2023年9月3日「錬ったが、銀のようにではない」イザヤ48:1〜11

序−聖書に出て来る神の民は、頑なであり、うなじのこわい民と言われています。なぜ、そのように言われたのでしょうか。そんな民がどうして神の民でありえたのでしょうか。今日の箇所に、そのことが教えられています。それを通して、私たちへの適用を学びます。

T−頑なであり、うなじのこわい民−〜
 48章は、「シャマー、聞け」という神の民への呼びかけから始まっています。1〜2節。神の恵みによって神の子どもとなっていながら、真実さも正義もないと言われています。当時の神の民に対して、三つの呼び名が記されています。ヤコブとはアブラハムの孫で、12部族の元になった人です。ずる賢い人でしたが、兄ではなく弟であるヤコブが相続の祝福を受けました。ヤコブという名は、神の恵みがなければ望みのない者だったということ教える名前です。私たちも、ヤコブです。私たちは、一方的に神に選ばれ、恵みによって救われた者です。エペソ2:5,8。
 このヤコブが、神と格闘してももを打たれた時、イスラエルという名を与えられました。創世記32:28。自分には何もないことを悟り、ただ神の恵みで生きてみようと祈りの中で変えられたからです。ヤコブとイスラエルという二つの名前は、信仰が確実に変えられることの証拠です。神の偉大さと自分の悲しみを悟るほど、信仰は成長します。
 「ユダの源から出て」というユダとは、ヤコブの四男で、このユダ部族からダビデ王が出て、その子孫に救い主が生まれると預言されました。その救い主がイエス・キリストです。イエス様の十字架の犠牲を自分のためだと信じれば、救われます。
 ユダの民は、こんなにまで神様の恵みと愛を受けたにもかかわらず、神様に対して真実ではなく、正しくもありませんでした。神様を信じていないのでもなく、神様を無視しているわけでもありません。神様の御名を呼び求めていながら、神様に頼ることに誠実ではありませんでした。神様に対して従わない、御言葉通りしますと首を縦には振らないのです。
 そういう民が何と呼ばれていますか。4節。首筋は鉄の腱、額は青銅だというのです。どれほど頑ななのでしょうか。これを「うなじのこわい民」と聖書は言っています。出エジプト32:9。自己主張がどれほど強いのでしょうか。神様が最も嫌われる者でした。
 私たちも神様を信じています。御名を呼び求めます。でも、そうしながら真実に悔い改めるでしょうか。素直に従おうとするでしょうか。誠実に主に頼るのでしょうか。結局、自分の思い通りにしたい、自分のやり方を変えたくないという頑なさで、鉄の首筋になっていないか、省みたいのです。恵みで救われたことに甘んじて、いつの間にかわがままな自分教になっていることがあるからです。この世の論理、自分の肉の思いという偶像に惹かれていく危険があります。5節。自分がやった、自分の力だと言って、神様への感謝や信頼が失われるのです。
 神様が私たちに求めることは、何か立派にやったかではなく、私たちが神様の御前にどれほど誠実であるかということです。ミカ6:8。助けてくださいと呼び求めるなら、誠実に頼ってほしいということです。自分の肉の思いに頑なになるのではく、素直に悔いて、従うことです。「神様ごめんなさい。悔い改めて、従います。誠実に神様に頼ります」そのように、告白できることを願います。

U−新しい事、秘め事を聞かせる−6〜8
 こんな頑なでうなじのこわい民に対して、何と言っていますか。6〜8節。聞いた恵み見た恵みを、あなたがたは告げ知らせないのかと言っています。6節。無理もありません。神を信じていると言っても、誠実に拠り頼んでいないので、恵みを体験できていないのです。ですから、証しできないのです。残念です。
 それでも、見捨てず、顧みてくださいます。新しいことを、あなたの知らない事をあなたに聞かせると言われます。7節。これまで聞いたことのないことだと言うのです。8節。それは、何ですか。これまでは気付くことのなかった神様の恵みを語り、以前は想像もできなかった働きをするようになるということです。キュロス王によるバビロン捕囚からの解放は、まさにそういうことです。考えられないことです。
 神様は、逆らう者を見捨てたり、わがままな者を諦めたりしないで、本当に長く忍耐し、新しいものを、それも秘められたものまでも見せてくださるという御言葉です。何と慈愛に満ちた神様でしょうか。こんなお方に対して、頑ななままでいられますか。
 神様は、彼らがうなじのこわい、頑なな民であることは、すでに知っておられました。ずっと以前から、彼らが神様に対して裏切り者であり、背く者であることを知っておられたというのです。この民の歴史がそうだったのです。ずっとうなじのこわい民だったのです。私たちも過去を振り返ってみましょう。どこから頑なになっていたのか、どんな時にうなじのこわい民になったのでしょうか。素直に悔い改めができない、誠実に神様に頼らない、自分の肉の思いに頑ななになった自分、そんな私たちを神様はずっと知っておられ、だからイエス様の救いに導き、愛し、助けてくださいました。そうではなかったですか。
 7節では、「今、創造された」と言っています。新しい創造です。イエス様の十字架の犠牲による救いは、新しい創造です。ガラテヤ6:14〜15。神の子が人となって世に来られ、私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架に死なれ、三日目によみがえるという福音なんて、考えられないことでした。このイエス様の十字架の犠牲による救いを自分のためと信じることで救われるなんて、知らされるまでの秘め事でした。こんな救いがあるなんて、分かりませんでした。
 これが神様の知恵でした。人には想像も出来ないことでしたが、神が人を救うために取られた恵みの方法でした。人の努力や知恵によることではないので、十字架による救いの方法を愚かに思うかもしれません。どんなに素晴らしい恵みなのか分からず、頑なに退けてしまうのは、愚かなことです。果たして、私たちは新しく創造されているでしょうか。イエス様の十字架の犠牲を信じて救われた者は、罪赦され、新しい命を与えられて、新しくされて生きて行くようになります。

