小グループで聖書を学ぶ

26 霊的成長の望み(Uコリント12:11〜21)

「心の門を開いて」

 イエス様を信じ、クリスチャンになるということはどういうことでしょうか。クリスチャンの方は、信仰告白をして、洗礼を受けることと言うでしょうか。クリスチャンでない方は、生き方が変わり、品性が整えられるように思うでしょう。信じただけに留まらず、信じた後の歩みが大切であることをこの箇所から学びましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 人は、外見が立派で自分を主張する者を権威ある者に見るのですが、パウロを見る人は、外見と謙遜な態度を見て、実力も能力もないと判断し、侮りました。パウロは、そのために、愚かになって、どんなことを言っていますか。
・11〜12節/


2 反対者たちの扇動によって、コリントの人々は、パウロの使徒性を認めず、誤解をして、批判していました。「あの人は、使徒のような権威はない。弱々しく、話しぶりはなっていない」などです。私たちも経験することです。人から認められず、侮られるならば、苦々しく思うでしょう。パウロ自身は、自分をどういう存在だと見ていたのでしょうか。
・Tテモテ1:15,ピリピ3:6/
・ローマ8:31〜32,イザヤ43:4/

3 パウロは、彼らを愛して、仕えたにもかかわらず、彼らから認められませんでした。批判や侮りも受けました。それでも、怒ることなく、忍耐を尽したと証しするだけでした。あなたは、人の評価に揺れ動いていませんか。私たちは、誰の認定を求めるべきですか。どういう原理を持つべきですか。
・Tコリント4:3〜4/


4 パウロは、三度目のコリント訪問にふれています。その時、コリント教会に対して持っていた態度は、どういうものでしたか。
・14〜15節/


5 コリントの人たちは知性的であり、弁舌はよくできるし、社会的地位もあるのですが、霊的幼子でした。実際問題になると、肉の人があらわになります。問題や事件を信仰的に受け止められず、肉の思いで受け止め、ねたみ、争い、噂話をしていたようです。彼らを愛し、負担をかけまいと配慮してくれたパウロをどのように言うようになりましたか。
・16〜17節/


6 エルサレム献金問題に関連して、コリントの聖徒たちは、パウロに対して、自分たちからだまし取った、自分たちを欺いたと言っていました。彼らの心の中には、どれほど傷が多くて、疑いが多かったのでしょうか。商業の町で有名でしたから、商売で騙されたことがあり、憎んだり、疑ったりすることが習性になっていたのかもしれません。このような心を直すことのできるものは何ですか。
・Tペテロ4:8,2:24


7 これまでのパウロの言っていることは、自己弁護と受け取られるでしょう。コリントの人々の評価や判定を求めているわけではありません。何のために愚かになってここまで言っているのでしょうか。「築き上げる」(オイコドメオー)は、建て上げる(オイコドメオー)という言葉から、信仰の建て上げ、霊的成長、徳を高めるなどを意味するようになりました。
・19節/
・エペソ4:12,ローマ14:19,15:2 /

8 オイコドメオーという言葉は、信じた後の霊的成長、霊的造り変えを象徴する言葉です。パウロは、愛するコリントの聖徒たちの霊的成長が望みなのです。コリントの人たちは知性的であり、能力も社会的地位もあるけれども、霊的幼子でした。そのために、パウロは、反対者たちの扇動によって、霊的幼子のようなコリントの聖徒が、どのような姿になることを心配したのですか。
・20〜21節/


9 イエス様を信じてクリスチャンになっても、新しく造り変えられ始めたにすぎません。いつでも古い人に戻ろうとする誘惑があります。こういう心配を伝えることで、試みや誘惑に打ち勝ち、霊的成長が滞っていることに気付いてもらおうとしたのです。肉の姿のリストと下記の箇所を比べて思うことを分かち合いましょう。
・Uコリント5:17/
・コロサイ3:9〜10

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、互いに成長したいのです。イエス様に救われた時から、新しい人としての成長が始まっています。霊的造り変えが始まりました。私たちはそれを意識することが大事です。神の御子イエス様は、私たちがそのまま罪に支配されて、古い人、肉の人として生きるために、十字架にかかられたのでしょうか。自分のために神の御子イエス様が犠牲を払われたことの尊さと恵みの重さを思う時、御国に召される時まで造り変えられ続け、新しい人となって人生を豊かに素晴らしく生きたいと願わずにはいられません。今日の学びを通して、発見したこと、心に示されたことは何ですか。エペソ4:16

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