2023年9月17日「耳を傾けてさえいれば」イザヤ48:12〜22

序−誰でも、平安がほしい、平安になりたいと願います。でも、難しい、問題は起こるし、物事はうまく行かない。平安になるって、そんなに簡単なことではないと思います。しかし、今日の箇所では、御言葉に耳を傾けてさえいれば平安になるということです。そうです。そんな恵みを受け取るために、御言葉に耳を傾けましょう。

T−わたしに聞け−12〜16
 12節「わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。」と呼びかけられています。前回も学んだように、ヤコブは、ずる賢い人、利己的な人でした。しかし、神様と格闘して信仰の人に変えられて、イスラエルという名をいただきました。創世記32:28。ヤコブという呼びかけは、肉の本性をそのまま持つ人たちという指摘の言葉です。 私たち自身がどんな存在なのかを神様は知っています。でも、イエス様の十字架を信じて、罪赦され、新しい人になりました。神の子とされました。ヨハネ1:12。
 「あなたはヤコブですが、神であるわたしはイスラエルと呼んでいます」と言ってくださるのです。大きな恵みです。私たちはどのように新しい人になりましたか。神様の恵みです。イエス様の十字架と復活によって新しい命を得て、新しい人になったのです。新しい人になった人は、主であるわたしの言うことを聞きなさいと言われるのです。恵みを与えられた人は、恵みを与えてくださった方の言うことを聞かなければなりません。
 神様の言うことを聞くということは、神様がどういう方であるかを知るために聞くということです。12〜13節。神様は、初めであり終わりである方、すなわち変わることのない天地創造なるお方、永遠で万能である方なのです。肉の問題でも魂の問題でも人の問題でも物質の問題でもどんな問題でも,わたしに持って来て、わたしを信じて頼るようにしなさいと言われるのです。どんなに幸いなことでしょうか。
 14節では、「みな集まって聞け」と言っています。神様は、個人的に聞くことも喜んでくださいますが、兄弟姉妹が集まって御言葉を聞くことをもっと喜ばれます。なぜ教会ができたのでしょうか。一緒に礼拝して、御言葉を聞くためです。一人ひとりの信仰の働きも尊いですが、聖徒たちが集まって祈り、賛美、御言葉を聞く時に、より大きな信仰の働きが起こります。神様の言われることを聞くということは、信じるということです。何を信じなさいというのですか。14〜15節。「主に愛された者、彼」とは、バビロンを滅ぼし、ユダの民を捕囚から解放してくれるペルシア帝国のキュロス王のことです。イザヤ45:1。ユダの民を捕囚から解放するなんて、神の民であるべきだと考えるでしょう。しかし、神様のなさることは、人の思いを越え、世の人や物も用いられることを知らなければなりません。
 16節では、「わたしに近づいて、これを聞け」と言われます。よく聞こうとする時は、近づいて聞きますね。よく聞きなさいということです。集中してよく聞きなさいと言っているのです。イスラエルの歴史を見ると、ずっと預言者が遣わされて、神様の御言葉を伝えて来ました。ところが、神の民はよく聞こうとはしていませんでした。彼らは聞いていても、右から左へ流れて行くだけでした。御言葉に聞き従うことをしませんでした。その結果が、バビロン捕囚でした。
 主なる神様は、御言葉を通して様々なこと、私たちの生活のことまで語られておられます。御言葉の適用までよく聞かなければなりません。神様に近づいて、自分への適用をよく聞くようにするのです。「わたしに聞け、みな集まって聞け、わたしに近づいて聞け」と、畳み掛けるように神様の言われることを聞くように命じておられます。

