キュロス王は、バビロンを征服した後、ユダの民をエルサレムに帰還させ、神殿を再建するようにさせました。エズラ1:1〜3。驚くべき方法です。これは、歴史的事実です。
 ユダの民は、自分たちがバビロンを倒して、エルサレムに帰ることを考えたでしょう。また、大金を払って、賄賂を使って解放してもらうという方法も、あったのでしょう。しかし、神様の方法は、異邦人であるキュロス王を立てて、用いることでした。キュロスが命令を出して、ユダの民を帰還させたのです。エズラ1:1。私たちの信じている聖書の神様は、すべてのことを働かせて益としてくださるお方です。ローマ8:28。
 この神様を信じてください。神を信頼して、神に委ねなければなりません。安直に因果応報に思わないでください。誰でも、厳しい状況になる時があります。運が悪いと言わないでください。問題に遭うから悪いのでもありません。意味がある問題があり、乗り越えるべき問題もあるのです。私たちの人生の主管者は、天地を造られた神様です。歴史も支配され、王様をも用いられるお方です。
 私たちの周りにも、キュロスはいます。優れた人、能力のある人、親切な人がいます。怖い人、強い人、苦手な人であっても、神様が自分のために用いてくださるなら、その人はキュロスです。大事なことは、私たちと神様の関係です。私たちが神様を信頼して、委ねるなら、神様はすべてのことを働かせて、益としてくださいます。実際に、私たちは多くの世のキュロスに助けられて来ました。様々な出来事が私たちにとって益となりました。思いも寄らぬことを用いて、益としてくださったに神様に感激し、感謝しましょう。
 神様の驚くべき計画と愛を悟り、神様を信頼し、神様に委ねて行くことを知ることが、神様の祝福を受ける秘訣です。

V−救い主として現れた神−イザヤ53:1〜6,
 15節で、「救い主よ。まことに、ご自分を隠す神」だと言うのですが、本当に隠れておられる方なのですか。聖徒たちには現れないない神なのですか。いいえ、現れてくださいます。イザヤは、救い主の現れることも預言しています。イザヤ53:1〜6。
 救い主として神様が現れるのは、人の予想では信じ難い、聞いたこともない方法で現れると預言しています。何と、神様が人の姿を取って、それもしもべの姿を取られるというのです。33年の地上の生涯は、人々に仕え、人々の罪をその身に負って、十字架に付けられ、苦しみ、死なれました。このお方が、私たちの救い主であるイエス・キリストです。
 これが、神様の取られた救いのご計画、たましいを救う方法でした。救い主である神様が人となって世に来られました。人々からさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていました。それゆえ、私たちの病を負い、私たちの痛みを担いました。イエス様は、私たちのそむきの罪のために十字架につけられ、私たちの咎のために苦しまれました。私たちの身代わりが十字架だったのです。
 なぜ、そのような現れ方をされたのですか。私たちを罪と滅びから救うためです。のろわれた者がかけられる十字架にかけられましたが、その死から復活されて、信じる者に罪の赦しと天国への命を与えてくださいました。土の器である私たちが創造主なる神様に命令しようと高慢になっているのに、栄光の神様が、その栄光を捨てて、しもべの姿を取って世に来られ、私たちのために十字架にかかれたのです。感謝して、救い主と信じるほかないではありませんか。
 イエス様の十字架の前に出てください。自分の身代わりである十字架上のイエス様を覚えてください。私たちの心にはっきりと愛に満ちた神様が現れます。御言葉を持って黙想してください。心に神様の臨在を覚えることができます。御言葉に聞き従って生きてください。神様と共に生きることができます。
 今問題に苦しめられていますか。困難な状況を嘆いていますか。でも、神様は、そんな私たちのもとに来てくださいます。神様を信頼して、神様に委ねてください。苦難の中に隠れておられる神様を見つけることができます。苦難は、神様の臨在を覚えることができる機会です。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じて、神様に聞き従って行きます。ローマ8:28。



イザヤ45:9 ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を陶器を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には手がついていない」。
45:10 わざわいだ。自分の父に「なぜ、子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言う者。
45:11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、【主】はこう言われる。「これから起こる事を、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、わたしの手のわざについて、あなたはわたしに命じるのか。
45:12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。
45:13 このわたしが義をもって彼を奮い立たせ、彼の道をみなことごとく平らにする。彼がわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、賄賂によってでもない。万軍の【主】は言われる。」
45:14 【主】はこう言われる。「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなた後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」
45:15 イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神。


詩篇10:1 【主】よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。

詩篇13:1 【主】よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。

詩篇27:9。どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。

ローマ9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

イザヤ53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。




戻る