2023年11月5日「弟子の舌と弟子の耳」イザヤ50:1〜11

序−私たちは、社会の中に生きていますので、色々な人に関わります。勝手な人や横暴な人とも関わることになります。そんな時、私たちは、悩んだり、苦しんだりします。主の弟子としてどのように対していけばよいのでしょうか。私たちは、社会にあって、どのような者として生かされているのでしょうか。今日の箇所の神のしもべの姿から学びます。

T−勝手な人々に遣わされる弟子−1〜5
 神のしもべは、バビロン捕囚に遣わされているのですが、彼らはバビロン捕囚になっていることを神のせいにして文句を言っています。1節。これは、たとえですね。イスラエルが妻で神様が夫ということで、バビロン捕囚のことを、神様がイスラエルを離婚して追い出したと言っているのです。私たちを神様がバビロンに売ったと言っているのです。もちろん、彼らは、自分たちの咎のために、バビロンに捕囚になり、自分たちの背きの罪のためにエルサレムから追い出されたのです。つまり、彼らは自分勝手なことを言っているのです。自分の都合の良いように言うのです。
 2節でも同じことです。神様は自分たちがバビロンに攻められた時来てくれなかった、神の手が短くて自分たちを助けられなかったのだ、自分たちを救い出す力がなかったのだと勝手なことを言っていました。神様に不満をぶつけ、神様を軽んじています。そうです。こういう人々は自分の非を認めず、勝手なことを言うのです。人を侮り、他人のせいにするのです。私たちもそういう目にあうときがあるでしょう。そんな人々と関わると悩み、疲れてしまいます。ですから、このしもべに学びます。
 困っていた神のしもべ「私」に対して、神様はこう言われました。4節。神様が神のしもべに「弟子の舌と弟子の耳を与えられた」というのです。神のしもべの働きは、神様から聞いた御言葉を伝えて、疲れた者に勇気と希望を与え、励ますことにありました。弟子と訳された原語は、教えられた者、学んだ者ということで弟子と訳されています。ですから、師である神様から御言葉を良く聞いて、悟る者でなければなりません。イエス様を信じて救われた私たちも、主の弟子です。ヨハネ8:31, マタイ28:19。
 神のしもべの姿であったイエス様は、人として育った時、会堂で学ばれました。公生涯にあっても、父なる神様から聞くことを常にしておられ、人々に御言葉を伝えられました。子どもたちが御言葉を読むようにすれば、弟子の耳と弟子の舌を持つようになります。神様も、学ぼうとする者には、弟子の舌も、弟子の耳も与えてくださいます。イエス様は、いつも父なる神と親密な交わりを持っておられました。御言葉を聞いて、御言葉に従い、神様から離れませんでした。
 どうして、弟子の舌と弟子の耳と言われているのでしょうか。弟子は、師から聞いて学び、それを実践する者だからです。御言葉に生きて証しするためには、よく御言葉に聞かなければなりません。御言葉を聞いたならば伝えるのです。私たちができる最高の助けは、御言葉の適用に生きることができるように助けてあげることです。イエス様のように、傷ついた心、罪に疲れたたましい、苦しみに悩まされている人々を慰め癒す真理の御言葉を伝えることができます。ですから、私たちが聖書を読んだり、説教を聞いたりする時、よく聞くことができるように弟子の耳を与えてくださいと祈ります。
 イエス様は、御父から聞いたことを教えてくださいました。ヨハネ15:15。弟子の耳が与えられない場合、弟子のように語ることはできません。肉の思いで議論するだけです。ややもすると、捕囚の民のように、好き勝手なことを言うようになり、自分の都合の良いように主張することになります。御言葉を学ぼうとする者には、弟子の耳も、弟子の舌も与えてくださいます。私たちは、御言葉を聞くだけで満足するのではなく、御言葉の適用を求めて、それを分かち合い、御言葉で人を助けるのです。