U−解放、耳を傾けてさえいれば−17〜19
 神様に聞いて、御言葉をよく聞くと何があるのでしょうか。16節後半。「今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた」という不思議な一文があります。「私」とは、いったい誰でしょう。直接的には、14〜15節のキュロス王のことを指していると思われます。すでに45章で学んだように、「油そそがれた者キュロス」です。イザヤ45:1。キュロスがユダの民をバビロンから解放してくれるのです。
 しかし、「油注がれた者」とは、メシヤ、キリストということです。この箇所も、イエス様の預言ということになります。ですから、私たちにとっては、救い主イエス様を父なる神様が、御霊とともに遣わしてくださったということなのです。マタイ3:16〜17。14節のように、父なる神様は、イエス様を喜ばれたのです。バビロンに捕囚となっている神の民に解放者キュロスを遣わしてくださったように、罪と滅びに支配された私たちに、救い主イエス様を遣わしてくださったのです。どんなに感謝なことでしょう。
 イエス様が私たちの代わりに犠牲となって十字架にかかってくださったことを贖いと言います。代価を支払うという意味です。そのようにして、私たちを贖ってくださる神様は、どうしてくださるというのですか。17〜19節。放蕩息子のようなユダの民に対して、「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」と言われるのです。私たちは、御言葉は自分の都合に合わせて選択的に従うのではなく、全面的に従わなければなりません。
 バビロン捕囚になって、苦しみ絶望しているユダの民に対して、キュロスを遣わしてバビロンから解放し、エルサレムに導くと言われるのを聞いて信じたら、どうなりますか。18節。「平安は川のように」なるというのです。川のようにということは、平安が川のように続くということです。平安、シャロームとは、心が平安に満たされた状態になることです。イエス様の十字架の救いを信じたならば、私たちの心も平安になります。心にイエス様による平安が心に川にように流れます。
 それなのに、「なったであろうに、ないであろうに」という表現から、御言葉を聞かなかった者もいたことが分かります。憐れみ深い神様が備えてくださった救いを受けなければ、何の役にも立ちません。しかし、神様の御言葉に耳を傾けさえいれば、心に大きな平安が川のように流れるのです。イエス様が私のために十字架に犠牲となられたという福音を聞いて信じれば、たましいは平安へ導かれます。ヨハネ20:21。
 「わたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のようになる」という神様の憐れみに満ちた約束をしっかり握らなければなりません。川のような平安に心が満たされる条件は、御言葉に耳を傾けてさえいればです。詩篇81:13〜14。私たちは平安になりたいです。心に平安が川のように流れるように願います。

V−応答、バビロンから出よ−20〜22
 御言葉に耳を傾けるということは、御言葉に聞き従うということです。神様の命令に聞き従うなら、ユダの民はどうすべきなのでしょうか。20節。なぜ、「バビロンから出よ。カルデヤから逃れよ」と命じているのでしょうか。キュロス王を用いて、バビロン捕囚から解放すると教えても、バビロンに留まり、出ようとしない者がいたからです。バビロンがいい、バビロンでの生活に囚われていたからです。解放されることを願っていたのに、やっとエルサレムに戻ることができるのに、帰ろうとしないのです。そんな矛盾した心になっていた人もいたようです。悲惨な状態にいる人が、そこから逃れたいと思いながら、出ようとしないということがあります。その状態が長いと、出ることができるようになっても、出ないのです。
 イエス様の福音についても同じことが当てはまります。神様が御子イエス様を十字架の犠牲に渡して、信じる人々を救う福音を用意してくださったのに、そこから出ようとしないのです。そこから逃れようとしない人々がいるのです。解放を望み、救われることを願いながら、福音を聞こうとしないのです。
 自分のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださった。自分の罪と滅びの身代わりとなって、イエス様が犠牲となられた。それを信じるだけで、罪赦され、天国への命をいただき、平安が川のようになるのです。こんな素晴らしい福音を聞こうとしないで、罪の中に、苦しみや空しさの中に留まり続けるのでしょうか。あなたのバビロンから出よ、自分のカルデヤから逃れよと命じておられます。
 21節を読めば、出エジプト後の荒野での経験と分かるでしょう。バビロンから出ることを、エジプトから出ることになぞらえているのです。エジプトでの奴隷状態からの解放を願いながら、荒野での生活に不安がありました。最も苦しんだのが、水でした。岩から水を出して救ってくださいました。そのことを引用して、バビロンからも導き出してくださると約束しておられるのです。事実、キュロス王を用いて、敵の妨害から守り、エレサレム再建の手立てを講じてくれました。エズラ1:1〜8。
 私たちもそうです。イエス様を信じるなら、罪から解放され、新しい命が与えられ、平安に導かれるのです。どんなよい知らせでも、信じなければ救われません。どんな約束でも、応答しなければ、恵みを享受できません。バビロンから逃れよと言われても、罪の中にいる方がよいのでしょうか。肉の思いに留まり続けたいのでしょうか。そこを出てイエス様に来なければなりません。ヨハネ14:6。イエス様を通してでなければ、本当の平安はありません。イザヤ48:18。



イザヤ48:12 わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。
48:13 まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を延べ広げた。わたしが呼びかけると、それらはことごとく立ち上がる。
48:14みな集まって聞け。彼らのうち、だれがこれらのことを告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれることをバビロンに行う。主の御腕はカルデヤ人に向かう。
48:15 わたしが、このわたしが語り、彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる。
48:16 わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所では語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。」今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた。
48:17イスラエルの聖なる方、あなたを贖う主はこう言われる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。
48:19 あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになったであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」
48:20 バビロンから出よ。カルデヤから逃れよ。喜びの声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言え。
48:21 主が荒れ果てた地を通らせたときも、彼らは渇くことがなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させられた。
48:22 「悪しき者には平安がない」主はそう言われる。

マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

申命記6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。
6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

ヨハネ20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

詩篇81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道を歩いたなら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らに逆らう者に、手を下したのに。」

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。



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