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24 無駄でない労苦 (Uコリント11:21〜33)

「心の門を開いて」

 人は、誰でも何かを自慢したがるようです。あれもこれも自慢します。苦労したことまで自慢します。でも、労苦とは、私たちにとって何でしょうか。自慢の種なのでしょうか。使徒パウロの証しから学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ユダヤからコリントに来た教師たちが、盛んに自分たちを自慢していました。それで、パウロは、仕方なく愚かになって彼らと同じことを自慢してみせています。どんな自慢ですか。
・21〜22節/


2 ヘブル人というのは、ユダヤの文化を固守していました。イスラエル人というのは、神の選民という意味です。アブラハムの子孫とは、神様から受けた祝福の約束の相続人だという自負です。ユダヤから来た偽教師たちは、このブランドを自慢していたのですが、パウロは、本当はどう思っていたのですか。
・ピリピ3:4〜7/


3 かつては人間的なものに頼んでいたけれども、私はキリストのゆえに、損と思うようになったと証ししています。そんな自慢は、イエス様の十字架の前には色あせてしまったと言っているのです。あなたにとって、どんなことが肉のプライドになっていますか。それに固執していたために、憤慨したり、がっかりしたり、疲れたりしたことはありませんか。



4 パウロが「彼ら以上にそうなのです」と自慢しているのは、何ですか。なぜ、そう言えるのですか。そう言える根拠は何ですか。
・23節/


5 キリストのしもべのしるしは「労苦」だというのですが、パウロは、どんな労苦をしたのでしょうか。パウロが受けた労苦のリストが列挙されています。それぞれどんな種類の労苦ですか。それぞれの種類において、あなたが思い出す労苦は何ですか。
・23〜25a節/
・26節/
・27節/

6 人は、たいてい自分中心に考え、自分の満足ばかり考えやすいものです。しかし、不思議なことに、イエス様に救われた者は、人の助けやたましいの救いのために労苦するようになります。イエス様からそのような心が与えられるからです。外から来る苦難と労苦が多くあったにもかかわらず、パウロの心をとらえていたことは何でしょう。
・28節/
・使徒20:35/

7 これらの労苦や苦難の列挙を見ると、パウロが英雄かのように思えるでしょう。人は、労苦したことを自慢し、これだけ労苦したといばるかもしれません。あるいは、苦難や労苦に心が曲げられ、人生が荒れてしまうこともあるでしょう。しかし、パウロは、それらを何と言っていますか。それは、どういうことですか。
・29〜30節/


8 クリスチャンにとって、労苦や苦難は、自分の頑張りを誇るものではなく、弱さを知って、主に拠り頼み、守られたことを感謝する機会なのです。神様は私の弱さをご存知だということを知ることが、私たちが倒れない秘訣であり、人を傷つけない道です。自分の弱さを知る人が、長く主のことをするようになります。そのために、回心したばかりの具体的な事件を取上げています。どんな事件ですか。
・32〜33節
・使徒9:21〜25/

9 この最初の迫害と苦難の経験は、消すことのできない屈辱的な傷となりました。これらの苦難と労苦のリストは、彼がキリストのしもべとして、キリストのために受けた労苦の傷痕なのです。ジョン・バンヤンの天路歴程に出て来る真理の勇者氏は、神のもとに行かねばならぬことを知った時、こう言っています。「わたしの剣は、私に続く者に残して行きましょう。私の勇気も。しかし、私の傷あとだけは、私が主の戦いをよく戦ったしるしとして、たずさえて行くつもりです」。これを読んで、思うことは何ですか。


「命の実を刈り取ろう」

 パウロも、イエス様に出会う前は、ユダヤ人としての誇りをもって、それを自慢していました。しかし、イエス様に出会った後は、そのような自慢は捨てました。誇るものは何もなくなりました。信仰は、信じたことで終わりではありません。私たちの信仰の成長が重要です。パウロが受けた労苦と苦難の列挙は、人々の救いがどれほど大切であり、人のたましいの成長にとって労苦が有益であることを示しています。信仰の歩みのための労苦が、私たちを霊的に成長させ、主にあって無駄ではないことを知っているからです。今日の学びにおいて、気付かされたことや導きを受けたこと分かち合いましょう。Tコリント15:58。

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