2023年7月23日「生まれる前から年をとっても」イザヤ46:1〜4

序−人生にはいつ何時何が起こるか分かりません。それで、社会には保険というものがあり、人々は何らかの保険に入っています。学資保険や疾病保険など色々あります。今日の箇所には、そのような保険が記されています。救われた人生とは終身保険のようだと知ることができます。

T−荷物として運ばれる偶像−1〜2
 今日も偶像のことが入ります。古代人は、戦争で勝った国の偶像が強いと思っていました。ユダを滅ぼし、その民を捕囚としたバビロン帝国の偶像は、盛大に崇拝されていました。ところが、ペルシャ帝国のキュロスによってバビロンが滅ぼされると、その偶像も破壊され、捨てられました。エレミヤ50:2 。他の民族も、偶像崇拝をすれば滅びると、エレミヤの預言は教えています。今日の箇所では、偶像とまことの神を比べています。1〜2節。この場面は、撤去される偶像を表現したものです。ベルとはバビロンの最高神マルドクのことで、ネボは、そのマルドクの息子です。
 バビロン帝国で崇められていたベルやネボはどうなりましたか。その独特の表現に注目しましょう。偶像は、話したり、動いたりする存在ではなく、木や石で作られた像にすぎません。倒されたら、倒れて屈んだままになっています。偶像とは、人が木を切り出して、たきぎとし、残りを刻んで像を作り、その像に対して、自分を救えと言ったものです。イザヤ44:14〜17。結局、偶像崇拝とは、ご利益信仰のように拝んでいたにすぎません。
 何かを偶像とすることは、愚かな行為です。最高神と言われた偶像も、家畜に運ばれ、家畜のお荷物になるのです。人が何かを自分の偶像としたならば、自分にご利益をもたらすものとしてそれに頼るのですが、それは話すことも動くこともなく、結局自分のお荷物になるしかありません。何かを偶像として人生を歩んでいるなら、それを自分で担い、運んでいるのです。重いです。自分で歩むだけで大変なのに、余計な荷物を抱えて歩むのです。だから足取りは重くなり、辛くなります。

U−神様に担われ、運ばれる神の民−3〜4
 一方、そんな偶像と、聖書の神、まことの神を比べています。3~4節。まことの神様が、神の民を担ぎ、運ばれるというのです。驚くべきことです。人が作り、家畜に運ばれる偶像とまったく逆です。人は、神によって造られ、神によって担われ、人生を運んでいただく存在なのだということです。この聖書の神観は、人の存在観をまったくひっくり返すものです。私たちは、ひとりで人生を歩んで来たかのように錯覚します。ひとりで騒ぎ、神に祈りながらひとりでもがいています。人生を振り返り、どうして乗り越えて来られたのか、なぜ今こうしていられるのか考えるならば、不思議であり、神様の守りと導きを思わざるを得ません。
 「砂の上の足跡」というお話をご存知でしょうか。
 ある人が夢を見ました。神と並んで浜辺を歩いており、空の向こうには、自分のこれまでの人生が映し出されました。砂の上にはふたりの足跡、神と自分の足跡が残されていましたが、ひとりの足跡しか残っていない場所がいくつもあることに気付きました。しかも、それは自分の人生の中でも、特に辛く、悲しい時でした。その人は悩んで、神に尋ねました。「神様あなたは、ずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられたのに、人生の最も困難な時はいつもひとり分の足跡だけではありませんか。私が一番にあなたを必要とした時に、あなたは私を見捨てられたのですか」と。神は答えられました。「わが子よ。 わたしはあなたを愛している。 あなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に、ひとり分の足跡しかないのは、その時わたしがあなたを背負っていたからです」と。
 4節の後半では、「なお、わたしは運ぶ。背負って救い出す。」と約束しています。私たちが人生の苦難や問題に翻弄され、信仰が揺れ動いてしまうのは、自分の信念に信仰の基を置いているからです。うまく行っている時、何でもない時は熱心であっても、問題や苦しみがやって来れば、簡単に揺れ動き、あっという間に悩み、憂いに沈んでしまいます。私たちの肉の熱心や力は、不安定であり、気分次第です。気まぐれです。
 信仰の救いの基盤を自分においているなら、揺れ動かされるしかありません。神の御子が世に来られて、自分の罪と滅びのために十字架にかかり、苦しみ死なれたことを信じて、告白したから、救われました。ローマ10:9〜10。救いは神様の恵みに基づいたものです。自分自身の何かで救われたのではなく、救いは神様からの一方的な恵みであるから、感謝するのです。
 私たちは、往々にして、自分が熱心に信仰しなければだめだ、熱心に行動しなければ恵みを受けられないと思います。熱心は悪いことではないのですが、自分の熱心に拠り頼むとなれば、たとえ熱心に伝道したとしてもパリサイ人のようになってしまいます。
 神様が私たちを担い、運んでくださるのです。「人がその子を抱くように、荒野では主があなたを抱かれた」と教えています。申命記1:31。人生途上苦難に襲われ、たとえ自分の歩みが止まったとしても、動けずに自分が置かれたままだとしても、終わりではありません。主が私を愛し、抱いてくださいます。私を背負い、運んでくださいます。苦難から回復して、癒されたなら、またイエス様とともに歩むようになるでしょう。
 エジプトから神の民を救い出してくださったように、バビロン捕囚からも神様の熱心が民を解放してくださいます。イエス・キリストによる救いも、神様の一方的な恵みの結果です。ローマ2:5,8。イエス様を救い主と信じるだけで、天国に入るまで変わりなく、ずっと導いてくださいます。背負い、運んでくださいます。私たちの人生にはどれほど問題が起こるのでしょうか。その中でも守ってくださいます。勝利の保証をしてくださいます。ヨハネ16:33。