U−打たれても、侮辱されても、−5〜6
 そのような弟子の舌と弟子の耳を与えられた神のしもべが、自分勝手な民に遣わされて、どのように対して行くのでしょうか。勝手な人や横暴な人とも関わる私たちの参考となるでしょう。5〜6節。このしもべの姿勢に注目しましょう。しもべは、御言葉に逆らったり、御言葉を退けたりせず、御言葉に聞き従いました。自分を打つ者、自分を侮辱する者のなすがままに任せました。唾をかけるというのは今日も侮辱ですが、ひげを抜くというのは当時の神の民にとって最大の侮辱でした。
 問題は、私たちがそんな侮辱に耐えられないことです。私たちの肉のプライドが傷つけられ、自分が否定されるのは、耐え難いと思うからです。いや、怒りや憎しみさえ生じるのです。それで、自分の怒りや憤慨の思いを、自分を侮辱し、酷くあたる人に対して吐き出したくなるでしょう。しかし、もし私たちが、勝手な人や横暴な人に怒りをぶつけたり、侮辱をし返したりするなら、私たちも、同じく愚か者です。
 イエス様はどうされましたか。イエス様は、私たちの罪の赦しと救いのために十字架にかかられました。救い主として十字架の道を進まれました。人々の嘲りを受け、唾をかけられ、打ち叩かれました。イエス様は、そのような人々に対して、どのようにされましたか。嘲りや侮辱に対しても、黙々と受けられました。そんな彼らの赦しのために、とりなしの祈りさえされました。ルカ23:34。
 私たちは、社会で不当な扱いを受けたり、 攻撃と非難を受けて苦しみ、侮辱を受けて悔しい思いをしたりするでしょう。私たちが勝手な人や横暴な人とも関わることで、もし侮辱され、嘲りを受けたとしたら、イエス様の姿を思い出しましょう。当然のごとく怒ったり、悔しさに覆われることから離されるでしょう。イエス様の姿は、私たちへの模範として示されています。Tペテロ2:19〜23。イエス様は誰のためにそうされたのですか。
 それでも、攻撃や侮辱にただ耐えるというイメージを持つかもしれません。なぜ、神のしもべは、打たれても、侮辱されても、されるにまかせられたのですか。どうして、そのような態度を取ることができたのですか。5節に「神である主は、私の耳を開いてくださった」とあります。御言葉を聞いて、御言葉が心に留まり、御言葉で整えられ、御言葉で生きるようにされていたからです。弟子の耳と弟子の舌は、従順の道を進むことができるようにしてくれるのです。ピリピ2:12。
 牢に入れられたパウロは、牢の中で祈るだけでなく、賛美までしていました。使徒16:25。苦しみや逆境の中でも、恨んだり、怒ったりすることなく、勝利できるのだという信仰があったからです。ヨハネ16:33。

V−神である主が私を助けてくださる−7〜11
 ですから、何と言われていますか。7〜9節。「神である主が私を助けてくださる」という確信があったから、侮辱や嘲りに耐え、評価されなくても、しもべの使命を果たすことができたのです。
 「自分が恥を見ないことを知っている」というのですが、侮辱や嘲りを受けても、自分は評価されない、否定されている、恥だとは思わないということです。侮辱し、辛く当たる者に揺さぶられないで「顔を火打石のように」堅くして、侮辱に耐えられるということです。エゼキエル3:9。なぜなら、正しく裁かれる神がともにおられるのですから、主が戦ってくださるからです。8節,U歴代32:8。イエス様が十字架にかけられ、多くの恥辱を受けられましたが、十字架の死から復活され、勝利の冠を受けられました。
 9節でも、「神である主が私を助けてくださる」と繰り返し、強調しています。神のしもべに敵する者は、結局は神様に敵するのと同じです。どんなに侮辱されても、どんなに損な状況にされたとしても、イエス様を十字架に渡すほどに愛してくださった神様が私の味方なのだから、誰が敵対できるだろうかと確信できるのです。ローマ8:31。不利な状況でも、逆境の中でも、諦めずに祈りながら、歩むことができるのです。
 そのためには、弟子の舌と弟子の耳を持たなければなりません。そして、謙遜に御言葉に聞き従うことが必要です。10節。「あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか」とは、まさに弟子の耳を持つ者のことです。暗やみの中を歩いて光がなかったとしても、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼む者です。私たちが確認させられるのは、苦難にあうことが問題なのではなくて、苦難の中でどのように対処するかが問題だということです。勝手な人や横暴な人がいることも問題であるが、それよりも、私たちがどう対処するかが、問題なのです。
 もし私たちが苦難の中で自分に拠り頼んでいるのなら、11節のようになるでしょう。松明を持っているつもりでも、それは「燃えさし」燃え残りに過ぎないということです。長く燃えることなく、すぐに消えてしまうということです。
 私たちの賛美を受けるのにふさわしい神様に感謝します。 私たちに一人子イエス様を送ってくださって、私たちを救い、愛を知らせてくださったことを感謝します。私たちの耳を開いてくださって御言葉を聞かせ、私たちの口を開いてくださって主を賛美し、証しさせてくださることを感謝します。どのような状況の中でも、私たちが落胆したり悲観したりすることなく、神の助けと勝利を信頼し、神様に拠り頼む者となることを願います。弟子の舌をもって人々を励ます者となることを祈ります。イザヤ50:4。



イザヤ50:1 主はこう仰せられる。「わたしがあなたがたの母を追い出したという離婚状はどこにあるか。わたしがあなたがたを売ったという、わたしの債権者とはだれなのか。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、自分たちの背きのために母は追い出されたのだ。
50:2 なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか。見よ。わたしは、叱って海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。
50:3 わたしは天を闇でおおい、粗布をその覆いとする。」
50:4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
50:5 神である主は、私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
50:6 打つ者に背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。
50:7 しかし、神である主は私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。
50:8 私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、共に立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。
50:9 見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。
50:10 あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。暗やみの中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
50:11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことは、わたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは苦悶の場所で伏し倒れる。


ヨハネ8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

Tペテロ 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。


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