2023年7月9日「わたしは主、ほかにはいない」イザヤ45:16〜25

序−アイドルというと、歌手やタレント等を思い浮かべると思います。アイドルとは、偶像、崇拝されるものから転じて、いわゆるアイドルに用いられるようになりました。聖書は、アイドル、偶像を崇拝するのではなく、まことの神を礼拝することを教えています。

T−偶像は恥を見させ辱めを受けさせる−16〜17,20
 聖書の神様は、ご自分の形状を示されませんでした。一方、古代ではもちろん、現代でさえも偶像はたくさんあります。偶像って言っても、木や石で作ったものばかりではありません。その人が神のようにしているものです。例えば、拝金主義、お金がその人の偶像になっています。もちろん、お金や何かを大切にするのがいけないのではありません。それに囚われて、まことの神様以上に絶対視し、優先してしまうならば、それが偶像です。お金こそすべてと思っている人は、偶像崇拝になるでしょう。
 ですから、時にはタレントやゲーム、地位や名誉欲、恋愛や仕事でさえも偶像になってしまいます。強い魅力があり、「〜こそすべて」となってしまうからです。偶像化してしまうものは、私たちの生活の身近な所にあります。あなたにとって、偶像は何ですか。あなたの偶像化しているものが何かありませんでしたか。
 では、偶像に囚われるとどうなるのでしょうか。16節。偶像を作って拝む者は、恥を見て、辱めを受けると言っています。偶像化されたもののために生活が乱れ、人間関係が壊れ、人生が破綻するなどが起こるからです。タレントやゲームに囚われて生活が破綻したり、偶像化した地位や仕事のために人を裏切り、悪いこともしてしまいます。ですから、本当に注意しなければなりません。
 ユダの民がバビロンに捕囚になってしまったのも、偶像崇拝のためではないですかと言っているようです。神の民でありながら、周りの偶像崇拝の国々の影響を受けて偶像崇拝を取り入れ、神信仰を失ってしまい、結局国が滅び、捕囚となってしまいました。20節を見ると、偶像を拝む者は、偶像を担ぐ者、救えもしない偶像に祈る者ということです。
 どうすれば、恥を見ないで、辱めを受けることがなくなるのでしょうか。17節。ここで言うイスラエルとは、神様を信じる神の民のことを言います。神を信じている者は救われ、永遠の救いに入れられると言っています。福音は、神の御子イエス様を信じることによって救われると教えています。ローマ10:9〜10。イエス・キリストを信じるとは、イエス様の十字架の犠牲が自分の救いのためだと信じるのです。Uコリント5:21,Tペテロ3:18。イエス様を信じて救われた者は、天国に入れていただけるのです。
 何かの功績や修行などを求められていません。ただ、イエス様が自分の罪や滅びを身に負って十字架にかかられた、私のために犠牲となられたと信じるだけなのです。簡単なので、信じられませんか。それとも、偶像をたくさん拝んで、たくさん捧げたら救われるのですか。

U−わたしのほかに神はいない−18〜21
 偶像崇拝がいけないのは、人の手で作った物を拝んでも、救われず、恥を見るだけだという理由だけではありません。イザヤ44:10〜11。18〜21節を見てください。まず、「主なる神は、天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方だ」と言っています。聖書の神は、天地創造の神、万物の造り主だということです。「神々がたくさんあるように見えても、2種類の神しかいない。それは人間を造った神と、人間が作った神だ」と言われています。偶像と言われる神は、人が作った神ですが、創造主なる神は、人を造られた神です。
 聖書の神様は、まことの神であり、「正義を語り、公正を告げる方」です。「これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたお方」です。つまり、聖書、御言葉を通して語り、教えてくださるお方です。偶像は何かを教えてくれましたか。いいえ、何も教えてくれません。人が自分の願いをぶつける対象であるだけです。聖書は、神について、救いについて教えているだけでなく、人とはどういう存在か、私たちの具体的な生活、家庭とは、仕事とは、学びとは何かということまで教えています。ですから、人生はどう生きるのかについて教え、注意や警告もし、その時々の適用まで導いてくれます。仕事で悩みがありますか。家庭や人間関係の問題をかかえていますか。その一つ一つに聖書の御言葉は導きを与えてくれます。
 そして、聖書の神とは、唯一のまことの神であるという特徴です。「わたしは主、ほかにはいない」ということを繰り返し、語っています。なぜでしょう。神の民が、偶像を拝んで、恥を見、辱めを受けていたからです。バビロン捕囚となったからです。神の民も、初めは、まことの神を礼拝していたのですが、周りの偶像の民の影響を受けて、偶像も一緒に拝めは、もっとご利益があるくらいで行い、やがて、神を忘れ、背を向けてしまいました。ですから、「わたしは神、ほかにはいない。わたしは主、ほかにはいない」と繰り返し教えています。
 「わたし以外に、ほかの神々があってはならない」というのが、有名な十戒の第一戒です。出エジプト20:3。ところが、この聖書の教えが、排他的だ独善的だとしばしば批判を受けます。これには、誤解もありますし、クリスチャンも気をつけなければならないことがあります。クリスチャンが反省しなければならないことは、他の宗教に対して反発し、対立的な態度を取ることが、この第一戒を守ることだと誤解していることです。
 そんな他宗教に対する排他性ではなく、私たち自身の中に内在した欲望に対する排他性について命じられた御言葉です。「わたしの以外に、ほかの神々があってはならない」と言っているだけです。まことの神だけを礼拝しなさい。そのためには、自分の欲のために偶像を生み出さしてはならないということです。
 十戒の序言を見ると、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した、あなたの神、主である」と言っています。出エジプト20:2。だから、わたし聖書の神だけを礼拝しなさいと言われたのは、当然ではないでしょうか。あなたを導き出した神、あなたを救った神なのだから、「わたしが神だ。ほかにはいない」と言われて当然なのです。恋愛で考えてみましょう。人が異性を愛する時、自分の全存在をかけて、その人だけ愛します。そうだからと言って、他の男性や女性を憎んだり、攻撃したりするでしょうか。愛するその人に向かう心が大切であるように、聖書の神に向かう心が大切であり、そのまことの神の御心に沿って生きることが何よりもうれしいのです。
 私たちはどうですか。聖書の神様に対してこのような思いですか。自分勝手な欲のために神様を偶像のようにしていませんか。自分を愛して、救ってくれた神に感謝して、神だけを礼拝し、神の御心に叶うように生きたいのです。

