小グループで聖書を学ぶ
21 分量を越えて誇らない (Uコリント10:7〜18)

「心の門を開いて」

 プライドの高い人と仕事をすると嫌になるが、自分に誇りを持っている人とは働きやすいと多くの人が言うそうです。どんな違いがあるのでしょう。プライドとか自慢などは、私たちの人間関係において問題の起こる原因となっています。どのように受け止め、考えればいいのでしょうか。パウロと反対者の姿から学びます。


「御言葉の種を蒔こう」

1 きょうの内容の背景には、パウロは使徒ではないと批判し、パウロを悪く言う人々がいたということがあります。パウロは、12使徒の一人ではありませんが、異邦人への使徒として召された人です。使徒9:15。でも、イエス様を見たことのあるユダヤ人がコリントに来て、パウロは使徒ではない、私たちこそ弟子だと騒いでいたというのです。パウロをどのように言っていますか。なぜ、彼らはそのようなことをしたのでしょうか。
・7〜8,10節/


2 反対者たちが、パウロは使徒ではないと批判し、パウロの容貌まで悪く言っていたのは、自分たちの優越感のためです。もし、あなたを悪く言い、けなす人がいたとしたら、その人自身のプライドのためにそうしているかもしれません。健全に自分に誇りを持っている人なら、むやみに人をけなしたりしません。足りないのなら助けようとし、失敗したら励ますでしょう。どう思いますか。



3 コリントの人たちの間違いを指摘するパウロの手紙は、彼らの心には痛かったようです。そこに付け入って、反対者たちは10節のような批判をしたようです。反対者たちは、コリントの聖徒たちを扇動しようとして、パウロをあざけり、批判しています。こういうことから、私たちが気をつけなければならないことはどのようなことでしょうか。
・Tテモテ5:13,/
・Tペテロ2:21〜23/

4 私たちも、あざけられ、さげすまれることがあるでしょう。そうしたら、意気消沈し、自分も自分をそのように思うかもしれません。しかし、私たちは、どのような者なのでしょうか。どういう尊い存在なのでしょうか。私たちは、自分をどう見るべきですか。(参考/イザヤ43:4,ローマ8:31〜32)


5 反対者がパウロをこれほどに侮辱し、権威を否定したのは、自分を引き上げ、自分が偉ぶるためでした。パウロを侮辱し、彼の権威を否定する者たちは、自分たち自身については、どのようにしていますか。なぜ人は、そのようにするのでしょうか。
・12節/


6 13節の「限度を越えて」「量って」「限度内で」と12節の「量ったり」には、「尺度、分量、ものさし」という意味の同種の言葉が使われています。なぜ、自分の「分量」以上に自慢してはいけないと言うのですか。分量をわきまえようと言うのですか。
・13節/
・Tコリント12:11,25, ガラテヤ6:4〜5/

7 様々な人間関係を見ると、自慢したり、比べたり、妬んだりしています。私たちは、どうでしょうか。パウロは、人と張り合ったり、比べたりするのは、知恵のないこと、愚かなことだと言っています。反対者たちがそうするのは、自分のものさししかないからです。彼らは、間違ったものさしで量っていたのです。私たちの持つべきものさし、尺度は何ですか。誰を基準として自分を量ることがよいのですか。
・17〜18節/
・マタイ25:20〜23/

8 イエス様こそ私たちのものさしであり、尺度です。イエス様を基準として自分を量るとき、高ぶりの気持ちなど入って来る余地はありません。主から与えられた賜物で、導かれた領域において忠実になして行くことが大切です。私たちが求めるべきは、人の称賛でもなく自画自賛でもなく、「よくやった」と言ってくださるイエス様のお言葉です。パウロを批判する人々は、自分の領域を越えてコリントまで来たと批判していましたが、パウロは何と答えていますか。
・14〜16節/
・ガラテヤ2:7〜9, 使徒19:21/

9 15,16節の「領域」と同じ言葉が、13節の「神が割り当ててくださった限度内」の「内」にも使われています。つまり、主が割り当ててくださった領域が、一人一人にあるということです。それによって、パウロはコリントで宣教し、ローマまで行こうとしています。まったく反対者に揺さぶられていません。あなたの割り当てられた領域は何ですか。今どんな反対に出会っていますか。回復しなければならない領域はどこまでですか。


「命の実を刈り取ろう」

 自分に委ねられた領域のために真心から主に願い、祈りましょう。主に推薦されている自覚が、私たちのよって立つところです。私を救い、私を導き、私を用いてくださるイエス様を自慢します。今日の箇所から気付かされたこと、導かれた、励まされたことは何ですか。

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