小グループで聖書を学ぶ
2 行かないのは思いやり(Uコリント1:12〜24)

「心の門を開いて」

 人間関係でよく問題になるのが、どうして相手は分かってくれないのか、自分は正しいことをしているのになぜ、というような場合です。それで心を痛めたり、憤慨したりします。こじれることもあります。使徒パウロと一部のコリント教会の聖徒たちもそのような関係になっていたようです。どんな導きが教えられているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔こう」

1 パウロは誤解され、狡猾だ、裏表があると批判されていました。パウロの行動は、いい加減で、不誠実だと責められました。そのような批判を受けて、どんなに心が痛み、悲しんだことでしょうか。私たちも、誤解され、批判され、悪く言われたなら、心が傷つき、暗澹たる思いになるでしょう。パウロは、まずどんな弁明をしていますか。
・12節/


2 「神の恵みによって行動している」とは、神様の御心を求め、神の導きによって、誠実に行動しているということです。あなたは、聖霊の導きを求めて計画を立てたり、行動しようとしていますか。問題や出来事について、肉の思いで反応するのではなく、御言葉の価値観によって反応することをこころがけていますか。
・Tコリント3:10/
・ピリピ2:13/

3 私たちが様々な出来事について、どうして相手は分かってくれないのか、自分は正しいことしているのになぜこうなのだと憤慨したり、心を痛めたりすることがあります。パウロも、一部のコリントの人たちに理解されていなかったと記しています。それがどうしてコリント教会の問題になったのですか。何が起こったと考えられますか。
・イザヤ29:21/
・13〜14節/

4 パウロは、「恵みを二度受けたい」ために、コリントを二度訪問する計画に変更しました。これを肉の思いで受け止め、考えると、どのように反応すると考えられますか。「しかり」と同時に「否」というのは、いい加減だということの表現です。
・15〜17節/
・Tコリント16:1〜6/

5 パウロは、良かれと思って計画を変更しました。しかし、パウロを誤解し歓迎しない一部の人々は、パウロはいい加減で、不誠実だ、何か裏がある、狡猾だと言い出したようです。このようなことは、私たちが置かれている現場でもよく起こることです。あなたの経験を分かち合ってください。



6 そのような様子を聞いて、パウロは、どんなにか心を痛め、憤慨もしたと思われます。しかし、パウロは、神様の御心と導きを求めて祈り、思いめぐらしました。その結果、パウロの心は、誤解し、批判する人々に対する思いが変えられました。彼らをどういう者だと言っていますか。
・21〜22節/
・ヨハネ14:16〜17, エペソ1:13〜14

7 パウロは、自分に文句を言っている人々、誤解している人たちを、まぎれもなく救われて、聖霊が内住しているクリスチャンだ、と言っています。自分を批判している、分からず屋であっても、彼らのためにイエス様が十字架にかかってくださった、と言っているのです。パウロは、心を痛め、悔しい思いをしながらも、神の御心を求めて祈り、思い巡らしていたら、この思いが心に入って来たのです。その中でパウロは、かつての自分の姿も思い出したはずです。どんなことですか。
・使徒9:1〜6, 26〜28/
・Tテモテ1:15〜16/

8 正しいことだと思ってクリスチャンを迫害していた自分を、神様は愛し、赦してくださった恵みを思い出したでしょう。そうしている内に、傷ついて、憤慨していたパウロの心が静まって来ました。コリントの人々の心と態度を受け止め、自分がそれに寄り添う思いになりました。結局、パウロの心は、どんなことへ導かれましたか。それは、コリントの人々へのどんな思いからだと証ししていますか。
・23〜24節/


9 彼らを思いやるパウロの心は、訪問をしばし中断するという計画変更へ導かれました。パウロを悩ました彼らも、「信仰に立っている」と認めています。自分は彼らの信仰の喜びのために働く協力者だとまで言っています。ここには、彼らに対するパウロの愛と赦しがあふれています。これに接するコリントの人たちは、どうなると思いますか。


「命の実を刈り取ろう」

 相手がそれを理解できないなら、彼らの心情を「思いやり」、計画を変更することも「神の恵みによる行動」でした。自分の思いに固執しない姿がここにあります。主にあってすることは、気まぐれでも、迎合するのでもありません。信仰的「思いやり」です。彼らには、時間が必要でした。すぐに行かないことで、その間に彼らの心は聖霊によって整えられて行ったことでしょう。きょうの学びを通して受けた導きや示唆を分かち合いましょう。

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