2023年12月31日「ご自分の民を弁護する神」イザヤ51:17〜23

序−9節に続いて17節でも、「目覚めよ、目覚めよ」と言っています。しかし、9節は人が神に対してであり、17節は神が人に対してそう言っています。それも、同じ動詞なのですが、9節では基本形であるのに、17節では強意の命令形となっています。なぜ、同じ言葉がこれほど表現も対象も違っているのでしょうか。

T−目覚めよ、目覚めよ。立ち上がれ−17〜20
 9節では、捕囚の民たちが神様に対して「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ。主の御腕よ。目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように」と言っていました。イザヤ51:9。神様、どうか目覚めてくださって、昔私たちに力を与えてくださったように助けてくださいと言っていました。それに対して、17節では、神様が民に対して「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ」と、強く命じておられます。訳し出すのは難しいのですが、とにかく、神様は強く命じているのだと覚えましょう。目覚めるべきは、民よ、あなたがたではないか。と言っておられるのです。
 捕囚になった原因は、神に背を向け、御言葉に聞き従わなかった民たちにあるのに、神様が私たちを見捨てられたと文句を言っていたのです。9節。私たちを助けてくださらない神は眠っているのかと言っていたのです。なんて失礼なことでしょう。でも、現代の神の民も、苦境に陥るとそんなことを言ってしまうことがあります。目覚めて、立ち上がれと言われているエルサレムは、苦難によって落ち込んで、酔った者のように、気を失い茫然として横たわっているとみなされています。人は、問題や苦難に出あうと、意気消沈して、落ち込んでしまうことがあります。
 神様に対して目を覚ましてくださいと言っていた民に対して、神様は、あなたたちこそ目覚めて、立ち上がって、現状をよくみなさいと強く言われたのです。苦難が続いているということです。17〜20節。「憤りの杯を飲み、大杯を飲み干した」とは、堕落して偶像に仕えた民が、そのために国が滅び、捕囚になったことです。18節の彼女とはエルサレムのことで、民が勝手なことばかりするので、真の指導者がいなくなって、滅んでしまったということです。結局、暴行と破滅、飢饉と剣が民を襲ったのです。そして、民は苦しみ絶望し、気力を失い、倒れて伏してしまいました。苦難と問題が続くと、心が弱くなり、立ち上がることができなくなってしまうのです。
 では、エルサレムが破壊され、捕囚になったことは、神のせいなのでしょうか。そうなるようにさせてしまった神様の責任なのでしょうか。エルサレムが憤りの杯を受けないように、神様がどれだけ預言者を送っても、聞きませんでした。民が神様を捨てたのです。何か問題が起きた時、神が私を見捨てたなどと騒ぐのでなく、どうしてこのようになってしまったのか考えてみなさいというのです。問題が生じた場合は、原因がどこにあるのか、神様を求め、悔い改め、自分の中で探さなければなりません。
 民が受けた苦難を「大杯を飲み干した」と言っているのですが、まるで酔って分からなくなっているように、問題や苦難で判断が定まらず、倒れて文句を言っているようでした。21節。酔う人が世間や人に対して管を巻いても、人が聞いてくれないように、神のせいにして、文句を言う民のことを誰が聞いてくれるだろうかと言っています。19節。
 人はどうしても、誰かのせい、出来事のせいにしがちなのですが、自分の中に何かを見つけることができます。「私は問題もなく良かったのに、こんなことになるのが神様の御心なのか」というのは、正しい判断ではありません。自分の中に答えを探してみます。 自分の中に神様の答えを見つけると、問題解決は速いです。

