2023年10月1日「あなたはわたしのしもべ」イザヤ49:1〜6

序−私たちは、「自分をどのような人と思っているか」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。自分が何者であるかを知らないと、他人と比較して、自分の価値と自我像を決めてしまいます。大変残念なことです。今日の箇所には、神のしもべとしての自我像が教えられています。

T−選ばれ、呼ばれた者−1〜3,5節
 今日の箇所に出て来る「私」とは誰かと言われています。預言者イザヤを指している、最終的にはイエス様を示していると言われていますが、神の民である私たち一人一人にも及んでいます。最初の神のしもべとしての自我像は、自分は神から呼ばれた者、神に選ばれた者であるということです。1,5節。神は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた、選ばれたというのです。
 私たちは、どんな自我像を持っているのでしょうか。不健康な自我像を持つ人は、疎外感や劣等感を持ち、心の傷を持っています。このような否定的な思いでは、健康な自我像で生きることはできません。多くの人々が、自分のプライドの基を持っているもの、家や財産、才能や知識などに置こうとしています。それらがなければ、自尊心を持つことができません。環境や条件に恵まれなければ、劣等感や敗北感に陥ることになります。しかし、聖書では、そうではないと教えています。たとえ何もないとしても、神から選ばれ、召し出されているということに自尊心の基を置かなければなりません。
 イエス様は、「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」と言ってくださいました。ヨハネ15:16。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言ってくださいます。イザヤ43:4。私たちは、そういう存在なのです。私たちの自尊心の基は、ここにあります。敗北感、被害者意識を捨てなければなりません。イエス様を信じて救われた者は、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」なのです。Tペテロ2:9。
 自分がどんな人かという自我像が人生を決めます。自分が偶然に生まれたと思う人は、自尊心が低く、確かな自我像がありません。自信喪失になりがちで、空しくなり、人生の意味を感じることができません。一方、自分は神様の特別なご計画があって生まれて来たと信じる人は、自尊心が高く、健全な自我像があるので、人生に問題が起きても、神様の自分に対するご計画を信じて、逆境の中でも、希望を持って生きることができます。
 神に選ばれ、呼ばれた神のしもべだと言われても、何もない、世の中で何ができるのかなどと思ってしまうでしょう。神に選ばれ、呼ばれたしもべについて、何と言っていますか。2〜3節。神のしもべを通して、神の栄光をあらわすと言っています。そのために、神のしもべには、霊的な武装をさせています。「鋭い剣、研ぎ澄まされた矢」にたとえられています。
 霊的な剣と矢とは、何のことでしょうか。もちろん、御言葉です。神の御言葉は、私たちを養う命の糧としてだけでなく、最も強力な武具です。ヘブル4:12。確かな自我像を持って生きていても、何かがあれば否定的悲観的な思いに陥ることがあります。試みを受ける時があります。その時、私たちが取るべき態度は、問題や世ばかり見るのではなく、主に立ち返り、御言葉の約束を握ることです。ヨハネ16:33。

