2023年12月3日「シオンを慰め、廃墟を慰めて」イザヤ51:1〜8

序−聖書には、慰めの言葉がたくさん出て来ます。それだけ私たちには、慰めが必要だということです。人は、ひどい状況になれば落胆し、それがどうにもならないように見えるならば、苦しくて、辛くて、悲しくなります。そんな思いが続くならば、体や心まで痛んでしまいます。私たちも、御言葉を通して慰めを受けなければなりません。

T−過去のあわれみを思い出しなさい−1〜3
 まず、慰めを受けることができる人はどんな人なのかが教えられています。1節前半。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。」と呼びかけています。私たちは、主なる神を信頼し、神様の御業を求める者でしょうか。そうであるならば、神様の慰めを聞くことができるということです。神様に信頼し、拠り頼む者に、神様はどのように慰めてくださるのでしょうか。
 一つ目の慰めは、過去のあわれみを思い出させることです。1〜2節。アブラハムは、イスラエルという民の先祖です。しかし、神に選び出されたアブラハムも、はじめは「切り出された岩、掘り出された穴」つまり、採石場から切り出されたばかりの未加工の素材と同じだったというのです。神様は、一介の羊飼いに過ぎないアブラハムを呼び出して、導き、年を取ったアブラハムとサラからイスラエルという民族を起こしてくださいました。過去にこれほどのことをしてくださった神様は、これからもそうしてくださる、民を捕囚から解放して戻してくださるという慰めです。問題に陥った時、過去を振り返り、神のあわれみと恵みを思い出しましょう。
 イエス様も、同じことを言われました。マタイ3:9。神様は、最も粗末な素材からでも、恵みの傑作を作り出すことができるということを教えています。切り出された岩に過ぎない私たちに対しても、そのようにしてくださるというのです。恵みで加工されて、霊的に造り変えられて、用いられるのです。何という恵みでしょうか。
 廃墟からの回復という慰めがあります。3節。シオンとはエルサレムのことです。バビロンに破壊され、荒廃しているエルサレムもエデンの園のようにされるという慰めです。将来の約束なのに、「慰める」という動詞は強意の完了形として記されています。それほど、神の約束は確かだということです。事実、後にバビロンを滅ぼしたペルシヤ帝国のキュロス王によって、神の民は捕囚から解放され、エルサレムを再建することになります。エズラ1:1〜3。ここに、大きな慰めがあります。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声とがあります。詩篇40:2〜3。
 私たちにとっては、歴史的な事実です。ですから、困難な問題であろうとも、心配しないようにというのです。私たちの人生にも、様々な問題が生じて来ます。問題によって悩み、痛み、悲惨な状態になることもあるでしょう。でも、そんな荒廃したような状態からも回復させてくださいます。神は私たちとともにおられ、私たちを見守っておられます。 大変で難しくても、その中で神様は働いておられるというのです。
 人生を振り返ってみてください。問題に翻弄された時も守られたこと、困難を乗り越えさせていただいたこと、一つ一つ神様が働いてくださった恵みを思い出すことができます。これからも私たちの人生にどんな問題が生じて来るか分かりませんが、その時には過去に神様が守り、導き、助けてくださったことを思い出して、神様の取り扱いを確信し、導きを待ち望みましょう。ピリピ4:6。
 私たちは、様々なことで心配します。問題があるから心配するのではありません。自分でどうにかしようかとするから、心配になるのです。私たちは自分で生きているように思っていますが、そうではありません。私たちは主の民、神の子どもとされて、神様に生かされている者です。ですから、祈って問題を神様に知っていただくのです。自分も取り組みますが、困難な問題を神様に委ねます。そうすれば、自分の理解を超えた神の平安によって守られるようになります。
 苦しみを通して神の慰めを受けたヒゼキヤ王は、私の苦しんだ苦しみは平安のためでしたと証ししています。イザヤ38:17。