V−神を仰ぎ見る、神に立ち返る−22〜25
 「わたしが正しい神、救い主、わたしをおいてほかにはいない」と言われる神は、私たちに何を求めておられるのでしょう。偶像に囚われないためには、どうすればよいのでしょう。22〜25節。救われた聖徒たちが、なぜ平安を味わい、喜びの生活を享受できないのでしょうか。恐れと不安、悲しみと挫折の中にいたくないです。平安と希望がほしいです。22節。神様は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」と言っています。皆さんは、誰を見つめていますか。何のことをいつも思っていますか。
 「主を仰ぎ見る」ということは、神様のことを考えることです。主の御前に出ることです。主の前に出たら、人はどうなるのでしょう。Tテモテ1:15。イエス様は罪人である自分を救うために来られたと分かります。自分は自分ではしたくない罪を犯している惨めな人間であり、救われなければならない者だと自覚するのです。ローマ7:15,24。マルティン・ルターは、ある時自分が罪人であることを痛感して、紙に罪のリストを書いてみました。そのリストを見て悲惨な思いになりましたが、だからイエス様の十字架の血で救われなければならなかったのだと感謝しました。私たちも、十字架上のイエス様を仰ぎ見て、自分の悲惨な罪を覚え、イエス様の犠牲に感謝しましょう。そして、イエス様を信じてください。
 「仰ぎ見なさい」と訳された原語を調べると、「向きを変える」という言葉です。だから、「仰ぎ見なさい」と訳されているのですが、「立ち返りなさい」とも訳されています。英訳では、「立ち返りなさい」の方が多いです。神様に立ち返る者に、神様に立ち返る家庭に祝福があります。神様に立ち返る社会、神様に戻ってくる民に未来があります。 神様に立ち返る道だけが私たちの生きる道であり、神様の祝福を受ける道です。
 私たちは、時として主を仰ぎ見ないで自分だけを見つめます。聖徒たちが、悲しみ苦しんだり、失望落胆したりするのは、見つめなければならない主を見ずに、自分を見つめるからです。イエス様を見てください。私たちのために十字架に苦しみ、死んでよみがえり、救いを成し遂げてくださいました。主を仰ぎ見て主に立ち返るのでなければ、日々の問題の中で苦しみ悲しみ、失望落胆することでしょう。今問題に出会って痛み、落胆しているなら、主の前に出て、主を仰ぎ見てください。主に立ち返ってください。ヘブル12:2。



イザヤ45:16 偶像を細工する者どもはみな恥を見、辱めを受け、彼らとともに、辱めのうちに去る。
45:17 イスラエルは【主】によって救われ、永遠の救いに入れられる。あなたがたは恥を見ることも辱めを受けることもない。永遠に至るまで。
45:18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住むところとして形造った方、まことに、この【主】が言われる。「わたしは【主】、ほかにはいない。
45:19 わたしは隠れたところから、闇の地の場所で、語らなかった。茫漠としたところで、ヤコブの子孫に「わたしを尋ね求めよ」と言わなかった。わたしは【主】、正義を語り、公正を告げる者。
45:20 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。
45:21 告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、【主】ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。
45:23 わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべてのひざはわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、
45:24 わたしについて、『ただ、【主】にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。
45:25 イスラエルの子孫はみな、【主】によって義とされ、主を誇りとする。」


Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

出エジプト20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した、あなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたしの以外に、ほかの神々があってはならない。

イザヤ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

ローマ7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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