V−生まれる前から、年をとっても−3〜4
 「胎内にいた時から担がれた者よ。あなたがたが年をとっても、白髪になっても、わたしは背負う」というのは、とても詩的な表現です。感動的すらあります。長い信仰生活を生きて来た者にとって、感謝が湧き出てくる表現です。詩篇71:6。「生まれる前から、年をとっても」その神の民の人生を、イエス様を信じた聖徒たちの地上の生涯を、その初めから終わりまで、神様が背負って、運んでくださるというのです。
 直接的にはイザヤを通してユダの神の民に対する約束ですが、イエス様を通して救われた私たち一人ひとりも生まれた時から背負ってくださり、年を取ってもその人生を神様が運んでくださるという約束です。何と素晴らしいことでしょうか。私たちの生涯は、神様に背負われ、運ばれるものです。「私たちが神様に背負われる、運ばれる」というのは、神様が私たちの人生に意味と根拠を与えてくださる方だということです。「担がれる、背負われる」と言っても、私たちが何もしないというのではなく、私たちの人生の最終的な拠り所、保証が神様にあるということです。
 人は、若いうちはあれこれ自分ができると思い、実際にできることが多いです。社会での仕事や責任を通して、自分が何かを担っている、背負っているということを自覚し、人生の意味を見出すこともできます。しかし、年を取って来ると、若い時のようにはできなくなります。やって来たことを徐々に減らし、したいことも断念し、手にしていたことも手放すようになります。そのような時、自分が何かを担っているという所に人生の意義を見出していたら、責任を担うことがなくなった時点で、自分の人生の意味を見出すことができなくなり、自分は必要のない者だという思いにさいなまれるようになるでしょう。
 しかし、できることがなくなり、すべて取り去られた時こそ、自分は生まれた時から造り主なる神様に担われ、運ばれて来た存在なのだ、ということをよく知ることができるのです。老年になって、段々と体力が落ちて来て、以前のようには出来ないことが増えて来た時、神様に担われ、運ばれるという信仰があるなら、どれほど慰めと平安が与えられることでしょうか。老いの現象ばかりに目を奪われるのではなく、天の御国を見つめながら、しっかり歩んで行けるのではないでしょうか。
 神様に担われ、運ばれると言っても、何もできなくなることではありません。今まで信仰で生きて来たことにますます磨きがかかり、神の愛と救いの恵みをあらわして生きることができます。周りの人々のことを考えて、信仰の助言や励ましを与えることができます。詩篇71:17。たとえ何もできないと思っても、とりなし祈ることができます。長い信仰生活で裏打ちされた祈りです。
 もちろん、体力は衰え、できなくことが多くなりますから、助けられることも増え、支えてもらうことが必要になって来ます。でも、本来神に担われ、運ばれている人生なのですから、謙虚に世話になり、素直に感謝して助けてもらいます。イエス様にある愛の共同体とは、自分ができることは人々に仕えて、用いてもらうのですが、自分の及ばない所では助けを快く受け、支えてもらうものです。
 4節後半には、「わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぶ。背負って救い出す」とあります。私たちを造られた神様によって、生まれた時からずっと天の御国まで背負って、運ばれる存在であることを知る者は幸せです。イザヤ46:4。



イザヤ46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた獣の重荷となって運ばれる。
46:2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身ととなって行く。
46:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいた時から担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぶ。背負って救い出す。


エレミヤ50:2 「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは捕らえられた。ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた。』

申命記1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。
1:31 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、【主】が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

詩篇71:6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
71:9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。



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