U−否定的思いにならず、神様へ信頼する−4節
 確かに、この神のしもべも、否定的な思いを吐露しています。4節前半。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」と言うのです。私たちも、このような否定的な愚痴や文句を吐き出すことがないでしょうか。一生懸命頑張ったけど、無駄骨だった。疲れきって、空しさに覆われることがあります。そのままだったら、ますます否定的、悲観的なループに陥ることでしょう。
 4節後半を見ましょう。「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報いは私の神とともにある」と告白しています。一時的には否定的な思いになることもあるでしょう。しかし、否定的な考えにいつまでも囚われてはなりません。自分の思いを神様に向けなければなりません。人は思うように話し、言うように行動し、行動するような人になると言われます。ですから、私たちがどのように思い、どのように考えるかということは、とても重要なのです。
 「主とともにあり、神とともにある」というのは、神への信頼であり、神に委ねていることを表しています。「それでも私はすべてを主の御手に委ねます。 私は神が自分に報酬を与えてくださることを信頼します」という英訳もあります。神のしもべであれば、神様を信頼し、主に委ねるということが当然必要です。自分が頑張ったことで無駄であると見えたとしても、人から評価されなかったとしても、頑張ったことが神様とともにあればいいのです。神様に用いられてしたことであればいいのです。
 私たちが問題ばかり見ると、問題は大きくなり、信仰は小さくなります。そうすると不安や心配が増加し、否定的、悲観的な思いに覆われます。しかし、私たちが神様を見て、主に頼ると、信仰が大きくなり、希望や確信が増します。私たちが御言葉の養育を受ける目的の一つは、そのような変化が自分のうちに起こるようにすることです。私たちは、御言葉に聞き従い、神に拠り頼む生活ができるように養育されなければなりません。そうすると、御言葉によって、神のしもべとして生きるすべを見つけるようになります。
 私たちが、神のしもべとしての自尊心を持つようになるなら、神のしもべとしての賜物の管理者という自我像に目が開かれることになります。神のしもべとしての管理者の認識がない場合、「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」という思いでいっぱいになります。倦み疲れてしまいます。人は、自分の持っているものを誇りますが、それは無駄なことです。すべての賜物は神様から預けられたものであり、自分が所有者ではないからです。
 イエス様の十字架の犠牲は私のため、罪と滅びから救うためだと信じて、救われた者は、神のしもべとされて、神様から賜物と働きを与えられています。Tペテロ4:10。賜物の管理者は、忠実であることが要求されます。Tコリント4:2。こういうことを、神のしもべとしてのスチュワードシップと言います。自分について神の賜物の管理者としての自我像がありますか。自分は神からの賜物の管理者だという自尊心を持ってください。

V−神の使命に生きる−5〜6節
 ここからどのように生きるか、どのように働くかということが出て来ます。クリスチャンであれば、会社員であろうと学生であろうと主婦であろうと、誰でもそれぞれに与えられた賜物を用いて人々に仕える使命が与えられています。まず、自分はどんな賜物が与えられているのか、どんな働きをもって人々に仕えて行くのか考えてみてください。それが分かったなら、御霊に導かれて、歩み出してみましょう。
 神のしもべの働きは、何よりも福音を知らせることです。イザヤ52:7。良い知らせを伝える人の足は美しいと言われています。5〜6節を見てください。神が私たちを選び、召し出された目的が「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」ためだと教えています。神様は、ユダの民をバビロン捕囚からエルサレムに帰還させるのは、神の民を通して、諸国の人々を救うためだというのです。
 何と素晴らしい神様のご計画でしょうか。神が、遠大なご計画をもって私たちを選び、私たちを呼ばれたのは、福音を証しさせるためだったというのです。使徒パウロも、この節を引用して、これが自分の使命であると証ししています。使徒13:47。
 クリスチャンがどのような立場にいようとも、どんな生活をしていようとも、神様からそこに遣わされ、その立場や生活を通して福音を証しする使命が与えられているということです。突然福音を聞いてという人はまれです。多くの人が福音に生きるクリスチャンに出会って、福音に引かれ、求めるようになります。人生の問題に出会いながら、教会を尋ね、聖徒たちに出会い、福音を聞くようになります。
 そうです。神のしもべである私たちは何と言われていますか。神によって「国々の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者」とされたというのです。これが、私たちの自我像です。何と素晴らしい存在でしょうか。世にあって神のしもべの存在は大事です。世は暗いです。人々が暗さの中にさまよっています。私たちが光とされており、救いをもたらす者とされているのです。
 私にはそんな力は、そんな大した者ではと退いてしまうでしょうか。神のしもべである私は、何と言っていますか。5節。「私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた」と言っています。自分がどう思おうと神様は私を重んじておられるのです。神様が私の力となられ、後ろ盾となってくださるのです。詩篇18:1。神のしもべとして働き、学び、生活して行くなら、その私たちを神様が重んじ、私たちの力となってくださいます。神に呼ばれ、使命と力を与えられた神のしもべの自我像をもって、神様に任された使命に忠実な者となることを願います。Tペテロ2:9。



イザヤ49:1 島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいた時から私の名を呼ばれた。
49:2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。
49:3 そして、私は言った。「あなたはわたしのしもべ、イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
49:4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、空しく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報酬は私の神とともにある。」
49:5 今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。
49:6 主はこう言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちに残されている者たちを帰らせるという、小さなことだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」


ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

使徒13:47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

詩篇18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
18:2主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
18:3 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

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