U−どのようにして、あなたを慰めようか−19,21〜23
 確かに民も、自分の責任にも目を留めない自分たちに対して、目覚めよと言われてしまうのは分かっています。しかし、問題が重なり、苦しんでいるのに、自分を顧みてみろ、自分に原因があるのではと言われては、身も蓋もないでしょう。神様も、自業自得だと見放しているわけではありません。19節後半を見てください。「どのようにして、あなたを慰めようか」と言われています。何と言うおことばでしょうか。そうです。責めているのではありません。目を覚まして、立ち上がれ。苦しいことは続いているけれども、わたし、神は見捨ててはいない。助ける、守ると言われておられるのです。詩篇121:1〜2。
 17〜20節の苦難も、神は、彼らの現状を知っている、民の苦しみをご存知だということなのです。これも、神様の慰めです。人に悩みを聞いてもらうだけでも、心は少し楽になるものです。ですから、苦難の中で神への不信を抱くよりも、その苦しみの状況を神に訴え、聞いてもらうようにするのです。私たちは、苦難の中で神に頼り、神を信頼しなければなりません。 そうする時、神様の慰めと平安が私たちに臨みます。
 私たちも,霊的な意味で神の民です。ですから、問題で悩み、苦しむ私たちには、神様の助けを求めることができます。 苦難の中で苦しむ時は、その原因がどこから来たのかを誠実に祈り、慎重に見つけなければなりません。 そして悔い改めるならば、罠から脱け出させてくださいます。
 民が目を覚まして、「私たちがこんなに間違っていたので、こういうことが生じたのです」と悟るようになれば、神様はどうしてくださるのでしょうか。神様は、慰めの言葉を与えてくださいます。21〜23節。
 まず、御言葉を聞けば、慰めを受けることができます。21節。問題で悩んでいる場合、問題で翻弄されて酔っているようになっていても、何もできなくなっているわけではありません。御言葉を読み、聞くことができます。心に慰めを受けようと望むならば、御言葉を読みましょう。御言葉を黙想しながら、祈ってください。神の慰めが臨むようになります。イザヤ40:1〜2。御言葉には、私たちの痛んだ心を癒す力があることを信じてください。ヘブル4:12。
 二つ目に、悔い改めて、主に信頼する民は憤りの杯を飲むことはないという慰めを与えています。22節。ただし、もう二度と苦難は来ないと言っているわけではありません。事実、後に背信のエルサレムは、ローマによって滅ぼされ、破壊されてしまいます。ですから、御言葉の恵みに応じて、もう憤りの大杯を飲むようなことはしないと決めるのです。約束の御言葉をにぎって、神様に拠り頼むならば、御言葉の約束が臨みます。
 三つ目は、民を悩ます者たちに神様が対処してくださるという慰めです。23節。バビロンはユダの民を懲らしめる神の道具であるという事実を忘れて、民を無慈悲に踏みつけました。 神様の御心を知らず、誇って行動したバビロンに憤りの大杯が臨むようになります。ですから、たとえ私たち神様を信じる者が世の嘲笑と侮辱を受けたとしても、希望を持たなければならなりません。ローマ12:19。信仰の人々を傷める者には、神が対処してくださるのですから、悪者の力や富を羨ましく思わないでください。ユダの民に臨んだ神の御手は懲らしめの御手でしたが、バビロンに臨んだ神の御手は裁きの御手でした。 バビロンはその後歴史の中に消えてしまいました。

V−ご自分の民を弁護するあなたの神−22
 22節で「よろめかす杯取り上げた。憤りの大杯をもう二度と飲むことはない」と約束されています。この杯は、神の御怒りを象徴しています。17節。やがて、神の憤りの杯を罪人の代わりに飲んでくださる救い主が来られます。贖い主がこの杯を飲むことで御言葉の約束が実現します。イエス様は、ご自分が贖い主として十字架にかけられることを「父がわたしにくださった杯」と言っておられます。ヨハネ18:11。
 そして、いよいよ十字架にかけられる前日オリーブ山で、イエス様はこの杯を飲むこと、すなわち十字架にかかられることがどれほど辛く恐ろしいものであるかを表しておられます。マタイ26:39,42。イエス様が私たちの代わりに十字架に犠牲となられたことを覚えて聖餐式で杯を飲む時、イエス様が憤りの杯を飲んでくださったことを覚えましょう。
 慰め深い神様は、22節で「主、ご自分の民を弁護するあなたの神」と言われています。弁護すると訳された言葉は、「努力する、争う」という意味の言葉です。そういう意味での弁護なのです。「わたしがこの人の身代わりになって罪の罰を受けます。どうかこの人を赦してください」と必死に懇願してくれるのです。私たちには、御父の前でとりなし、弁護してくださる方がいます。私たちのために十字架に犠牲となられた義なるイエス・キリストです。Tヨハネ2:1〜2。様々な社会の問題において弁護士が付いていれば、どれほど安心して心強いことしょうか。私たちに、主が弁護士となって問題があっても守ってくださるなら、どれほど信仰の人生は平安なことでしょうか。これこそ、本当の慰めです。
 神様は、今もご自分に拠り頼む者たちに訪ねて来られて、慰めてくださり、大胆な信仰を与えて、苦難の中でも信仰で勝利させてくださるお方です。ヨハネ14:27。イエス様の救いは、私たちに平安を与えてくださいます。ですから、イエス様を信じて救われた私たちは、問題に心騒がせてはなりません。苦難にひるんではなりません。 新しい年も、神の慰めとイエス・キリストの平安が私たちの生活を満たしてくださることを、イエス・キリストの名で祈ります。Tヨハネ2:1〜2。
 


イザヤ51:17 目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは、主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。
51:18 彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者はなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者はない。
51:19 これら二つのことがあなたを見舞った。だれがあなたのために嘆くだろうか。暴行と破滅、飢饉と剣。どのようにして、あなたを慰めようか。
51:20 あなたの子らは気を失い、すべての通りで倒れ伏す。網にかかった大かもしかのように。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめが満ちている。
51:21 それゆえ、さあ、これを聞け。苦しむ者よ、酔っていても酒のせいでない者よ。
51:22 あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。
51:23 わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らはかつてあなたに『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言った。それで、あなたは背中を地面のようにし、また歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのに任せた。」


イザヤ51:9 目覚めよ。目覚めよ。力をまとえ。主の御腕よ。目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。

詩篇121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヨハネ18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

マタイ26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

Tヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したならば、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体のための宥めの供え物です。

ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

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