V−わたしのため、わたしのために−9〜11
 神様は、バビロンで捕囚になっていたユダの民を解放して、帰還させてくださるのですが、どうしてそうしてくださるのでしょうか。恵みの神は、ここでもすごいです。9節。神様の栄誉のためだというのです。徹底的に救いは神の恵みです。ヨハネ10:28〜29。私たちに何があっても、この信仰の恵みから落ちることはないということです。神様がご自分の名誉のためにそうしてくださるからです。ご自分の御名のためにというのです。この恵みに感謝しておられますか。
 確かに、ユダの民は自分の罪のためにバビロン捕囚という辛い目にあいました。しかし、ここにも、神様の恵みがあります。10節。この不思議な表現、「錬ったが銀のようにではない、苦しみの炉であなたを試した」とは、どういうことなのでしょうか。
 聖書には、神様に背き、偶像を拝む民を戒め、懲らしめることについて、しばしば「銀を精錬するように神の民を錬る」と表現されています。詩篇66:10。「苦しみの炉」と言うのも、彼らが悩み苦しむことによって、頑なさが砕かれるということです。銀が純銀になるためには、何度も何度も精錬しなければなりません。神の民は試練にあいますが、それによって聖められ、神の民になりました。私たちも、様々な試練にあい、苦しめられますが、それによって練られ、純粋な銀のようにされるのです。試練にあったことも無駄ではなく、恵みとなります。詩篇119:71。
 なぜ、銀の精錬のたとえがここでは「錬ったが、銀のようにではない」というのでしょうか。銀を精錬する時には、たくさんの金滓(かなかす)が出ます。箴言25:4。本来神の民として、諸国民の間で銀のように光耀くはずでしたが、神様に背き、偶像を拝む民は、金かすのような存在となってしまいました。エゼキエル22:18。ところが、神様は、金かすのような神の民を見捨てず、銀のように扱ってくださるというのです。
 ややもすれば、自分勝手になって神に背を向け、肉の思いで頑なになる私たちも、金かすのような存在ですが、高価な銀に変えてくださるのです。どれだけ恵み深い神様でしょうか。
 どうして、これほど顧みて、恵みで扱ってくださるのでしょうか。私たちの側に何かあるのでしょうか。いいえ、何と言っていますか。11節。「わたしのため、わたしのために」そうすると繰り返し、強調しています。なぜ、神の民を、私たちを回復させてくださるのは、神様ご自身のためだと言われるのです。神様の恵みの約束のゆえに、忍耐してくださり、回復させてくださるのです。
 たとえ私たちが肉の思いに頑なになり、神様に背を向けたとしても見捨てないのは、神様ご自身のためだというのです。ですから、どんなになっても、神様に立ち返って来るのです。神様の愛と恵みが計り知れないものであることを感謝します。詩篇66:10。



イザヤ48:1 これを聞け、ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、【主】の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、真実をもってせず、また正義をもってしない。
48:2 実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名は万軍の【主】であるイスラエルの神に寄りかかっている。
48:3 「かつて起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出て、わたしはそれらを聞かせた。にわかにわたしは行い、それは成就した。
48:4 あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、
48:5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とかあなたが言わないようにするためだ。
48:6 あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。
48:7 それは今、創造された。ずっと前からではない。今日まで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないようにするためだ。
48:8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたが必ず裏切ることを、母の胎内にいる時から背く者と呼ばれていることを知っていたからだ。
48:9 わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、わたしはあなたを断ち滅ぼさなかった。
48:10 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。
48:11 わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。


エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

出エジプト32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

Tコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ガラテヤ6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

ヨハネ10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

詩篇66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

エゼキエル22:18 「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。

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