U−救いは確かです−4〜6
 二つ目の慰めは、神の救いは確かだということです。4〜6節。神様の義とは、神様の正しい裁き、確かな救いということです。義が近い、神の救いが現れるとは、神の民にすれば捕囚から解放されるということでした。私たちは、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかられたという大きな救いの恵みを信じることで、慰めを受けます。罪に囚われ、滅び行くたましいをあわれんでくださり、神は私たちを救うために一人子イエス様を犠牲とされました。この救いを信じてください。
 神様のことを考えるのに、人は自分の考えの中に入れようとします。天地のことがすべて自分の頭の中に入りますか。宇宙のことすべて理解できますか。私たちは、私たちを愛して、御子を通して救ってくださるという神様を信じるだけです。ヨハネ3:16。神の御子が人となって世に来られ、私たちの罪を背負って十字架に苦しみ、死なれたということは、どんなに感謝すべことでしょうか。イエス様の十字架の犠牲による救いを信じる時、私たちの心は平安になり、大きな慰めを受けます。少しでもこの救いを疑うならば、私たちは心配になり、不安になってしまうでしょう。
 捕囚になっていた神の民は、不満や疑問がありました。なぜ、神様は私たちをこんな目に合わすのか、どうして私たちを苦しめるバビロンをそのままにしておかれるのか、私たちを見捨てられたのかという思いです。こんな思いで嘆きながら神様に訴えたのが、預言者ハバククです。ハバクク1:2,13。でも、神様の答えを聞いて、疑いから解放されました。ハバクク2:1〜3,3:18。平安と慰めが与えられました。
 私たちも同じようにされます。問題を持って、神様に訴えましょう。嘆いて、聞いてもらいましょう。神の救いは確かです。不安や疑問を抱いたなら、神様に心を向けてください。御言葉に耳を傾けてください。神の導きを待ち望み、期待してください。慰めが与えられます。救い主イエス様を与えられたのですから、確かです。ローマ8:32。

V−他人の言動に狼狽しない−7〜8
 三つ目の慰めは、人を恐れなくていいということです。7〜8節。ここでも、再び「義を知る者たちよ、わたしに聞け」と、慰めを受ける者が誰かということを明らかにしています。イエス様の救いを信じていますか。御言葉が心に入っていますか。神の慰めを受けてください。
 捕囚にある民は、自分たちの悲惨な状態について嘆き、苦しんでいたのに、それに対してそしりやののしりを受けることがとても辛いものでした。問題で苦しみ、悩んでいるのに、それについて批判や嘲りを受けるのは、とても辛く、悲しいことです。私たちが人生を歩む時、人との交わりに恵まれ、助けを受けることは喜びであり、感謝です。しかし、人々からそしりやののしりを受けることもあります。他人の言動によって、心を乱され、心が傷付くことがあります。悩んだり、落ち込んだりします。ですから、人々の言動に狼狽しないでいられるなら、慰めを受けることができます。なぜ、人のそしりを恐れないで、ののしりにくじけないでいられるのでしょうか。気付かないうちに虫が服を食べてしまうように、知らないうちに神様が取り扱われるということです。神は、ご自分の民をそしり、ののしる者をそのままにしておかないのです。
 神様がご自分の民に辛くあたる者に対処してくださるのですから、私たちは神様に委ねて、もう他人のそしりやののしりを恐れないでいい、心騒がせないでいいというのです。他人の言動に心痛め、悩まされる者に、慰めと平安が与えられます。衣の虫食いは、知らずに行われることです。神様のなさることは分からないかもしれませんが、神様の方法で神様の時に働いてくださいます。天地を造られ、裁かれる神を私たちは畏れています。それならば、人を恐れる必要はありません。マタイ10:28。
 この信仰を持っていたパウロは、こう証ししています。Tコリント4:3。他人の勝手な判定や評価は小さいこと、自分で自分を裁くことさえしないと言っています。神様が自分を判定し、裁く方だからです。パウロは、他人の誹謗も褒め言葉も、人の口から出てくるものに関心を置いていませんでした。神様の評価と裁きを覚える者は、他人に褒められても木に登らないし、他人から誹謗されても落胆することはありません。
 神様は、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる」と言われます。8節。神の義と救いは対をなしています。神様は正しく裁かれる方です。ですから、人の罪は裁かれなければなりませんが、同時に神は人を愛しあわれんでくださいました。それで、人々を救うために、犠牲という代価を必要としました。それを、難しい言葉で贖いと言います。そのために、ご自分の一人子イエス様を私たちの身代わりに十字架にされたのです。Tペテロ2:24。
 ここに、私たちへの慰めの土台があります。ですから、救いの恵みを受ければ受けるほど、神様の御言葉に耳を傾け、神様に注目して生きるようになります。 問題にあう度に、神様の慰めを受けることができることを願います。イザヤ51:3。



イザヤ51:1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。
51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼一人を呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼を増やしたのだ。
51:3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声とがある。
51:4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしの裁きを諸国の民の光と定めるからだ。
51:5 わたしの義は近ぃ、わたしの救いは現れた。わたしの腕は諸国の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に期待をかける。
51:6 目を天に上げよ。また、下の地を見よ。まことに天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者はブヨのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。
51:7 義を知る者たちよ、わたしに聞け。心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
51:8 まことに、シミが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。」


ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

イザヤ38:17 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。

Tコリント4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

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